第21話:血の継承
夜は静かだった。
風はすっかり止み、シュタルク公爵邸を包む空気さえ、息を潜めているようだった。
屋敷の奥にある一室では、最低限の灯りだけが机の上を照らし、その淡い光が床へ長い影を落としている。
机の上には、何枚もの書類が整然と並べられていた。
父の署名。
兄の印章。
外部との通信記録。
そして、不自然な資金の流れ。
一枚だけを見れば、偶然とも言い逃れとも取れる。
しかし、それらをすべて並べてしまえば、行き着く先は一つだった。
もはや疑惑ではない。
確認の必要すらない。
――国家を裏切ったという、揺るぎない事実だった。
アロイスは書類を見下ろしたまま、静かに思考を整理していた。
(……合理的だ)
戦闘を避け、他国と手を結ぶ。
兵を失わず、公爵家の地位を守り、家そのものを生き残らせる。
理屈だけを見れば、決して愚かな判断ではない。
むしろ、生き残ることだけを目的とするならば、それも一つの正解だった。
だが、その正解には決定的に欠けているものがある。
(帝国ではない)
それだけで十分だった。
シュタルク家は、帝国の最前線を守る公爵家である。
代々、剣を振るい、盾となり、誰よりも先に血を流すことで帝国への忠誠を示してきた。
その役目を捨て、敵と手を結んで生き残るのなら、それはもうシュタルク家という名を残す意味すら失っている。
アロイスは、静かに目を伏せた。
残された選択肢は二つしかない。
見逃すか。
切り離すか。
そして、答えはすでに決まっていた。
(残せば、いずれ崩れる)
内部から腐り、外から喰われる。
結末が少し先へ延びるだけで、行き着く先は変わらない。
それならば、被害が広がる前に切るべきだった。
(今、切る)
それが最も短く、最も損失の少ない方法だった。
結論へ辿り着いたところで、アロイスはようやく机の脇に置かれていた剣へ手を伸ばした。
柄を握り、ゆっくりと鞘から抜く。
澄んだ金属音が、静まり返った部屋へ細く響いた。
そこに怒りはなかった。
悲しみも、迷いもない。
あるのは、下された決定を自ら実行するという事実だけだった。
アロイスは剣を手にしたまま部屋を出る。
長い廊下を歩く足取りに迷いはない。
やがて、その先に父と兄のいる部屋が見えてきた。
もちろん、二人が何をしているのかも分かっている。
だから、ノックはしなかった。
静かに扉を開ける。
突然の訪問に、二人の視線がこちらへ向いた。
父が何かを言おうとして口を開き、兄もまた、何かを察したように腰を浮かせる。
けれど、言葉が届くことはなかった。
もう結論は出ている。
アロイスの剣が、一筋の銀光となって走った。
動きに迷いはなく、必要以上の力も使わない。
ただ正確に、決められた場所へ刃を届かせる。
それですべてが終わった。
床へ赤い雫が落ちる。
乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。
アロイスは血のついた剣をゆっくりと下ろした。
呼吸は乱れていない。
鼓動にも変化はない。
ただ、終わった。
それだけを認識する。
(……完了)
その言葉で十分だった。
*
扉の外では、ライナーが壁へ背を預けて待っていた。
中で何が起きたのか。
どんな決断が下されたのか。
すべて分かったうえで、何も聞かずに待っている。
やがて扉が開き、アロイスが姿を現した。
手には、まだ血の残る剣が握られている。
その表情は、部屋へ入る前と何一つ変わっていなかった。
ライナーは一度だけアロイスを見つめ、それから小さく息を吐く。
「……終わったか」
努めて軽く聞いたつもりだったが、声の奥には隠しきれない重さがあった。
「ああ」
返ってきたのは、それだけだった。
二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。
*
その夜、屋敷は大きく揺れていた。
使用人たちのざわめきが廊下を行き交い、不安と恐怖が目に見えない霧のように広がっている。
無理もなかった。
今この瞬間、この屋敷の主は血によって代替わりしたのだ。
誰もが足を止め、互いの顔を見合わせていた。
これから何が起こるのか。
自分たちはどうすればいいのか。
誰一人として、確かな答えを持っていない。
その沈黙を破るように、一人の女性が人々の前へ進み出た。
マルガレーテだった。
大股で歩いて使用人たちの中央に立つと、腕を組んだまま一人ひとりの顔を見渡す。
そして、腹の底から声を響かせた。
「――静まりなさい!」
一喝だった。
張り詰めていた空気が一瞬で凍りつき、ざわめきが嘘のように消える。
誰もがマルガレーテへ視線を向けた。
「逃げたい者は逃げなさい。止めはしないわ」
低く、はっきりとした声だった。
その言葉に、使用人たちの間へ再び小さな動揺が走る。
だが、マルガレーテは怯まなかった。
「でもね――ここで踏ん張らなければ、誰がこの家を守るの?」
誰も答えない。
答えられない。
そんな彼らを責めるようなことはせず、マルガレーテは一度だけ息を吐き、少しだけ声を和らげた。
「あの子はね、全部分かって、それでも自分で決めたのよ」
その「あの子」という言葉には、長い年月が滲んでいた。
幼い頃から見てきた。
誰よりも早く現実を理解し、誰よりも先に覚悟を決めることを覚えた少年だった。
