第22話:戦場の共犯者
公爵邸の中庭は、珍しく賑やかな空気に包まれていた。
昼下がりの陽射しは柔らかく、穏やかな風が書類の端をわずかに揺らしていく。
「おいエドガー! それ書類じゃなくて拷問だろ!」
中庭いっぱいに、ライナーの悲鳴じみた声が響く。
机に突っ伏しそうになりながらも片手で必死にペンを走らせる姿に、周囲の使用人たちは苦笑を浮かべていた。
「違います。正当な業務です」
エドガーは顔も上げないまま淡々と答える。
「騎士団報告書、三日分。未処理です」
「戦ってたんだよ、こっちは!」
「はい。その結果が、それです」
容赦のない返答だった。
ライナーは大げさに天を仰ぎ、椅子へ深くもたれかかる。
「団長ぉ……帰ってきたんだから仕事減らしてくれよ……」
その"団長"は少し離れた場所で資料を読んでいた。
アロイスは椅子に腰掛けたまま静かに書類へ視線を落としている。
姿勢はいつもと変わらない。
それでも戦場でも執務室でもないこの場所では、どこか張り詰めた空気がわずかに和らいでいた。
その横をマルガレーテが通りかかる。
「坊っちゃん、ちゃんと食べてますか?」
「問題ない」
「問題ある顔してますよ」
間髪入れない返事だった。
アロイスは何も言い返さず、小さく息だけを吐く。
ほんの僅かな変化だったが、それだけで肩の力が抜けたことが分かった。
その様子を見て、ライナーは思わず口元を緩める。
(……変わったな)
自然と、昔のことを思い出す。
自分が、あいつの隣で剣を振るっていた頃を。
*
――戦場。
鼻を突く血の臭い。
鉄と鉄がぶつかり合う耳障りな音。
えぐれた大地の上では怒号と悲鳴が入り混じり、命が次々と散っていく。
その最前線を、アロイスは迷いなく駆けていた。
敵陣へ踏み込み、剣を振るう。
一切の躊躇なく。
ただ正確に。
速く。
そして確実に命を断つ。
その剣筋には迷いがなく、振るわれるたびに敵兵が地へ崩れ落ちていく。
その隣を走るのがライナーだった。
「ははっ――!」
喉の奥から笑いが弾ける。
刃が走るたび、血飛沫が舞うたび、その笑みは深くなっていく。
頬へ飛んだ返り血も気にならない。
視界を染める赤さえ、今は高揚の一部だった。
敵を斬る。
踏み込む。
さらに斬る。
剣が手に馴染み、身体は次の動きを勝手に選び取っていく。
倒れた敵を飛び越えた瞬間、背後で気配が揺れた。
振り返ることはしない。
半身だけを返し、振り抜いた刃がそのまま首筋を裂く。
確かな手応え。
骨を断つ感触。
それを確かめるように、もう一太刀。
本来なら必要のない一撃だった。
それでも止められない。
止まらない。
斬って。
斬って。
ただ、斬り続ける。
敵の隊列は崩れ、押し返されていた前線が少しずつ前へ動き始める。
誰かが叫ぶ。
味方か敵かも分からない。
そんなことは、どうでもよかった。
目の前の障害を排除する。
今のライナーには、それしか見えていない。
「死にてぇ奴は前に出てこい!」
叫びとともに、さらに踏み込む。
鼓動は熱を帯び、視界は一点だけが異様に鮮明になる。
刃の軌道。
肉を裂く感触。
次の足運び。
すべてが一本の流れとして身体に繋がっていた。
(足りない)
もっと前へ。
もっと深く。
もっと――。
その瞬間だった。
アロイスがさらに一歩前へ踏み込む。
ライナーも、ほとんど同時に前へ出た。
互いに示し合わせたわけではない。
それでも歩幅も速度もぴたりと揃い、二人だけが前線のさらに外側へ飛び出していく。
刃が敵陣を切り裂き、乱れていた戦線に大きな穴が開く。
そこへ味方が一気に雪崩れ込み、ようやく戦況が動いた。
敵は退き、味方が押し返す。
戦いがひとまず落ち着く頃には、血の臭いだけが風の中に濃く残っていた。
ライナーは剣を肩へ担ぎ、息一つ乱さずアロイスへ目を向ける。
「おい、前出すぎだろ」
軽く言ったつもりだった。
だが、その視線だけは真剣だった。
アロイスは振り返ることなく剣についた血を払い落とす。
「問題ない」
「問題あるんだよ」
ライナーは小さく息を吐く。
「お前が落ちたら終わる」
それは冗談ではなく、戦場の事実だった。
少し間を置いてから、さらに続ける。
「つーか、さっきのあれ何だよ。完全に抜けてただろ」
必要以上に振るわれた一太刀。
敵が絶命していることを確かめるような、あの斬撃。
アロイスは淡々と答えた。
「お前に言われたくない」
ただ事実を述べるような声だった。
ライナーは一瞬だけ口を閉ざし、次の瞬間には喉の奥で笑う。
「は、違ぇねぇ」
否定できない。
自分がどう見えているかくらい、嫌というほど分かっている。
必要以上に斬る。
確認するように刃を振るう。
――楽しい。
そう思ってしまうから、止められない。
前線では、そういう人間を戦闘狂と呼ぶ。
それがライナーだった。
それでも、その目だけは決してアロイスから離さない。
軽口を叩きながらも、一線だけは越えさせないよう見張っている。
