第15話:対になるもの
古代遺跡の最深部は、ひんやりと冷えた空気に包まれていた。
広間の中央には巨大な円形の台座が鎮座し、その上では、かつてミレイユが“眠らせた”古代装置が静かに沈黙している。
もっとも、それは完全に機能を失ったわけではない。
近づくだけで分かる。
深い場所で、何かが静かに息を潜め、目覚めの時を待っているような気配があった。
その場に集まった誰もが、それを本能的に感じ取っていた。
王国騎士も、シュタルク騎士も、自然と口数が少なくなる。
呼吸さえ浅くなり、広間には重苦しい緊張だけが漂っていた。
そんな中で、ただ一人、ヴァルターだけが普段と変わらない様子だった。
布に包まれた石板を抱えたまま、ゆっくりと古代装置へ歩み寄っていく。
「……気をつけろ」
アロイスが低く声をかける。
短い警告だったが、その声音には十分な重みがあった。
その言葉に、アルベルトがちらりとアロイスへ視線を向ける。
帝国側の責任者。
そして今、ミレイユの隣に立ち、彼女を守る男。
何も言わなかったが、その眼差しだけがわずかに鋭さを増していた。
一方のヴァルターは肩をすくめ、苦笑まじりに応じる。
「怖いですねぇ」
そう言う声には、怖がる気配など微塵もない。
そのまま布を少しずつめくり、石板をゆっくりと露出させた。
その瞬間だった。
(……反応している)
ミレイユの背筋を、冷たいものが駆け抜ける。
ほんのわずかではあるが、古代装置が確かに“こちら”を認識したのだ。
ヴァルターは慎重に石板を持ち上げ、装置へ近づけていく。
一歩。
また一歩。
広間には誰一人として物音を立てる者はいない。
全員が息を詰め、その瞬間を見守っていた。
だが――何も起こらなかった。
石板は静かに光を宿したまま、古代装置も沈黙を保ち続ける。
しばらく様子を見ていたヴァルターが、片眉を上げた。
「……不発、ですかね」
軽く呟いた、そのときだった。
「……違う」
ミレイユが小さく声を漏らす。
視線は古代装置へ向けたまま、一瞬たりとも動かさない。
「……届いていません」
「何?」
シルヴァンが振り返る。
ミレイユはゆっくりと息を吸い込み、慎重に言葉を続けた。
「感じます。石板も、装置も……お互いの存在は認識しています」
静かに目を閉じる。
精神を研ぎ澄ませると、二つの波長が互いを求め合うように震えているのが分かった。
けれど、あと少しだけ届かない。
繋がりそうで繋がらない。
まるで途中で断ち切られた糸の両端が、あとわずかで触れ合うところまで近づいているような感覚だった。
「……波長は一致しています」
ミレイユは静かに言う。
「でも、何かが足りません」
その瞬間、不意に理解した。
足りないのは、間を繋ぐものだ。
そう思った時には、もう身体が動いていた。
無意識のまま一歩前へ踏み出す。
それを見たアロイスの視線が鋭く動いた。
「ミレイユ」
制止にも似た低い声が飛ぶ。
だが、その声はもう彼女の耳へ届いていなかった。
意識は深く感覚の中へ沈み込み、目の前の二つだけを見つめている。
「……繋がります」
ほとんど独り言のように呟きながら、ミレイユはそっと右手を伸ばした。
石板にも装置にも触れてはいない。
その代わり、自らの精神を媒介として、二つの間に横たわる僅かな空白へ静かに入り込む。
途切れていた流れを、そっと繋ぐ。
その瞬間だった。
――ォォン……
低く重い振動音が、遺跡全体を震わせた。
同時に石板と古代装置が、まるで呼応するように青い光を放つ。
空気そのものが震え始める。
「まずい……!」
シルヴァンの顔色が変わった。
「起きる!!」
その叫びと同時に、青い光がゆっくりと広がっていく。
水面へ波紋が広がるように、静かに、しかし確実に。
古代装置を中心として、広間全体へ淡い光が侵食していった。
ミレイユの瞳が揺れる。
(……範囲が、拡大している)
最初はわずかな広がりだった。
しかし、その速度は決して遅くない。
やがて装置の前に立つ彼ら全員を包み込むほどの広がりとなり、次の瞬間――背後で金属音が響いた。
振り返る。
そこには王国騎士とシュタルク騎士たちが立っていた。
その目からは感情が消え失せ、虚ろな瞳だけが静かに前を見据えている。
やがて彼らは、まるで操り人形のようなぎこちない動きで剣を抜き、互いへ切っ先を向けた。
広間の空気が、一瞬で凍りつく。
ミレイユ自身もまた、頭の奥へ重く冷たい何かが流れ込んでくるのを感じていた。
思考が鈍る。
感情が静かに沈んでいく。
――考えるな。
――委ねろ。
――意思を、手放せ。
甘く囁くようなその声が、ゆっくりと精神へ染み込んできた。
隣では、ヴァルターがゆっくりと目を細めていた。
「これはまた……」
珍しく、その声には本気の警戒が滲んでいる。
騎士たちは完全に装置の干渉を受けていた。
王国騎士も、シュタルク騎士も、感情を失ったまま静かに剣を構える。
