第24話:穏やかな異常
皇宮。
朝の光が差し込む執務室で、第一皇子は机上に並べられた報告書へ目を通していた。
いずれも、帝国西北部の山間地帯にある小規模な集落群について記されたものだった。
「……争いが消えた?」
低い呟きに、傍らに控えていた側近が頷く。
「はい。昨年まで頻発していた土地争いのほか、暴力沙汰や傷害事件も、ここ数か月で激減しております」
「治安が改善したという話ではないのか」
「それだけならば、問題はありません」
側近はそこで一度言葉を止めた。
何かを慎重に選ぶように視線を落とし、それから続ける。
「ですが……少々、異常なのです」
第一皇子が視線を上げる。
側近は別の報告書を一枚取り上げた。
「自警団の記録によれば、住民同士の口論そのものが、ほとんどなくなっています」
側近は一度言葉を切り、報告書へ目を落とした。
「酒場での乱闘も途絶えています。さらに妙なのは、山賊に襲われた際でさえ、住民たちが抵抗せず従っていることです」
「さらに、住民の多くに共通して見られる変化があります」
「何だ」
「怒りや焦燥といった感情が、極端に薄れているのです」
室内が静まり返った。
第一皇子はしばらく報告書を見つめていたが、やがてゆっくりと閉じる。
「……気味が悪いな」
率直な感想だった。
そのとき、壁際に控えていたヴァルターが小さく笑った。
「平和になった、と考えることもできますよ?」
軽い口調だったが、第一皇子は視線だけを向ける。
「平和と停滞は違う」
短い言葉だった。
ヴァルターは肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。
少し離れた場所では、第二皇子が二人のやり取りを静かに聞いている。
口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「興味深いね」
柔らかな声に、第一皇子が弟へ視線を向ける。
「心当たりでもあるのか」
「まさか」
返答はあまりにも自然だった。
けれど、その一瞬、ヴァルターだけは見逃さなかった。
第二皇子の指先が、机の上でほんのわずかに止まったことを。
第二皇子は何事もなかったように笑みを深める。
「感情が安定すること自体は、悪いことではないでしょう。争いのない土地というのは、誰にとっても理想的ですから」
「人は怒る」
第一皇子の声が低くなる。
「怒るからこそ、抵抗する。自分の意思に反するものへ声を上げる。それを失ったとき、人はまだ人間でいられるのか」
その言葉を受け、室内の空気がわずかに変わった。
ヴァルターは黙っている。
第二皇子はしばらく兄を見つめ、それからふっと笑った。
「兄上は、相変わらず厳しいですね」
「当然だ」
それ以上の言葉は交わされなかった。
やがて第一皇子は側近へ向き直る。
「調査隊を出す」
即断だった。
「シュタルク公爵を呼べ」
側近が頭を下げる。
「それと――」
第一皇子は一瞬だけ思案し、続けた。
「ロシュ・モンフォール嬢も同行させろ」
ヴァルターの目が、ほんのわずかに細まった。
一方、第二皇子は何も言わない。
ただ、どこか満足そうな笑みを浮かべていた。
まるで、その決定を待っていたかのように。
*
後刻。
皇宮の別室には、第二皇子とヴァルターだけが残っていた。
第二皇子は窓辺に立ち、眼下に広がる帝都を眺めている。
「兄上は勘が鋭い」
穏やかな声だった。
ヴァルターは壁へ寄りかかったまま、薄く笑う。
「さすがご兄弟ですね。殿下のことも、よくご存じでいらっしゃる」
第二皇子は否定しなかった。
「調査隊は止めないのですか?」
「止める理由がないよ」
答えは即座だった。
「むしろ、行ってもらわないと困る」
その視線は帝都を越え、はるか西北の山々へ向けられているようだった。
ヴァルターは少し考えてから、問いを重ねる。
