第23話:最適解
ライナーが小さく笑った、その少し後。
同じ中庭では、エドガーが変わらぬ手つきで書類を処理していた。
ペン先は淀みなく紙の上を走り、積み上げられた書類は一枚ずつ確実に片付いていく。
その手は止めないまま、視線だけがわずかに上がる。
アロイスは変化していた。
ほんの僅か。
だが、確実に。
(……無駄が増えた)
一見すれば非合理。
しかし、そうではない。
正確には――これまで切り捨ててきた要素を、残すようになっただけだ。
エドガーは再び視線を落とし、何事もなかったようにペンを走らせる。
だが思考だけは別の場所にあった。
(元から、ああいう人間ではない)
自然と、出会った頃の記憶が蘇る。
*
――戦場。
まだアロイスの名が帝国中へ轟く前。
そしてエドガー自身も、軍属ですらなかった頃の話だ。
地方貴族に雇われた、一介の魔術師。
名門の出ではない。
後ろ盾もない。
ただ、人より少しだけ頭の回転が速く、魔術が使える。
それだけの存在だった。
その日の戦場は、すでに崩壊寸前だった。
補給線は断たれ、前線は押し込まれ、指揮系統も混乱している。
誰の目にも敗走は時間の問題だった。
だが。
(まだ崩れていない)
エドガーだけは違う結論を出していた。
彼は地図へ視線を落とす。
敵軍の進軍速度。
周辺の地形。
残存兵力。
補給の状況。
必要な情報を頭の中で組み上げ、わずか数秒で最適解へ辿り着く。
そして静かに口を開いた。
「……左翼を捨てれば、持ち直せます」
その一言で、場の空気が凍りつく。
「何だと?」
「左翼部隊を切り離してください」
エドガーは表情一つ変えず続ける。
「敵は左翼を突破口と認識しています。ならば、そこを餌にするべきです」
感情は一切ない。
まるで盤上の駒を動かすような口調だった。
「中央を後退させたように見せかけ、敵主力を谷へ誘導します。侵入を確認した時点で火を放ってください」
沈黙が落ちる。
誰もすぐには返事ができなかった。
左翼には、まだ味方がいる。
今この瞬間も戦っている兵士たちが。
「……成功率は」
重い声が響く。
エドガーは即座に答えた。
「七割強です」
「残り三割は?」
「全滅します」
迷いなく言い切る。
その瞬間、向けられる視線の温度が変わった。
冷たい。
責めるような沈黙。
そこで初めてエドガーは、それ以外の視線に気付く。
少し離れた場所。
黒い軍装を纏った青年が静かに立っていた。
アロイスだった。
何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
値踏みするように。
あるいは、答え合わせをするように。
その視線だけが、不思議と他の者とは違っていた。
数時間後。
作戦は予定通り実行された。
左翼部隊は壊滅。
だが敵主力もまた谷へ誘い込まれ、炎に包まれて壊滅する。
崩れかけていた戦線は持ち直し、帝国軍は辛うじて勝利を掴んだ。
戦後、エドガーは呼び出される。
簡素な陣幕の中にいたのは、アロイス一人だった。
「お前か」
短い言葉。
その視線が真っ直ぐ向けられる。
「左翼を切れと言ったのは」
「……はい」
否定する理由はない。
エドガーは静かに頷いた。
数秒の沈黙が流れる。
やがてアロイスが、唐突に問いを投げた。
「罪悪感はあるか」
意図は理解できた。
エドガーは少しだけ考え、正直に答える。
「あります」
一拍置いて続けた。
「ですが、必要でした」
感情はある。
だが、判断は変わらない。
それが自分の答えだった。
アロイスはその返答を聞き、わずかに目を細める。
そして初めて、本当に僅かだけ口元を動かした。
「そうか」
短く、それだけ言う。
続けて視線を外し、背を向けたまま一言だけ告げた。
「来い」
理由の説明はない。
勧誘の言葉もない。
だが、それで十分だった。
地方貴族に雇われた無名の魔術師が、公爵家直属の参謀へ抜擢される。
本来なら前例のない人事だった。
だが、アロイスという男にとっては違う。
(……当然か)
価値は身分ではなく結果で決まる。
それ以外は、最初から評価の対象ではない。
こうしてエドガーは参謀となり、アロイスと共に数々の戦場を渡ることになる。