そこに敵味方の区別はない。
ただ命じられるままに動く人形のように、互いへ刃を向けていた。
「止めろ!!」
アルベルトが叫ぶと同時に駆け出した。
振り下ろされた剣を弾き飛ばし、力任せではなく正確な体捌きで相手の動きを封じる。
だが、一人止めても次が動く。
操られた騎士たちは止まらなかった。
その横では、アロイスもすでに動いている。
無駄のない踏み込みで懐へ入り、剣の腹を使って騎士の首筋を正確に打ち据える。
一人。
また一人。
意識だけを刈り取り、決して命は奪わない。
壊さないための戦いだった。
しかし、数が多い。
王国騎士とシュタルク騎士が入り乱れ、遺跡の広間へ激しい剣戟音が響き渡る。
混乱の只中にありながら、誰一人として本気で相手を斬ろうとはしていない。
正気を保っている者たちが、必死に仲間を止め続けていた。
その最中、アロイスとアルベルトの視線が一瞬だけ交わる。
言葉はない。
必要もなかった。
互いが同じ目的で剣を振るっていることを、その一瞬で理解していた。
守るために戦う。
ただ、それだけだった。
「ミレイユ!!」
シルヴァンの声が広間へ響く。
「眠らせろ!!」
その叫びに、ミレイユははっと我に返った。
装置と石板は、今もなお精神を介して繋がっている。
ならば――。
「切れば……」
掠れた声が漏れる。
「また……眠らせれば……!」
震える息を整え、ゆっくりと目を閉じる。
精神をさらに深く沈めると、二つを結ぶ青い流れがはっきりと見えた。
石板と装置。
互いを求め合い、強く結び付こうとする波長。
その流れを――断つ。
「……眠って」
静かな声だった。
命令ではない。
懇願にも似た優しい響き。
しかし次の瞬間、凄まじい反発がミレイユの精神へ叩き返される。
「っ……!」
頭の奥が割れるように痛む。
視界が大きく揺れ、膝から力が抜けそうになる。
それでも離さない。
繋いでしまったのなら、自分が断ち切らなければならない。
「……戻って……!」
歯を食いしばり、精神干渉をさらに押し込む。
暴走しかけた流れを力づくで押さえ込み、無理やり閉じていく。
やがて――。
――ォン……
低く響いていた振動が、静かに弱まった。
青い光が一度揺らぎ、それからゆっくりと色を失っていく。
古代装置が再び眠りへ落ちる。
石板の輝きも同時に消え、遺跡を満たしていた圧迫感が嘘のように消えていった。
張り詰めていた空気が戻る。
その瞬間、騎士たちの動きがぴたりと止まった。
手から剣が滑り落ち、乾いた音を立てて床へ転がる。
誰もが呆然と立ち尽くし、自分に何が起きていたのか理解できずにいる。
ミレイユもまた、大きく身体を揺らした。
限界だった。
意識が遠のき、そのまま倒れかける。
しかし、その身体が床へ届くことはなかった。
アロイスが素早く腕を伸ばし、無言のまましっかりと抱き留める。
腕の中の身体は驚くほど軽い。
呼吸は浅く、意識も朦朧としていた。
少し離れた場所から、その光景をアルベルトが静かに見つめている。
何も言わない。
ただ胸の奥へ鈍い痛みだけが広がっていった。
かつて彼女を支え、守る役目は自分だった。
けれど今、その場所に立っているのはアロイスだった。
変わってしまった現実を、アルベルトはただ静かに受け止めるしかなかった。
重い沈黙が広間を包む中、ヴァルターが床へ落ちた石板を見下ろしながら、小さく口を開く。
「なるほど……」
その声だけが静かな遺跡に響いた。
「"対になる石板"で、装置を"起こす"――そういうことですか」
誰も否定しない。
ヴァルターは石板へ視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「つまり、王国で所有している石板を使えば、連動していると思われる帝国側の装置を起こすこともできる」
その一言で、広間の空気が再び冷え切った。
アロイスが間髪入れずに口を開く。
「……この石板は王国側へ渡すわけにはいかない」
低く、断定する声だった。
するとシルヴァンも笑みを消したまま応じる。
「王宮で保管している石板だって、帝国へ渡す気はありませんよ」
二人の視線が真っ直ぐにぶつかる。
帝国。
王国。
互いに一歩も譲るつもりはなかった。
緊張が走る中、ヴァルターだけが面白そうに肩をすくめる。
「まぁまぁ」
軽く手を振りながら場を和らげるように笑った。
「とりあえず、一旦双方引き上げましょう」
誰よりも冷静な口調で続ける。
「今後どちらが石板を保有するかは、現場で決めることではありません。"上"に任せるべきでしょう」
正論だった。
だからこそ、誰もすぐには反論できない。
ヴァルターは満足そうに口元を歪める。
「……ね?」
その笑みに安心できる者は、一人もいなかった。
やがて双方は静かに遺跡を後にする。
向かう先は国境。
再び、王国と帝国の狭間へ戻るために。




