第25話:安寧
遺跡の奥は、息を潜めたように静まり返っていた。
風の音さえ遠く、崩れた石柱や半ば埋もれた床には、古代文字らしき紋様がいくつも刻まれている。
その中心で、古代装置だけが淡い青白い光を放ち、一定の間隔で静かに脈動していた。
まるで、眠りながら呼吸をしている生き物のようだった。
騎士たちが周囲を警戒する中、ミレイユはゆっくりと装置へ近づいていく。
その瞬間、ふっと身体から力が抜けそうになった。
(……っ)
疲労ではない。
足が重くなったわけでも、身体が動かなくなったわけでもない。
ただ、何かに抗おうとする意思そのものが、静かに薄れていく。
「ミレイユ」
低い声が届き、ミレイユは小さく息を吸い直した。
「……大丈夫です」
そう答えたものの、完全な強がりというわけではなかった。
砂漠で遭遇した装置のように、精神を押し潰すような圧力は感じない。
むしろ、その逆だった。
抗う必要などない。
怒る必要も、恐れる必要も、焦る必要もない。
すべてを手放してしまえばいい。
まるで、そんなふうに優しく囁きかけられているようだった。
ミレイユは装置を見つめる。
青白い光が静かに揺れる中、その奥にほんのわずかな空白があることに気づいた。
「……石板が、ありません」
その言葉に、騎士の一人が反応する。
「存在しないのか?」
「いえ……」
ミレイユはゆっくりと首を振った。
「そこにあるはずのものが、欠けているように感じます」
本来なら、対になる石板が存在しているはずだった。
しかし、それは見当たらない。
それにもかかわらず、装置は完全に停止しているわけではなく、眠りかけたような弱い脈動を続けている。
「……共鳴か」
アロイスが低く呟く。
ミレイユも頷いた。
砂漠の装置と王国の装置。
これまでに起動した二つの装置から広がった影響を受け、この装置もまた、浅い眠りから目を覚ましかけているのだろう。
完全な起動ではない。
だからこそ、余計に不気味だった。
石板がなく、起動させる者もいない。
それなのに、装置は人間の感情へ干渉している。
ミレイユは、ゆっくりと手を伸ばした。
指先が装置に触れた瞬間、世界が静かに沈んだ。
音が遠ざかり、周囲の気配が薄れていく。
それと同時に、自分の中にある感情までもが少しずつ輪郭を失っていった。
最初に薄れていったのは、痛みだった。
九歳の秋。
母が亡くなった日の記憶が、霧の向こうへ遠ざかっていく。
冷たくなった指先も、閉ざされた棺も、泣き声すら飲み込んだ静かな夜も、少しずつ色を失っていった。
父は悲しんでいるようには見えなかった。
幼いながらに、自分は愛されていないのだと理解した瞬間だった。
あの孤独さえ、今は消えようとしている。
続いて浮かんだのは、伯爵家での日々だった。
後妻が入り、少しずつ周囲の人間が遠ざけられていった。
家庭教師も、乳母も、仕えてくれていたメイドも、一人、また一人と屋敷から姿を消していく。
広い屋敷に残されたのは、静かな廊下と誰もいない食堂、そして小さな手で洗い続けた食器だった。
冬の冷たい水が、あかぎれだらけの指へ沁みる。
空腹のまま眠った夜もあった。
閉じ込められた部屋で、「あなたは、必要ない」と吐き捨てられたこともあった。
苦しかった。
痛かった。
消えてしまえば、どれほど楽なのだろうと思ったことも、一度や二度ではない。
けれど、その記憶さえも装置は静かに奪っていく。
(……違う)
ミレイユの指先が、わずかに震えた。
それでも装置は止まらない。
王立魔術師団で向けられた視線が蘇る。
魔術学院も出ていないくせに、と陰で囁かれた言葉。
王女付き魔術師という異例の抜擢を歓迎しない者たちの視線。
笑顔の裏に引かれていた見えない線。
それらも、ゆっくりと薄れていった。
けれど、そこにはレオニードがいた。
シルヴァンがいた。
リディアがいて、アルベルトがいた。