戦場は単純だった。
情報を集め、最適解を導き出す。
そして、それを実行する。
アロイスは、その「実行」を一切迷わず成し遂げる人間だった。
異常なほど正確に。
異常なほど冷徹に。
だから、自分の計算は初めて意味を持つ。
エドガーは魔術で援護する。
敵陣を分断し、味方を守り、戦場を制御する。
命を切り捨てる判断も含め、すべては勝利という結果のため。
(合理的だ)
戦場に感情は必要ない。
少なくとも、その頃の自分は本気でそう考えていた。
――そして、あの夜。
屋敷は静まり返っていた。
外から見れば普段と変わらぬ公爵邸。
だが、その内部はすでに崩壊していた。
机の上には証拠が並ぶ。
父と兄が帝国を裏切った記録。
他国との密約。
資金の流れ。
どれも決定的で、覆る余地はない。
エドガーは一つひとつ確認し終え、静かに結論を置く。
結果は最初から変わらない。
アロイスは剣へ手を伸ばく。
迷いはない。
当然だった。
あれもまた、最適解。
裏切りは排除する。
それだけの話だった。
エドガーは止めない。
止める理由がない。
むしろ。
(……遅いくらいだ)
そう考えていた。
扉が開く。
短い物音。
それだけで終わる。
過程に意味はない。
残るのは結果だけだ。
粛清の後、屋敷は混乱に包まれた。
使用人たちは廊下に集まり、不安と恐怖を隠せずざわめいている。
当然だった。
主が変わった。
しかも、血によって。
このままでは組織は瓦解する。
誰もがそう思っていた。
そのとき、一人の女性が前へ出る。
マルガレーテだった。
腕を組み、堂々と中央へ立つ。
「静まりなさい!」
腹の底から響く一喝に、ざわめきがぴたりと止まった。
年齢も立場も関係ない。
その場の全員が、自然と彼女へ視線を向ける。
「ここで逃げる者は逃げなさい」
静かな声だった。
だが、一切揺らがない。
「でも、この家を守る者は残りなさい」
一歩だけ前へ出る。
「今ここで踏ん張らずして、誰が公爵家を支えるの!」
再び沈黙が落ちる。
やがて、一人の使用人が頭を下げた。
続いて、もう一人。
その姿は少しずつ広がり、気が付けば誰もその場を離れようとはしなかった。
屋敷は、崩れなかった。
エドガーは黙ってその様子を見つめる。
(……合理的ではない)
数字で説明はできない。
理論にも当てはまらない。
それでも。
(……機能している)
事実として、人は残った。
組織は維持された。
結果だけを見れば、それで十分だった。
*
――現在。
「坊っちゃん、ちゃんと座って食べてください」
中庭へマルガレーテの声が響く。
アロイスがわずかに眉を寄せる。
「……いい加減、その呼び方はやめろ」
「嫌です」
間髪入れない返事だった。
アロイスはそれ以上何も言わない。
反論することもなく、小さくため息だけを吐いている。
そのやり取りを、エドガーは横目で眺めた。
(……変わらないものもある)
ペンを置く。
気付けば机の上の書類はすべて片付いていた。
視線を上げる。
中庭ではライナーが騒ぎ、マルガレーテが叱り、アロイスが淡々と受け流している。
以前の自分なら、無駄だと判断していた光景だ。
非効率。
時間の浪費。
合理性だけを基準にするなら、切り捨てるべき要素。
だが。
(……今は違う)
それらを残したまま、この公爵家は以前より安定している。
思考を進める。
理由は明確だった。
(外部要因)
導入された新たな変数。
ミレイユ。
彼女が屋敷へ来てから、少しずつ空気が変わり始めた。
ライナーは以前より笑うようになった。
マルガレーテは安心したように叱る。
そして何より、アロイス自身がその変化を受け入れている。
もっとも、当人たちは気付いていない。
アロイスも。
ミレイユも。
互いが互いへ影響を与えていることを、自覚してはいない。
(……面白い)
予測不能な変数ほど、観察する価値がある。
エドガーはほんの僅かに口元を動かす。
それは笑みではない。
新しい事象を確認した研究者が、結果を記録するような表情だった。
静かに次の書類を手に取り、再びペンを走らせる。
この変化が、どこへ辿り着くのか。
その結論が出るまでは、まだ少し時間が必要だった。




