第13話:書類戦線異常あり
シュタルク邸の執務室は、まさに戦場だった。
――いや、正確に言えば、戦場よりもひどいかもしれない。
「……増えてません?」
机の上に積み上げられた書類の山を見つめながら、ミレイユが静かに呟く。
山というより、もはや壁だった。
その壁の向こうでは、アロイスが無言で一枚ずつ書類へ署名し、その隣ではエドガーが淡々と書類を仕分け続けている。
「増えています」
即答だった。
「閣下が数日不在だった影響ですね」
「いや待て」
少し離れた机から、ライナーが力なく顔を上げる。
目の下には隈が浮かび、その目はすっかり死んでいた。
「これもう魔術だろ……絶対誰か書類を増殖させてるって」
「現実です」
「その返し聞き飽きた!!」
半泣きの抗議が執務室へ響く。
王国行きの準備。
騎士団の通常業務。
皇宮へ提出する書類。
遺跡調査の報告。
各地警備体制の再編。
さらにアロイスが再び王国へ向かう以上、不在中の業務まで前倒しで片付けなければならない。
その結果、執務室は文字どおり地獄と化していた。
「……閣下」
エドガーが一枚の書類を差し出す。
「こちら、北部警備隊の配置変更案です」
アロイスは受け取るなり目を通し、ほとんど間を置かずに返した。
「第二案で行け」
「承知しました」
会話は短い。
迷いもない。
ミレイユはそのやり取りを眺めながら、自分の前へ積まれた書類へ視線を落とした。
騎士団支出報告。
数字。
物資。
補給。
一見すると綺麗に整理されているようで、細部にはいくつもの違和感が残っている。
「……こちらですが」
ミレイユが顔を上げる。
「この項目、重複しています」
エドガーが視線を向けた。
「ん?」
ミレイユは二つの書類を並べ、該当箇所を指先で示す。
「こちらの物資搬入記録と、この支出報告ですが、内容は同一です」
エドガーが数秒だけ確認し、静かに息を吐いた。
「……本当ですね」
その目が、わずかに見開かれる。
ライナーが隣で呻いた。
「うそだろ……」
だが、ミレイユはさらに続ける。
「それから、こちらは計算もずれています」
さらりと言って別の箇所を示す。
「輸送費が二重計上されています」
執務室が、一瞬静まり返った。
エドガーは黙ったまま書類を見つめる。
ライナーは天井を仰いだ。
「……女神か?」
「脳筋は黙っていてください」
「今の俺、傷ついていい場面だろ!?」
いつもの調子で言い返しながらも、その声にはどこか感動すら混じっている。
一方で、エドガーの視線は少しだけ変わっていた。
人を測る目。
そして、その能力を素直に認める目だった。
「……なるほど」
ぽつりと呟く。
「王国王宮魔術師は、事務能力まで求められるのですね」
ミレイユは少しだけ首を傾げた。
「最低限ですが」
「最低限?」
ライナーが勢いよく食いつく。
「これが最低限!?うちの騎士団壊滅するぞ!?」
エドガーはその叫びを聞き流しながら眼鏡を押し上げる。
「正直に申し上げますと、ここまで処理能力が高いとは思っていませんでした」
率直な言葉だった。
嫌味も皮肉もない。
純粋な評価として口にしている。
ミレイユは少しだけ目を瞬かせ、それから静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その横で、アロイスは変わらず黙々と書類を捲っていた。
だが、ほんの一瞬だけ視線を上げ、ミレイユを見る。
「……助かる」
短い一言だった。
飾り気はない。
だからこそ、それが本音なのだと分かる。
ミレイユの表情が少しだけ和らいだ。
「お役に立てているなら、よかったです」
その言葉を聞いた瞬間、ライナーが勢いよく立ち上がる。
「ミレイユ!!」
「はい」
「ありがとう!!!」
突然の大声だった。
「俺、初めて人類に感謝した!!!」
「大袈裟ですね」
エドガーが即座に切り返す。
「いや、だって見ろよ!」
ライナーは机を叩きながら叫ぶ。
「書類が減ってる!! 目に見えて減ってる!!」
確かにそうだった。