「でもよ、前に出るならもう半歩抑えろ」
自分にできないことを、人には言う。
矛盾している。
それでも言えるのは、自分だけが隣に立てる人間だからだった。
アロイスは短く答える。
「戦わないシュタルクに、存在価値はない」
その言葉に迷いは一切ない。
ライナーは少しだけ黙り、笑みを静かに消した。
(……そういうやつだ)
狂っているのは自分だけではない。
あいつもまた、自分とは違う方向へ壊れている。
だからこそ、隣に立てる。
だからこそ、共犯者でいられる。
ライナーは剣を軽く振り、付着した血を払い落とした。
口元には、またいつもの笑みが戻っていた。
まるで次の戦いを心待ちにするように。
*
時は流れ、戦場ではない静かな夜。
屋敷の一室には灯りが落とされ、薄暗い室内をわずかな月明かりだけが照らしていた。
ライナーは壁にもたれ、腕を組んだまま黙って立っている。
部屋の奥では、アロイスが机に並ぶ書類へ静かに視線を落としていた。
そこに記されているのは、父と兄が帝国を裏切った証拠。
他国との密約。
流れた資金。
戦いを捨て、公爵家だけを残そうとした記録。
理屈だけを見れば合理的だった。
だが、その合理はシュタルク家の在り方とは相容れない。
重い沈黙の末、ライナーが静かに口を開く。
「……やるのか」
いつもの軽さはない。
問い掛けというより、最後の確認だった。
アロイスは答えない。
ただ机の脇に置かれた剣へ手を伸ばし、静かに鞘から引き抜く。
澄んだ金属音が部屋へ響く。
それだけで十分だった。
ライナーは小さく息を吐き、わずかに口元を緩める。
「……ま、そうだよな」
止めるつもりは最初からない。
一歩だけ横へ退き、静かに道を空ける。
そして何も言わず、その背中について歩き出した。
夜の屋敷は静まり返っていた。
廊下を進み、二人は目的の部屋の前で足を止める。
扉の向こうには人の気配。
父と兄。
だが、もう遅い。
アロイスは迷うことなく扉を開ける。
部屋へ足を踏み入れた瞬間、驚いたように二人が顔を上げる。
何かを言おうとした。
弁明か、命乞いか。
その言葉が形になることはなかった。
剣が一閃する。
赤い飛沫が舞い、短い音だけが静寂を裂いた。
それだけで終わる。
ためらいはない。
情もない。
ただ、帝国を守るために不要となったものを切り捨てる。
それだけだった。
ライナーは、その一部始終を黙って見届ける。
止めない。
止める理由がない。
これは私刑ではない。
戦いだ。
相手が敵兵であろうと、肉親であろうと、アロイスにとって守るべきものは変わらない。
だから、自分も隣に立つ。
やがて静寂が戻る。
アロイスは血の付いた剣を静かに下ろした。
呼吸は乱れず、表情も変わらない。
何事もなかったように、そこへ立っている。
ライナーはゆっくりと歩み寄り、その横へ並んだ。
「……ほんと、容赦ねぇな」
苦笑するように呟く。
返事はない。
数秒の沈黙だけが流れる。
ライナーは小さく肩をすくめ、ふっと笑った。
「ま、今さらか」
あの日から分かっていた。
こいつは誰よりも冷静で、誰よりも狂っている。
だから自分は、その隣に立ち続けてきた。
「俺もまともじゃねぇしな」
独り言のように零してから、アロイスへ視線を向ける。
「いいぜ」
短く笑う。
「地獄の果てまでついていってやるよ」
誓いではない。
忠誠でもない。
戦場で幾度も背中を預け、互いの狂気を知り尽くした者だからこそ口にできる、ただの事実だった。
アロイスは何も答えない。
それでも否定もしなかった。
その沈黙だけで十分だった。
二人は再び歩き出す。
血の匂いが残る廊下を、並んで。
それが、二人の在り方だった。
*
――現在。
「ライナー、手が止まっています」
エドガーの冷静な声で、ライナーの意識は現実へ引き戻された。
「止まってねぇよ!」
慌ててペンを走らせる。
だが、口だけは相変わらず忙しい。
「つーかよぉ、団長も少しはやれよ」
「自分の分は終わっている」
即答だった。
「は!?」
思わず顔を上げる。
アロイスの机には整理された書類が積まれ、未処理の山は一枚も残っていない。
無駄のない仕事ぶりは、昔と何一つ変わっていなかった。
……いや。
(違うな)
ふと視線を向ける。
アロイスはマルガレーテに何か言われている。
「ちゃんと休みなさい」
「食べなさい」
そんな小言にも、昔のように冷たく切り捨てることはない。
面倒そうな顔はしている。
それでも最後まで聞いている。
戦場では決して見られなかった、穏やかな時間だった。
ライナーは思わず笑う。
(……悪くねぇ)
あの頃と同じように、今も隣にいる。
だが、立っている場所は少しだけ違う。
血煙の中ではなく、人が笑う屋敷の中。
その変化を、案外悪くないと思っている自分がいた。
ペンを走らせながら、もう一度だけアロイスへ目を向ける。
そして誰にも気付かれないほど小さく、口元を緩めた。