共に過ごした時間があった。
そして、皇立魔術研究所で感じた孤立もまた、静かに遠ざかっていく。
離された席。必要最低限しか交わされない言葉。
触れられることすら避けるような沈黙。
冷たい視線。
それらすべてが、少しずつ消えていく。
装置の脈動が強くなった。
優しく、穏やかに。
まるで、「忘れてしまえば楽になれる」と囁くように。
そのときだった。
苦しみの記憶だけではなく、その奥にあった別のものまで薄れていることに、ミレイユは気づいた。
「起きてるー?」
クロウレイの間延びした声。
薬草の匂い。
窓辺に積まれた本。
温め直されたスープ。
眠ってしまった夜、気づけば掛けられていた毛布。
救い出されてから、ずっとそこにあった居場所。
そして、公爵家での日々が浮かぶ。
騒がしい食卓。
マルガレーテの大きな声。
ライナーの大騒ぎ。
エドガーの冷静な呆れ顔。
ルドルフの静かな気遣い。
その中心にいる、アロイス。
低い声。
無駄のない動き。
支えてくれた腕。
隣にいるときに感じる、確かな温度。
気づけば、以前とは違う意味で意識するようになっていた存在。
まだ名前をつけられない感情。
それさえも、静かに消えかけている。
(……嫌)
その瞬間、初めてはっきりと思った。
忘れたくない。
消したくない。
苦しみだけではない。
悲しみだけでもない。
痛みも孤独も、そして温かさも。
そのすべてが繋がって、今の自分を形作っている。
穏やかなら、それでいいのだろうか。
苦しくなければ、痛みがなければ、それで本当に自分は自分のままでいられるのだろうか。
ミレイユの指先が震えた。
それに呼応するように、装置の脈動がさらに深くなる。
眠りへ誘うように。
すべてを手放させるように。
けれど、ミレイユは静かに目を閉じた。
抵抗するのではない。
この装置と争うのでもない。
自分の意識を深く沈め、その流れを捉える。
そして、眠らせる。
「……眠って」
小さな声は、祈りにも似ていた。
「あなたは、もう……起きてはいけない」
精神干渉の力が静かに広がっていく。
装置の波へ触れ、その流れに自らの意識を絡ませながら、少しずつ結び目をほどいていく。
やがて、青白い光が大きく揺れた。
空気が震え、騎士たちが息を呑む。
装置の脈動が乱れ、それまで一定だった光が明滅を繰り返す。
ミレイユはさらに深く意識を沈めた。
そして――ゆっくりと、光が弱まっていく。
長い夢の底へ沈んでいくように、装置の脈動は次第に小さくなり、最後には完全に途絶えた。
遺跡を満たしていた異様な気配も消える。
静寂が戻った。
その直後、ミレイユの身体が大きく揺らいだ。
視界が白く霞み、足から力が抜けていく。
倒れる。
そう思った瞬間、強い腕が身体を支えた。
「……っ」
アロイスだった。
片腕でしっかりと抱き支えられ、身体が落ちるのを防がれている。
鍛えられた腕の硬さと、すぐそばから伝わる体温が、ぼんやりとした意識の中でもはっきり分かった。
近い。
その感覚に触れた瞬間、胸の奥で、先ほどまで消えかけていた何かが再び熱を持つ。
名前は分からない。
正体も、まだ分からない。
けれど、さっき「消したくない」と願ったものが、確かにそこに残っていた。
ミレイユは霞む視界の中で、アロイスを見上げる。
アロイスはいつもの無表情のまま、ただ彼女の身体を支えていた。
「……終わったか」
低い声が落ちる。
ミレイユは小さく息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
その返事を聞くと、アロイスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、倒れないように支える腕だけは、そのまま動かなかった。
そしてミレイユの胸の奥には、さっきまで消されかけていた小さな熱が、確かなものとして残っていた。




