第19話:装う理由
朝から、シュタルク公爵邸はいつになく騒がしかった。
「違うわ! もっと布を寄せて。そこじゃなくて、こっちよ!」
マルガレーテの声が廊下まで響き、何人もの使用人が慌ただしく行き交っている。
その中心にいるミレイユは、採寸用の布を身体に当てられたまま、ほとんど身動きもできずに立っていた。
それでも、されるがままになることには慣れてきたのか、困ったように微笑みながら静かに作業を見守っている。
「申し訳ありません。本来なら、もっと早く準備するべきでしたのに……」
布の位置を調整しながら、マルガレーテが心底悔しそうに眉を下げる。
「前回は既製品などでお出ししてしまって……せっかくの夜会でしたのに、あんな急ごしらえでは」
ミレイユは、その言葉にわずかに目を瞬かせた。
前回。帝国へ来て初めて参加した夜会のことだ。
あのときは、衣装について考える余裕などなかった。
用意されたものを身につけ、与えられた場所へ立ち、ただ周囲に飲み込まれないように振る舞うだけで精一杯だった。
けれど、今回は違う。
「今回は、きちんと“立てる”装いをお作りしますからね」
マルガレーテの言葉に、ミレイユは顔を上げた。
“似合う”ではなく、“立てる”。
その言葉が意味するところを、ミレイユはすぐに理解した。
ここは、そういう場所なのだ。
誰の隣に立つのか。どのような立場で見られるのか。
それだけで、人の価値も意味も変わってしまう場所。
だからこそ、身につけるもの一つにも、その立場を示す役割がある。
「……はい、よろしくお願いします」
ミレイユが素直に頷くと、マルガレーテの表情がぱっと明るくなった。
その様子を扉の外から眺めていたライナーが、思わず吹き出す。
「ははっ、完全に戦支度じゃねぇか」
「間違ってはいませんよ」
隣でエドガーが眼鏡を押し上げる。
「社交場は、別の意味で戦場ですから」
「そういうことを真顔で言うなよ。怖ぇなぁ……」
肩をすくめるライナーの横で、アロイスは何も言わずに立っていた。
ただ静かに、ミレイユの様子を見ている。
やがて数時間が過ぎ、完成したドレスが運び込まれた。
深い色合いの布地に、装飾は控えめながらも細部まで丁寧に仕上げられている。
華美に飾り立てるのではなく、身体の線と立ち姿を美しく見せるように仕立てられており、派手さはない。
それでも、目を向けた者の視線を自然と引き寄せるだけの存在感があった。
「どうぞ」
差し出したマルガレーテの声音には、わずかな緊張が滲んでいた。
ミレイユは静かに袖を通し、鏡の前へ立つ。
そこに映った自分の姿を、しばらく黙って見つめた。
(……違う)
前回とは、明らかに違う。
ただ着せられているのではない。
誰かに用意された衣装を身につけ、与えられた場所へ立つためのものでもない。
これは、この場所に自分の足で立つための装いなのだ。
守られるだけではなく、その隣に並ぶために。
「……お似合いですわ」
マルガレーテが満足そうに息を吐く。
ミレイユは鏡の中の自分をもう一度見つめ、それから小さく頷いた。
「ありがとうございます」
*
その夜、再び皇宮へ向かう。
巨大な扉が開かれると、煌びやかな光とともに大勢の視線が一斉に集まった。
前回と同じ光景だった。
けれど、そこから感じるものは、以前とは明らかに違っている。
(あれが……)
(シュタルク公爵家の……)
(王国から来た魔術師だろう)
(精神干渉能力者だと聞いたが)
抑えられた囁きが、あちらこちらから聞こえてくる。
値踏みするような視線も、探るような眼差しも消えてはいない。
それでも、ミレイユは歩みを止めなかった。
視線を受けても逸らさず、背筋を伸ばしたまま、アロイスの隣を進んでいく。
前回とは違う。
あのときは、アロイスに守られているという感覚が強かった。
けれど今は、それだけではない。
自分もまた、彼の隣に立っている。
そんな感覚が、確かにあった。
やがて何人かの貴族が挨拶に訪れた。
交わされる言葉はどれも礼儀正しく、表面上は穏やかなものばかりだったが、その裏にある意図まで隠せているわけではない。
「シュタルク公爵家は、随分と興味深い客人を迎えられたようですな」
第一皇子派と思しき貴族が、柔らかな笑みを浮かべる。
「これほど危険な力を持つ方です。やはり、然るべき立場の者が責任を持って管理する必要があるでしょう」
“管理”。
その言葉だけで、十分だった。
ミレイユがどういう存在として見られているのかが分かる。
一方で、別の貴族が穏やかな声音で口を挟んだ。
「古代の力に触れられる方が、帝国へ来てくださったことは実に喜ばしいことです」
柔らかな笑みを浮かべたまま、ミレイユを見つめる。