ミレイユが加わってからというもの、処理速度は目に見えて上がっている。
エドガーは冷静に分析する。
「閣下が即断型、私が分類整理型だとすれば――」
視線をミレイユへ向ける。
「ミレイユ殿は確認・精査型ですね」
納得したように頷く。
「三人の役割が、ちょうど噛み合っています」
ライナーは感極まったように目頭を押さえた。
「チームワークって……素晴らしい……」
「お前はもう少し書類を読め」
アロイスの低い一言が飛ぶ。
「うっ」
致命傷だった。
執務室へ、小さな笑いが広がる。
それまで張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなった。
ミレイユは、その空気を静かに感じていた。
王宮とも違う。
研究所とも違う。
騒がしくて、落ち着きがなくて、誰かが絶えず何かを話している。
それなのに、不思議と息がしやすい。
気づけば、自分は少しずつこの場所へ馴染み始めていた。
その変化に、当の本人だけはまだ気づいていなかった。
*
書類の山がようやく"人類の手に負える高さ"まで低くなった頃、ルドルフの落ち着いた声が執務室へ響いた。
「皆様、一度お休みくださいませ」
顔を上げると、いつの間に準備したのか、奥のテーブルには茶器が美しく整えられている。
銀のポット。
白磁のカップ。
焼き菓子。
そして、湯気とともに立ち上る、やわらかな紅茶の香り。
「休憩!!」
ライナーが真っ先に顔を輝かせる。
「声が大きい」
エドガーが呆れたように返す。
もっとも、彼自身も眼鏡を外して目元を押さえていた。
さすがに疲労は隠せないらしい。
アロイスも無言で席を立ち、自然な流れで全員がテーブルへ集まった。
ルドルフは一人ひとりの前へ静かに紅茶を注いでいく。
その所作には一切の無駄がなく、まるで長年磨き上げられた儀式のようだった。
ミレイユはカップをそっと手に取る。
ふわりと立ち上る香りに、思わず頬が緩んだ。
「……いい香りですね」
自然に零れたその一言に、ルドルフはわずかに目を細める。
「本日は南方から届いた茶葉を使用しております」
ミレイユは静かに口をつけた。
優しい熱が喉を通り、冷えていた身体の奥までゆっくりと広がっていく。
知らず知らずのうちに入っていた力が、少しずつ抜けていった。
「……ほっとします」
いつもより柔らかな声音だった。
その言葉に、マルガレーテが嬉しそうに微笑む。
「それはようございました」
その隣では、アロイスが黙って紅茶を飲んでいる。
相変わらず口数は少ない。
それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。
エドガーも静かにカップを傾け、束の間だけ仕事から意識を切り離している。
ただ一人。
「これ、うめぇな!」
ライナーだけが猛烈な勢いで焼き菓子を食べ続けていた。
「えっ、待って。この焼き菓子何? 無限に食えるんだけど」
「ライナー様」
マルガレーテが満面の笑みを向ける。
優しい笑顔だった。
だが、妙な圧がある。
「もうおしまいになさいませ」
「えっ」
ライナーの手がぴたりと止まった。
「まだ三皿目だぞ!?」
「十分です」
「厳しくない!?」
「夕食が入らなくなりますでしょう」
正論だった。
ライナーは肩を落とし、名残惜しそうに皿を置く。
その様子を見ながら、エドガーが淡々と呟いた。
「胃袋だけは元気ですね」
「それ褒めてる?」
「いいえ」
即答だった。
そのやり取りに、ミレイユの口元がふっと緩む。
小さく、けれど確かな笑みだった。
その表情を、アロイスは静かに見つめていた。
何も言わない。
ただ、彼女の張り詰めた心が少しずつ解け始めていることを、静かに確かめるように。
窓の外では、夕暮れが帝都の街並みを茜色に染め始めていた。
戦場でも、皇宮でもない。
誰かと笑い、温かい紅茶を飲み、他愛のない言葉を交わすだけの時間。
その束の間の静けさが、今のミレイユにとっては、何より大切な"休息"になり始めていた。




