第20話:知らない熱
公爵邸の中庭は、昼下がりの穏やかな陽射しに包まれていた。
風も強くはなく、木々の葉をやさしく揺らしながら、屋敷の周囲をゆっくりと通り抜けていく。
帝都へ戻ってから続いていた緊張も、こうして外へ出れば少しだけ遠のくようだった。
「ミレイユ様」
背後からマルガレーテの声が聞こえ、ミレイユが振り返ると、いつもの柔らかな笑顔がそこにあった。
「少し、外に出てみませんか?今日はお天気もよろしいですし、気分転換にはちょうどよいかと思いますわ」
穏やかな誘いだったが、その目はミレイユの顔色や立ち姿をさりげなく観察している。
疲労を隠していることなど、とっくに見抜かれているらしい。
ミレイユは一瞬だけ考えてから、小さく首を傾げた。
「外、ですか?」
「ええ。乗馬など、いかがでしょう?」
その言葉に、ミレイユの視線がわずかに動いた。
乗馬なら、幼い頃に伯爵家で基礎を叩き込まれている。
令嬢教育の一環として必要だったため、馬の扱い方も一通り身につけていた。
ただ、実際に馬へ乗るのは随分と久しぶりだ。
「……少し、久しぶりですが」
「問題ありませんわ」
マルガレーテは即座に答え、何でもないことのようにアロイスへ視線を向けた。
「坊っちゃんがついておりますから」
「……必要か」
アロイスが短く尋ねる。
「必要です」
迷いのない返答だった。
数秒の沈黙のあと、アロイスは立ち上がった。
「……行くぞ」
それで話は決まった。
厩へ向かうと、すでに二頭の馬が用意されていた。
あまりにも準備が早く、ミレイユは思わず目を瞬かせる。
(最初から、そのつもりだったのでしょうか……)
そう思ったものの、口には出さなかった。
ミレイユの前へ連れてこられた栗毛の馬が、小さく鼻を鳴らす。
ミレイユはその首筋へそっと手を添え、懐かしい体温を感じながら撫でた。
「久しぶりですね……」
小さく呟いてから鞍へ手をかける。
身体は覚えている。
足をかける位置も、重心の取り方も、手綱を握る感覚も、頭ではなく身体の奥に残っていた。
ただ、長い空白があったせいか、動きにはほんのわずかなぎこちなさがある。
足をかける位置が浅くなった、その瞬間だった。
背後から伸びた手が、ミレイユの肘を支えた。
「っ……」
ぐらつきかけた身体が、すっと持ち上がる。
すぐ後ろにアロイスがいた。
無駄のない力で身体を支えながら、低い声で告げる。
「足をかける位置が浅い」
「……申し訳ありません」
「謝る必要はない」
淡々とした返答とともに、アロイスはミレイユが安定して鞍へ座れるよう、必要なところだけを支えた。
動作に余計なところはなく、身体が馬上へ収まると、すぐに手が離れる。
それでも、離れたばかりの手の熱が、なぜか妙に残った。
(……近かった)
そう思ったのは一瞬だった。ミレイユはすぐに意識を切り替え、手綱を握り直す。
アロイスもすでに騎乗していた。
「問題ないか」
「……はい」
二人はゆっくりと馬を歩かせ始めた。
最初は互いの馬の歩調を確かめるように進み、屋敷を離れて街道へ出る頃には、自然と並んでいた。
人の気配が少なくなるにつれて、風の音や蹄が地面を叩く音がはっきりと聞こえてくる。
ミレイユは何度か手綱を調整しながら、少しずつ速度を上げていった。
身体の感覚も戻ってくる。
肩から余計な力が抜け、ようやく自然に馬を操れるようになった。
「……大丈夫そうです」
「そうか」
アロイスの返事は短かったが、それ以上の言葉は必要なかった。
しばらく二人は何も話さず、並んで馬を進めた。
やがて、ミレイユの馬が何かに反応したのか、小さく首を振った。
予想よりも大きく身体が揺れ、ミレイユの重心が一瞬だけ崩れる。
その直後、アロイスの手が伸びた。
手綱を引き寄せると同時に、もう片方の腕でミレイユの腰を支える。
動きは素早く、それでいて必要以上に力を込めてはいなかった。
「……っ」
ほんの数秒だった。
鍛えられた腕の硬さと、すぐ近くにある体温を感じたかと思えば、アロイスはミレイユの身体が安定したことを確認してすぐに手を離した。
「……失礼しました」
「問題ない」
いつもと変わらない声音だった。
けれど、ミレイユの胸の内には、先ほどとは違う感覚が残っていた。
支えるときも、必要以上に踏み込まない。
こちらが逃げようと思えば逃げられるだけの距離を残したまま、それでも決して落とさない。
その絶妙な距離感が、なぜかミレイユの意識に残った。
(……不思議な人)
それ以上は考えないことにして、ミレイユは前を向いた。
やがて二人は屋敷へ戻った。門の前では、マルガレーテが満面の笑みで待っている。
「まあ! ちょうどよい距離でしたね!」
「……?」
ミレイユが首を傾げる。
その後ろでは、使用人たちが小声で何かを話していた。
「……お似合いでは……」
「しっ。聞こえますよ」
どうやら本人たちには聞こえないと思っているらしいが、かなり怪しい。
ミレイユが不思議そうに振り返る一方、アロイスは何も言わず、そのまま屋敷の中へ歩いていった。
*
その夜、ミレイユは資料を手にアロイスの私室へ向かっていた。
大至急というほどではないが、次の調査へ進む前に確認しておきたい事項がいくつかある。
扉の前で足を止め、軽くノックする。
「……誰だ」
「ミレイユです」
「入れ」
許可を得て、ミレイユは扉を開けた。
そして――思わず足を止めた。