「ロシュ・モンフォール嬢も?」
「もちろん」
第二皇子は迷いなく答えた。
「彼女が必要だ」
静かな声だった。
それだけに、その言葉には妙な重みがあった。
ヴァルターは楽しそうに目を細める。
「随分と、お気に入りですね。かくいう私も、彼女からは目が離せませんが」
第二皇子は窓ガラスに映る自分の顔を眺めた。
「確かめたいんだ」
その声から笑みが消える。
「おとぎ話の真実を」
ヴァルターの目が細くなる。
「犠牲を払ってでも?」
「痛いところを突くね」
第二皇子は穏やかに笑った。
けれど、その目は少しも笑っていない。
口調は軽い。
しかし、ヴァルターは知っている。
この男は、犠牲さえも結果の一つとして楽しめる。
しばらく沈黙が続いた。
やがて第二皇子は、窓の外を眺めたまま呟く。
「西北の件は、まだ始まりに過ぎない」
確信めいた声音だった。
「きっと見つかるよ」
そして、ほんの少しだけ笑う。
「次もね」
ヴァルターは何も答えなかった。
窓の外では、三日月が静かに帝都を照らしていた。
*
帝都を発って数日。
馬車は、緩やかな丘陵地帯へ差しかかっていた。
乾いた風が草原を渡り、その向こうには山々が連なっている。
草地の合間には小さな集落が点在しており、皇宮へ異常報告が上がっていたのも、この一帯だった。
「住民同士の争いが消えた」
「犯罪がなくなった」
「平和になった」
当初、それらは好ましい変化として受け止められていた。
しかし、調査が進むにつれて、別の報告も届くようになった。
誰も怒らない。
誰も泣かない。
子どもたちさえ騒がない。
馬車の窓から外を眺めながら、ミレイユはその異様な静けさを感じ取っていた。
一見すれば、穏やかな土地だった。
けれど、人々の感情があまりにも希薄なのだ。
(……薄い)
人の存在が薄いわけではない。
その内側にある感情の揺らぎが、ほとんど感じられない。
向かいに座るアロイスが、短く問いかけた。
「感じるか」
ミレイユは目を伏せ、意識を集中させる。
「……はい」
しばらく感覚を探ったあと、静かに答えた。
「装置です」
その一言で、車内の空気が変わった。
同行している騎士たちも表情を引き締める。
砂漠での一件を経験した彼らにとって、古代装置はもはや単なる遺物ではない。
人の心を変え、意思を奪い、場合によっては国そのものを脅かしかねない存在だった。
やがて馬車は、小さな集落へ入っていった。
山の斜面に沿って石造りや煉瓦造りの家々が並び、煙突からは細い煙が立ち上っている。
一見すると、何の変哲もない穏やかな村だった。
しかし、馬車を降りた騎士の一人が周囲を見回し、小さく呟く。
「……妙ですね」
道を行き交う住民たちは、皆穏やかな表情を浮かべている。
怒鳴り声はない。
慌ただしく走る者もいない。
市場では静かに品物が並べられ、子どもたちは整然と座って遊んでいた。
静かすぎる。
本来なら聞こえてくるはずの子ども特有の喧騒すらない。
老人たちもまた、夢の中にいるような穏やかな笑みを浮かべている。
そこへ、一人の村人が近づいてきた。
「ようこそ、お客様方」
柔らかな声と笑顔。
けれど、その瞳はほとんど動かなかった。
ミレイユには、それが分かる。
感情の波が薄い。
「旅の方ですか?」
「ああ、少し調査をな」
アロイスが簡潔に答えると、男は穏やかに頷いた。
「そうですか。ここは良い村ですよ」
笑顔は変わらない。
「皆、穏やかですから」
その言葉を聞いた瞬間、ミレイユの背筋を冷たいものが走った。
“穏やか”。
本来なら、決して悪い言葉ではない。
けれど、この村では意味が違う。
怒りも、悲しみも、焦燥も、すべてが削ぎ落とされている。
だから争いが起きない。
だから犯罪も減る。
だから、平和に見える。
けれど、それは――。
(……人間らしくない)
ミレイユは、無意識に拳を握った。
