第16話:火の残滓
夜は早かった。
山間の空気は昼間とは別物で、日が落ちた途端に温度が一段と沈み込む。
国境付近では、王国側と帝国側が互いに一定の距離を保ちながら野営を張っていた。
焚き火が点々と闇を照らしている。
近すぎず、かといって遠すぎもしない。
その間には目には見えない境界線があり、誰もそれを越えようとはしなかった。
踏み込まない。
それが、今の両国に許された均衡だった。
遺跡で起きた出来事を目の当たりにした今となっては、その境界はなおさら重い意味を持っている。
石板。
古代装置。
そして、それらが"起動する"という事実。
双方とも、その危険性を身をもって理解してしまったからこそ、誰もが神経を張り詰めていた。
静かな夜だった。
だからこそ、薪がぱちりとはぜる音だけが、やけに大きく耳へ残る。
ミレイユは、その焚き火の前へ静かに腰を下ろしていた。
背筋は伸び、呼吸も外から見れば普段と変わらない。
だが、その内側では、まだ精神が軋み続けていた。
古代装置へ深く潜り込み、暴走しかけた干渉を無理やり断ち切った反動は、想像以上に大きかった。
頭の奥は重く、視界の端は時折わずかに揺れる。
指先にも思うように力が入らず、油断すれば感覚が抜け落ちてしまいそうだった。
(……まだ、大丈夫)
そう何度も自分へ言い聞かせる。
ここで崩れれば、周囲に心配をかけてしまう。
だから崩れない。
そう思い続けていた。
その時、不意に焚き火の明かりが遮られ、静かな影が落ちる。
顔を上げると、アロイスが何も言わず隣へ腰を下ろしていた。
砂利が小さく鳴る。
距離は近い。
けれど、不思議と圧迫感はなかった。
二人の間に沈黙が落ちる。
焚き火だけが静かに燃え続け、ぱち、と薪を弾いた。
「……無理していないか」
低く落ちた声には責める色はない。
ただ、見たままの事実を告げるような響きだった。
ミレイユは反射的に答える。
「……問題ありません」
いつもの返答だった。
自分自身を保つために、何度も繰り返してきた言葉。
しかしアロイスは、すぐには何も返さなかった。
否定も肯定もせず、ただ炎を見つめたまま数秒が過ぎる。
やがて静かに口を開いた。
「……嘘だ」
短い一言だった。
だが、その声音には揺らぎがなかった。
ミレイユは思わず言葉を探す。
否定しようとする。
けれど、できなかった。
沈黙だけが残る。
そのわずかな間を埋めるように、アロイスはほんの少しだけ肩を寄せる。
「……力を抜け」
ミレイユはその言葉に小さく息を呑む。
力を抜く。
たったそれだけのことが、今の彼女には難しかった。
それでも、言われたとおりに肩から少しずつ力を抜いていくと、張り詰めていた身体が思っていた以上に重くなり、そのまま静かにアロイスの肩へ預かってしまう。
慌てて身を起こそうとする。
「……申し訳ありません」
「構わん」
肩へ触れた感触は固く、鍛え抜かれた筋肉の重みがあった。
それでもアロイスは引き寄せようとはしない。
抱き締めることもしない。
ただ、その場にいて支えるだけだった。
その瞬間だった。
身体の奥で張り詰めていた糸が、ふっと緩む。
知らないうちに入っていた力が静かに抜け落ちていく。
ぼんやりとした意識の中で、ミレイユはふと思った。
――違う。
クロウレイに支えられた時は、もっと雑だった。
遠慮なんてなく、それでいて絶対に落とさないという確信だけがあった。
アルベルトは真逆だった。
迷いなく引き寄せ、逃げ場ごと守るように包み込む。
どちらも知っている。
どちらも、自分を守ろうとしてくれた。
けれど、今は違った。
押さえつけない。
閉じ込めない。
ただ、寄りかかれば支える。
それ以上は踏み込まない。
離れようと思えば、いつでも離れられる。
それでも、決して崩れない。
(……不思議)
安心とは少し違う。
けれど、この距離を拒みたいとは思わなかった。
「……少しだけ、借ります」
小さくそう呟くと、アロイスは何も答えなかった。
ただ、その姿勢を変えずに座っている。
焚き火の音だけが静かに続き、ゆるやかな時間が二人を包んでいく。
やがてミレイユの呼吸は少しずつ深くなり、完全に眠ることはないまま、意識だけが浅く沈み始めた。
肩へ預けられる重みが、ほんのわずかに増す。
その感覚を受け止めながら、アロイスは黙って炎を見つめ続けていた。
(……軽い)
そんなことを、ふと思う。
見た目どおり、まだ若い。
本来なら、こんな場所へ立たせるべき年齢ではない。
それでも彼女は、あの遺跡で誰より深く踏み込み、誰より長く耐え抜いた。
逃げなかった。
その事実だけは揺るがない。
炎が揺れる。
その赤い光の向こうに、別の夜が重なった。
血の匂い。
倒れ伏した男たち。
赤く染まる床。
父。
兄。
同じ血を引いた者たちを、自らの手で斬り捨てた夜。
あの時、自分は迷わなかった。
(……必要だった)
今でも、その判断は間違っていなかったと思っている。
そうしなければシュタルク家は終わり、騎士団も崩壊していた。
だから後悔はない。
それでも今、肩へ預けられた小さな重みと静かな寝息を感じていると、不意に思考が止まる。
(……こういうものは)
知らない。
守ることの、もう一つの形。
力で押さえ込むのではなく。
奪うのでもなく。
必要な時だけ支え、相手が立ち上がる余地を残すこと。
(……慣れない)
胸に浮かんだのは、その一言だけだった。
それでも肩を動かすことはない。
今だけは、この静かな重みを支え続けようと、ただそう思っていた。
*
少し離れた王国側の焚き火では、シルヴァンがふと顔を上げて帝国側を眺めていた。
炎越しに見える二つの影。
寄り添うように並ぶその姿を認めると、思わず小さく苦笑が漏れる。
「……あちゃー」
からかうわけでも、否定するわけでもない。
ただ状況を理解した者だけが漏らせる声だった。
その隣でアルベルトは何も言わない。
視線だけが静かに帝国側へ向けられている。
その光景が目に入った瞬間、胸の奥へ鈍い衝撃が走った。
怒りではない。
苛立ちでもない。
それなのに、ひどく痛かった。
(……なんだ、これ)
自分でも分からない。
慌てて視線を焚き火へ戻しても、先ほどの光景だけは脳裏から離れなかった。
シルヴァンはそんな横顔を見つめ、小さく息を吐く。
(……まだ気づいてないのか)
口には出さない。
今はまだ、その時ではない。
夜は静かに更けていく。
焚き火は少しずつ小さくなり、それでも残された熱だけは、確かにそこにあり続けていた。




