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選択の魔女  作者: めいあん
第二章:帝国魔術師編
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第17話:境界の朝

夜明けの空気は冷たく、薄く霧のかかった山間には静かな緊張だけが残っていた。

国境付近では、王国側と帝国側の一団が一定の距離を保ったまま向かい合っている。

昨夜まで燃えていた焚き火はすでに灰となり、辺りには焦げた木の匂いだけが漂っていた。

石板。

古代装置。

そして、それらが"起動する"という事実。

互いに、あまりにも危険なものを目の当たりにした今、双方とも長くここへ留まるわけにはいかなかった。

それぞれ石板を持ち帰り、自国へ報告しなければならない。

王国は王国へ、帝国は帝都へ――静かな緊張を残したまま、別々の道を進むしかなかった。

そんな空気の中、シルヴァンが普段より少しだけ真面目な口調で口を開く。

「では、ここから先は王国側で引き継ぎます」

アロイスは短く頷いた。

「ああ」

必要最低限のやり取りだった。

けれど、それで十分だった。

ミレイユはシルヴァン、そしてアルベルトへ視線を向ける。

本当なら話したいことはいくらでもあった。

王国のこと。

エリシアのこと。

王宮のみんなのこと。

けれど今は任務の最中であり、互いの立場もある。

周囲の視線がある以上、私情を交わすことはできなかった。

だから、静かに頭を下げる。

「……お気をつけて」

その一言だけを残す。

シルヴァンは柔らかく笑い返した。

「そっちもね」

軽い口調はいつもどおりだったが、その眼差しには心からの気遣いが滲んでいた。

そして、アルベルト。

数秒、静かに視線が重なる。

懐かしい。

その想いだけで胸の奥が少しだけ痛んだ。

アルベルトは何も言わず、ぶっきらぼうに片手を上げる。

――またな。

そう言っていることだけは、十分に伝わった。

ミレイユの唇がわずかに動く。

「……はい」

小さな返事だった。

それを聞いたアルベルトは、ほんの少しだけ目を細める。

それ以上、言葉は交わさない。

国境という場所が、それを許さなかった。

やがて双方は、それぞれの方向へ歩き始める。

距離は少しずつ離れていき、誰も振り返ることはない。

それでもミレイユは胸の奥で、静かに願っていた。

(……また、会えますよね)

祈るようなその想いだけを残し、国境は再び静けさを取り戻していった。

*

帝都へ戻る頃には、空はすっかり夜色へ沈んでいた。

黒塗りの馬車がシュタルク公爵邸の門をくぐり、重厚な門扉が静かに閉まる。

その音を待っていたかのように、屋敷の扉が勢いよく開いた。

「坊ちゃま!ミレイユ様!お帰りなさい!!」

飛び出してきたのはマルガレーテだった。

相変わらずの大きな声に、アロイスは慣れたように「ああ」とだけ返す。

ミレイユも自然と表情を和らげた。

「ただいま戻りました」

その言葉を聞いた途端、マルガレーテはじっとミレイユを見つめる。

そして次の瞬間、

「またお痩せになって!」

と悲鳴にも似た声を上げた。

ミレイユが思わず目を瞬かせる横で、ルドルフが静かに一礼する。

「ご無事で何よりでございます」

穏やかなその声音は、まさに"帰る場所"そのものだった。

アロイスは視線を向ける。

「留守中、ご苦労だった」

「お帰りなさいませ、閣下」

エドガーが一歩前へ出る。

「変わりはなかったか」

「業務は滞りなく」

即答だった。

しかし一拍置いてから、淡々と付け加える。

「ライナーが半分しか処理していないこと以外は、平常通りです」

その瞬間、

「団長ぉぉぉぉ!!お帰りぃぃぃ!!」

という悲痛な叫びが屋敷中へ響き渡った。

書類を抱えたライナーが泣きそうな顔で駆け寄ってくる。

どうやら本当に限界だったらしい。

アロイスはちらりと一瞥すると、

「ミレイユを休ませてやってくれ」

とだけ告げた。

「俺を無視しないで!?」

悲鳴のような声が上がる。

間髪入れず、エドガーが追撃した。

「未処理分がありますよ、副団長」

「鬼!?」

その様子を見たマルガレーテが、大きくため息をつく。

「本当に騒がしい方々ですこと……」

そう言いながらも、その口元には笑みが浮かんでいた。

ミレイユはそんな光景を眺めながら、ふっと肩の力を抜く。

帰ってきた。

誰に言われるでもなく、自然とそう思えた。

*

浴室には湯気が静かに立ち上り、香油のやわらかな香りが漂っていた。

ミレイユはゆっくりと湯へ身を沈める。

熱がじわりと疲労を溶かしていき、思わず目を閉じた。

古代装置。

石板。

そして"起動"。

もしあの現象が各地で起きたなら――そう考えただけで背筋が冷える。

石板と装置が"出会う"だけで、世界は大きく変わり始めてしまう。

あまりにも危うい。

湯の中でそっと指先を握り、不安を洗い流すように、もう一度深く湯へ身体を沈めた。

*

翌朝の食卓は、いつもどおり賑やかだった。

ライナーは山のようにパンを積み上げ、エドガーは呆れたように紅茶を口へ運び、マルガレーテは「もっと召し上がって!」と次々に皿を並べる。

その横では、ルドルフが完璧な間合いで給仕を続けていた。

そんな食卓の中心で、アロイスだけはいつもと変わらぬ様子で静かに食事を進めている。

――ただ一つ。

彼の皿には、こんもりと盛られたブロッコリーだけが残されていた。

「坊ちゃん」

マルガレーテがにっこりと微笑む。

「ちゃんと召し上がってください」

アロイスの手がぴたりと止まった。

皿の上のブロッコリーを、まるで難敵でも見るような目で数秒見つめる。

挿絵(By みてみん)

やがて覚悟を決めたようにフォークを伸ばし、ものすごく嫌そうな顔で口へ運んだ。

無言で咀嚼する。

もう一度咀嚼する。

そのたびに眉間の皺が深くなっていく。

ライナーが堪えきれず笑い出した。

「ちゃんと食えよ、坊ちゃん」

「食べている」

返事はいつもどおり低く落ち着いていた。

けれど、その表情だけは完全に敗北している。

ミレイユは思わず瞬きをした。

(ブロッコリー、お嫌いなんですね……)

普段は何事にも動じないアロイスが、たかがブロッコリー一つでここまで露骨な反応を見せるとは思わなかった。

少しだけ。

本当に少しだけ、可愛らしいと思ってしまったのは秘密だった。

ミレイユは温かなスープを口へ運び、小さく息をつく。

こんな穏やかな時間が流れること自体、不思議に思えた。

*

朝食を終えて支度を整えると、アロイスが静かに席を立つ。

「行ってくる」

「行ってらっしゃいませ」

エドガーが頭を下げ、ルドルフも続いて一礼する。

「お気をつけて……」

その横で、マルガレーテは腕を組みながら力強く宣言した。

「今夜は、たんと召し上がっていただきますからね!」

アロイスは短く頷くと、最後にライナーへ視線を向ける。

「ライナー。残りは戻るまでに処理しておけ」

「ひどい!!」

即座に悲鳴が上がる。

エドガーは静かに眼鏡を押し上げた。

「当然でしょう」

「助けてミレイユ!」

泣きつくような声に、ミレイユはくすりと笑って答える。

「頑張ってください、ライナー様」

その一言で、ライナーは大袈裟に膝から崩れ落ちた。

相変わらず騒がしい。

けれど、その賑やかさは不思議と心地よく、ミレイユは自然と笑みを浮かべていた。

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