部屋の中では、アロイスが着替えの途中だった。
シャツにはまだ袖を通しておらず、鍛えられた肩から腕がそのまま露わになっている。
普段から鍛えていることは知っていた。
だが、鎧や衣服に隠されていた身体を実際に目にすると、印象はまるで違った。
余分なもののない身体だった。
ただ鍛えているだけではない。
剣を振るい、戦場を生き抜くために作られた身体なのだと分かる。
肩や腕には薄く古傷も残っていて、それらが積み重ねてきた年月を物語っていた。
「――っ」
ミレイユは思わず息を止めた。
頬が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らす。
「……お取り込み中、失礼しました。出直します」
踵を返しかけたところで、背後から低い声が飛んできた。
「構わん」
アロイスは特に気にした様子もなくシャツを羽織り、前を留めながらミレイユへ視線を向けた。
「用件を言え」
あまりにもいつも通りだった。
その平然とした態度のせいで、むしろミレイユのほうが落ち着かない。
「……前回の調査について、確認したいことがありまして」
なんとか声を整えながら、手にしていた書類を差し出す。
アロイスはそれを受け取り、内容へ目を通した。
距離は近くない。それでも、先ほど目にした姿が頭から離れなかった。
(……違う)
また、そう思う。
クロウレイなら、こんなことで動揺することはなかった。
あの男は身だしなみに無頓着で、ミレイユが呆れるほど無防備な姿を晒していた。
それでも、そこにあるのはただの気安さだった。
アルベルトについても同じだ。
彼のことを思い浮かべれば、最初に出てくるのは鎧姿だ。
剣を握る手、戦場で背中を預けた姿、仲間としての信頼。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
なのに、目の前の男は違う。
同じ人間なのに、なぜか意識の仕方が違う。
線の入り方も、纏う空気も、身体から伝わる熱も、何もかもがこれまで知っていたものとは違って見えた。
そして、初めてはっきりと認識する。
(……男の人、なんだ)
その当たり前の事実が、今さらのように胸へ落ちてきた。
その瞬間、胸の奥が妙にざわつく。
理由は分からない。
分からないまま、意識だけがそこへ引っ張られていく。
「……問題ない」
アロイスの声で、ミレイユは我に返った。
差し出していた書類が返される。
「このまま進めろ」
「……はい」
受け取ろうとした指先が、ほんの一瞬だけ触れた。
それだけなのに、また意識が引っ張られる。
ミレイユは反射的に手を引いた。
「……以上です、夜分に失礼しました」
今度こそ、しっかりと一礼して扉へ向かう。
背中に視線を感じた気がしたが、振り返らなかった。
扉を閉め、廊下へ出たところで、ミレイユはようやく小さく息を吐いた。
思った以上に呼吸が浅くなっている。
(……何でしょう、これ)
自分でも分からない。
先ほどの光景を思い出す。
消す必要はないはずなのに、妙に鮮明に残っている。
ミレイユは胸元へそっと手を添えた。
鼓動は、いつもより少しだけ速かった。
それが何を意味するのかは、まだ分からない。
分からないまま、ミレイユは静かな廊下を歩いていった。
ただ、ほんのわずかに。
自分の中で何かが変わり始めていることだけは、感じていた。
*
扉が静かに閉まり、ミレイユの足音が遠ざかっていく。
部屋へ静寂が戻ると、アロイスはその場に立ったまま、ゆっくりとシャツの前を留めていった。
指先はいつも通り迷わない。
だが、思考だけが妙に引っかかっていた。
長年、誰にも隙を見せないように生きてきた。
眠る場所でさえ一定にはせず、背後へ立たせる相手も慎重に選んできた。
不用意に自室へ人を入れることなど、本来ならあり得ない。
まして、着替えの途中など論外だった。
それなのに今回は、ミレイユが扉を開けることを何の疑問もなく許していた。
(……油断した?)
すぐに否定する。
違う。
疲労のせいでもない。
判断力そのものは鈍っていなかった。
ならば、なぜ。
アロイスは考えながら、先ほどの光景を思い返す。
扉を開けたミレイユは目を見開き、すぐに視線を逸らしていた。
いつもなら乱れることのない言葉まで、ほんの少しだけ早くなっていた。
……あんな顔もするのか。
そこまで考えたところで、アロイスは自分の思考を切り捨てた。
どうでもいい。
問題は自分だ。
警戒を怠った。
それが最も妥当な結論だった。
だが、それだけでは説明できない違和感が残る。
警戒を忘れていたわけではない。
そもそも、ミレイユに対して警戒する必要があると考えていなかった。
その事実のほうが、アロイスには理解できなかった。
ゆっくりと息を吐く。
「……妙だな」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉が、静かな部屋へ溶けていく。
アロイスは窓辺へ歩き、夜の帝都へ視線を向けた。
夜は静かだった。
静かであるほど、人は余計なことを思い出す。
そして、アロイスには忘れたことなど一度もなかった。
ふと胸をよぎったのは、遠い昔の光景だった。
血の匂い。
床へ落ちた剣。
そして、自らの手で断ち切った、父と兄の命。
あの夜を境に、自分はもう戻れなくなった。
記憶は容赦なく、あの日へと引き戻していく――。