泣くことも、弱音を吐くことも許されず、公爵家という重すぎる名前を背負ってきた。
だからこそ。
今度は、周りが支えなければならない。
「支えなさい」
命令のようでいて、それは願いでもあった。
「この家についてくる者だけ、ここに残りなさい」
静寂が落ちた。
しばらく誰も動かなかったが、やがて一人の使用人がゆっくりと頭を下げた。
続いて、もう一人。
それを見た別の者も頭を垂れる。
やがてその姿は次々と広がり、最後にはそこにいた全員が静かに頭を下げていた。
屋敷が、ようやく息を吹き返し始める。
止まっていた時間が少しずつ動き出し、使用人たちはそれぞれの持ち場へ戻っていった。
その様子を、少し離れた廊下からアロイスが静かに見つめていた。
何も言わない。
何も命じない。
ただ、そこに立っている。
やがてマルガレーテはその姿に気づくと、わざと足音を大きく鳴らしながら歩み寄った。
「……坊っちゃん」
アロイスが視線だけを向ける。
表情は変わらない。
それでもマルガレーテは臆することなく、彼の正面へ立った。
「終わりましたね」
「ああ」
短い返事。
それで終わるはずだった。
けれど、マルガレーテはそのまま一歩踏み込み、血の残るアロイスの手首を強く掴んだ。
「……離せ」
「離しません」
間髪入れずに返される。
アロイスはしばらくマルガレーテを見つめていたが、振り払おうとはしなかった。
マルガレーテは真っ直ぐ彼を見上げる。
「あなたは一人じゃないわ」
叱るような声だった。
けれど、その奥にはどこまでも温かなものがあった。
「勝手に全部背負ってはいけません。あなたには、支えてくれる人がいる。それを忘れちゃ駄目よ」
アロイスは何も答えなかった。
否定もしない。
ただ、掴まれた手を振りほどかなかった。
マルガレーテは、それで十分だと思った。
*
そして現在。
同じシュタルク公爵邸。
同じ中庭。
けれど、あの夜とは何もかもが違っていた。
穏やかな昼の陽射しが石畳を照らし、庭先からは人の話し声が聞こえてくる。
「坊っちゃん、ちゃんと食べてください」
「……いい加減、その呼び方はやめろ」
「嫌です」
間髪入れずに返され、近くにいた使用人たちから小さな笑いが漏れた。
マルガレーテは腕を組んだまま、その様子を眺めている。
昔と変わらないやり取り。
けれど、昔とは明らかに違う。
(……少しは、肩の力を抜けるようになったじゃない)
ほんの少しだけ。
それでも、確かに変わった。
そんなことを思っていたとき、廊下の向こうから一人の少女が歩いてくるのが見えた。
ミレイユだった。
少し疲れているようにも見える。
それでも背筋は真っ直ぐ伸び、前を向いて歩いている。
マルガレーテは自然と口元を緩めた。
(……この子なのね)
理由を説明しろと言われても、うまく言葉にはできない。
ただ、確信だけはあった。
ミレイユがこの屋敷へ来てから、坊っちゃんは少しずつ変わり始めた。
ほんのわずかな変化だったとしても、それで十分だった。
「ミレイユ様!」
いつもの大きな声が中庭へ響く。
「ちゃんと食べてますか!」
「えっ?」
ミレイユが驚いたように振り返り、苦笑する。
その何気ない光景を眺めながら、マルガレーテは思う。
この屋敷には、もうあの夜の静けさはない。
誰かが笑い、誰かが騒ぎ、誰かが叱る。
そんな当たり前の日常が、確かにここにある。
*
少し離れた柱の影から、ルドルフは静かに中庭を見つめていた。
ライナーの軽口。
エドガーの冷静な視線。
マルガレーテの変わらない大きな声。
そして、その中心に立つアロイス。
(……保たれている)
心の中で、静かに結論を置く。
ルドルフも、あの夜を知っている。
血によって継がれた公爵位。
家族を自らの手で断ち切り、その直後から公爵として立ち続けた若き当主。
あのまま、すべてを合理だけで処理し続けていたなら、いずれどこかで折れていたかもしれない。
けれど、今は違う。
情をもって叱り、支えるマルガレーテがいる。
くだらない軽口を叩きながらも、背中を預けられる仲間たちがいる。
そして、ミレイユがいる。
外から現れた異質な存在でありながら、いつの間にかこの屋敷へ新しい風を運び込んだ少女。
もはや、排除すべき異物ではない。
この公爵家に必要な一人なのだと、ルドルフは理解していた。
視線をアロイスへ戻す。
血統。
実力。
決断力。
公爵として必要なものは、すでに十分に備わっている。
そして今は、その背中を支える者たちもいる。
ならば――。
ルドルフの中にある結論は、もう揺らがなかった。
(この方こそ、我が仕えるべき主だ)
それは感情ではない。
長年、公爵家に仕えてきた執事としての、静かで揺るぎない判断だった。
ルドルフは柱の影から歩み出る。
「閣下、本日の予定ですが」
いつも通りの淡々とした声が、中庭へ届いた。
アロイスが振り返る。
「何だ」
「午後から騎士団との会議がございます。その前に、皇宮から届いている書類へ目を通していただければと」
「分かった」
それだけのやり取りだった。
けれど、それでいい。
日常へ戻すこと。
いつもの仕事を与え、いつものように背中を支えること。
それもまた、執事としての務めなのだから。
公爵家は今日も動き続ける。
過去に何があったとしても、時間は止まらない。
その中心に立つ者が、一人で倒れないように。
支える者たちがいる限り、この家は前へ進んでいく。