そのとき、胸の奥が微かに疼く。
古代装置へ触れた者だけが感じる、あの感覚だった。
呼ばれているような。
どこかへ引かれているような。
ミレイユはゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、山間部のさらに奥があった。
馬車では進めそうにない、険しい山道の先。
「……あちらです」
アロイスがミレイユの指す方向へ視線を向ける。
険しい斜面と岩場が続いている。
騎士の一人が眉を寄せた。
「馬車では難しいでしょう」
「ああ」
アロイスは即座に判断した。
「馬で行く」
すぐに指示が飛ぶ。
「五名同行。残りはここで待機しろ」
騎士たちが準備を始める。
その間も、ミレイユは山の奥から伝わってくる気配を探っていた。
近い。
確実に近づいている。
あそこにある。
「ミレイユ」
アロイスの声に振り返ると、すでに馬が用意されていた。
けれど、山道を見た瞬間、ミレイユはわずかに息を止めた。
平地とは違う。
岩場も多く、傾斜も急だ。
道幅の狭い場所もあり、以前の乗馬経験だけでは少し不安が残る。
その様子を見て、アロイスが言った。
「前に乗れ」
「……え?」
思わず聞き返す。
「お前は探知に集中しろ。馬の操作は俺がする」
あまりにも当然のように言うので、ミレイユは一瞬だけ言葉を失った。
合理的な判断なのだろう。
そう理解しながらも、先ほどまでの乗馬の記憶が蘇り、わずかに意識してしまう。
「……分かりました」
ミレイユは馬へ近づき、慎重に鞍へ跨った。
その前へアロイスが乗り込む。
手綱を取るために伸びた両腕が、自然とミレイユの身体の左右を囲んだ。
背中へ伝わる確かな体温と、すぐ後ろから聞こえる静かな呼吸に、ミレイユの意識が一瞬だけそちらへ向く。
先日の夜会のあと、偶然目にした彼の姿が脳裏をよぎった。
鍛え抜かれた身体。
戦場を生き抜いてきた者だけが持つ、鋭く無駄のない存在感。
思い出した途端、鼓動がほんの少しだけ速くなる。
(……今は、それどころではありません)
ミレイユは小さく息を吐き、意識を切り替えた。
「行くぞ」
耳元に低い声が響く。
同時に馬がゆっくりと歩き出し、一行は山道へ入っていった。
*
平地とは比べものにならないほど馬体が揺れる。
それでもアロイスの手綱捌きには無駄がなかった。
危険な岩場では速度を落とし、道幅の狭い場所では馬の向きを微調整しながら、まるで地形そのものを読んでいるかのように進んでいく。
ミレイユはその動きを感じながら、少しずつ意識を内側へ沈めていった。
装置。
残滓。
波長。
砂漠で触れたときとは、明らかに違う。
もっと静かで、もっと深い。
眠っているような気配なのに、確実に人の精神へ干渉している。
山道を進むにつれて、風が冷たくなっていく。
木々も次第に深くなり、視界が狭まっていく。
そのとき、ミレイユがふと目を見開いた。
「……近いです」
声に反応するように、一行の空気が張り詰める。
騎士たちも周囲へ視線を走らせた。
妙な静けさが広がっている。
鳥の声がない。
風が木々を揺らす音だけが、一定の間隔で響いていた。
さらに奥へ進む。
やがて木々が途切れ、視界が開けた。
山肌の奥に、崩れかけた石造遺跡が姿を現す。
半ば土砂に埋もれ、長い年月の中で忘れ去られたような古代建造物だった。
その中心に、淡い青白い光が見える。
ミレイユは馬上から息を呑んだ。
静かな脈動を繰り返す、巨大な装置。
砂漠で見たものとも、王国で確認したものとも異なる。
けれど、その本質だけは同じだった。
古代装置。
青白い光がゆっくりと脈打つたび、周囲の空気までが静かに揺れる。
まるで、そこにいる者たちを眠りへ誘うように。
ミレイユは、その光から目を離せなかった。
(……これが)
新たに見つかった、第三の装置だった。