「その力を正しく扱うことができれば――人類の未来を切り開く、鍵になるかもしれませんな」
第二皇子派。
こちらも隠すつもりはないらしい。
どちらの言葉も表面上はミレイユを評価している。
しかし、その実、言っていることは同じだった。
自分たちの側へ来い。
露骨ではない。だからこそ、厄介だった。
ミレイユは、すぐには何も答えなかった。
今ここでどちらかへ与する必要はないし、軽々しく言葉を返せば、その一言だけで立場を決められてしまうかもしれない。
隣に立つアロイスも、余計な口を挟まない。
ただそこにいる。
それだけで、ミレイユが誰の庇護下にあるのかは十分に伝わっていた。
夜が深まるにつれて、最初の頃に感じていた緊張は少しずつ薄れていった。
その代わりに、ミレイユの中には、この場所に対する理解が生まれ始めていた。
(……ここは、そういう場所なんだ)
誰かに進む道を決められる場所ではない。
決めさせようとする人間が、次々と現れる場所なのだ。
その中で何を選ぶのか。あるいは、何を選ばないのか。
それさえも自分自身で決めなければならない。
そう考えながら、ミレイユは最後まで姿勢を崩さなかった。
やがて夜会は、静かに終わりを迎えた。
*
屋敷へ戻り、着替えを終えたミレイユは、しばらくしてバルコニーへ出た。
背後で扉が静かに閉じられると、夜の空気が頬を撫でる。
もうドレスではない。
締め付けのない簡素な夜着が身体に沿い、肩や腰に残っていた緊張が少しずつ解けていく。
深く息を吸うと、ようやく身体の隅々まで空気が届いたような気がした。
遠くには皇宮の灯りが滲んでいる。
夜は静かだったが、完全な無音ではない。
風に揺れる木々の葉擦れや、遠くを走る馬車の音がかすかに聞こえ、帝都がまだ眠っていないことを教えている。
ミレイユは手すりへ軽く手を添え、ゆっくりと息を吐いた。
(……終わった)
すべてが終わったわけではない。
それでも、また一つ、越えることはできた。
そのとき、背後から規則正しい足音が近づいてきた。
振り返らなくても分かる。
アロイスだった。
彼はミレイユから少し離れた場所で足を止めると、しばらく夜の庭を眺めていた。
「……問題はなかった」
低い声に、ミレイユは小さく頷く。
「……はい」
それだけで、しばらく言葉は続かなかった。
夜風が二人の間を静かに抜けていく。
やがて、アロイスの気配がほんの少しだけ近づいた。
ミレイユは動かなかった。
アロイスの手がゆっくりと上がり、乱れていた髪の一筋へ触れる。
指先でそっと整えただけで、それ以上は何もしなかった。
引き寄せるわけでもなく、身体を拘束するわけでもない。
ただ、乱れていた髪を元の位置へ戻すような、ごく自然な仕草だった。
ミレイユは、わずかに目を瞬かせる。
(……違う)
ふと、そう思った。
クロウレイとも、アルベルトとも違う。
必要だから触れたわけでもない。
守るために引き寄せたわけでもない。
理由があるようで、ない。
その曖昧さが、妙に心へ残った。
アロイスの手が離れ、二人の間に再びいつもの距離が戻る。
「……風が強い」
「……そうですね」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
言葉にしてしまえば、何かの形になってしまう気がした。
今はまだ、その形を必要としていない。
ただ、夜風が静かに流れていく。
ミレイユは手すりへ置いた指先を眺めながら、胸の奥に残った小さな温度を感じていた。
(……あたたかい)
なぜそう感じるのかは、分からない。
けれど、今は分からなくてもいいような気がした。
そのとき、視界の下で何かが動いた。
ミレイユが何気なく庭へ目を向けると、一階の庭先に数人の使用人たちが集まっている。
どうやらメイドたちらしい。
彼女たちはこちらを見上げながら、声を潜めて何やら話していた。
「今の見た!?」
「見ました、見ました!」
「閣下が……!」
「髪に触れましたわよね!?」
興奮を抑えようとしているらしいが、声はまったく抑え切れていない。
互いの手を取り合い、小さく跳ねるように喜んでいる姿まで見える。
ミレイユは思わず目を伏せた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩める。
すぐにいつもの表情へ戻したものの、その笑みを完全に消すことはできなかった。
隣にいるアロイスは、そんなメイドたちに気づいているのか、いないのか分からない。
ただ、いつもと変わらない距離で立っている。
それで、今は十分だった。
夜は静かに更けていく。
華やかな夜会が終わったあとに残ったのは、言葉にはできないほど小さな、けれど確かな温度だった。




