第12話:束の間の安堵
シュタルク邸へ戻った途端、玄関ホールに勢いよく声が響いた。
「ミレイユ様ぁぁぁ!!」
飛び出してきたのは、マルガレーテだった。
一直線に駆け寄ると、ミレイユが何か言う間もなく、その肩をぐいっと掴む。
「またお痩せになって!!」
開口一番、それだった。
「お顔もこんなに白くなって……!絶対、ちゃんと召し上がっていませんでしたでしょう!」
「い、いえ、その……」
「言い訳は結構です!」
ぴしゃりと言い切られ、ミレイユは思わず口をつぐむ。
「今夜はもう何も考えずに休んでくださいませ!明日はたっっぷり召し上がっていただきますからね!!」
有無を言わせない迫力だった。
ミレイユは少し困ったように笑いながら、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その一言に、マルガレーテはようやく満足そうに頷いた。
「よろしい!」
そのやり取りをかき消すように、今度は別の絶叫が屋敷中へ響き渡る。
「団長ぉぉぉぉ!!!!」
半泣きの声とともに駆け込んできたのはライナーだった。
目の下には濃い隈ができ、髪も心なしか乱れている。
どう見ても疲労困憊だった。
「おかえりぃぃぃ!!!やっと帰ってきた!!俺もう限界!!」
叫びながらアロイスへ詰め寄るが、当の本人は表情一つ変えない。
「そうか」
短い返事だけが返る。
「そうかじゃねぇんだよ!!」
ライナーは勢いよく振り返り、部屋の奥を指差した。
そこには相変わらず山のように積み上がった書類が鎮座している。
「なんで書類って減らねぇの!?増殖してんの!?」
「現実です」
冷静な声が横から返ってきた。
エドガーがいつものように眼鏡を押し上げる。
「ちなみに未処理分は、まだ半分ほど残っています」
その一言で、ライナーの表情から完全に生気が抜け落ちた。
「…………」
「これだから脳筋は」
「俺は現場でこそ光るんだよ!!」
間髪入れずに反論する。
「連れてけよ!!砂漠でも遺跡でも黒衣集団でもいい!そっちの方が百倍マシだ!!」
「騒がしい」
アロイスの低い一言で、その場は一瞬だけ静まり返る。
しかし、その静寂も長くは続かなかった。
「いや団長!?ちょっとは同情してくれてもいいだろ!?」
結局いつもの調子に戻る。
ミレイユは、その賑やかなやり取りを静かに眺めていた。
本当に騒がしい。
落ち着きもなく、誰かが黙れば別の誰かが喋り始める。
王宮とは、まるで違う空気だった。
けれど、その騒がしさが不思議と心地よい。
張り詰めていた胸の奥が、少しだけ緩んでいく。
知らず知らずのうちに、肩から力が抜けていた。
その小さな変化を、アロイスは横目で静かに見ていた。
何も言わない。
ただ、屋敷全体を包む空気が、ほんの少しだけ柔らかくなったような気がした。
*
翌朝、皇宮から召集が入る。
謁見室では、第一皇子が机上へ置かれた一枚の石板を静かに見下ろしていた。
砂漠の遺跡から回収された石板。
その隣には、調査報告書が整然と並べられている。
部屋にはミレイユとアロイスが控え、壁際にはヴァルターがいつものように静かに立っていた。
「つまり――」
第一皇子がゆっくりと口を開く。
「砂漠で入手した石板は、砂漠に存在した古代装置ではなく、王国にある古代装置に近い、と」
「はい」
ミレイユは静かに頷いた。
そして少しだけ視線を落とし、慎重に言葉を選ぶ。
「そして……現在、王国で保管されている石板は、砂漠に存在した古代遺跡と“波長”が合うものではないかと考えています」
部屋に沈黙が落ちる。
第一皇子は机を軽く指先で叩きながら、その仮説を頭の中で整理していた。
「本来、対になっているものが……入れ替わっている、ということか」
「まだ仮説に過ぎませんが」
ミレイユが静かに答える。
第一皇子はしばらく考え込んだあと、迷いなく口を開いた。
「ならば、実証しろ」
即断だった。
ミレイユがゆっくり顔を上げる。
「王国へ行け」
まっすぐ向けられた視線には、一切の迷いがない。
「こちらで入手した石板と照合しろ」
その言葉に、ミレイユの表情がわずかに強張る。
「……危険です」
静かな声だった。
「石板を持ち出すのは……」
精神干渉を増幅する危険な媒介。
その脅威は、砂漠で身をもって証明されたばかりだった。
だが、第一皇子は首を横には振らない。
「王国が保有する石板を帝国へ持ち込むわけにはいかない」
その言葉は、正論だった。
「ならば、こちらが動くしかあるまい」
そして、視線はアロイスへ移る。
「シュタルク公爵」
「はっ」
「任せる」
「……かしこまりました」
短いやり取りだけで任務は決まる。
さらに第一皇子は、壁際へ視線を向けた。
「ヴァルターも同行させる」
その瞬間、ヴァルターの口元がゆっくりと歪んだ。
「仰せのままに」
穏やかな声だった。
だが、その笑みにはどこか愉悦が滲んでいる。
それを見たミレイユの胸に、小さな胸騒ぎが生まれた。
理由は分からない。
けれど、その笑みだけは、どうしても安心できなかった。
*
同じ頃、皇宮の別室。
灯りを落とした静かな部屋には、窓から差し込む月明かりだけが淡く広がっていた。
窓辺には第二皇子が立ち、手にしたワイングラスをゆっくりと傾けている。
赤い液体が静かに揺れ、月光を受けて妖しく煌めいた。
やがて扉が音もなく開き、ヴァルターが部屋へ入ってくる。
第二皇子は振り返ることなく、小さく笑みを浮かべた。
「……石板と装置に相性があったとはね」
その声音には驚きよりも、どこか感心したような響きが混じっている。
「盲点でしたね」
ヴァルターも肩をすくめながら応じた。
「こちらも、そこまでは想定していませんでした」
第二皇子はグラスを静かに揺らす。
赤いワインがゆっくりと縁を滑り、揺れるたびに光を映し返した。
「一つは王国へ押収されてしまった」
穏やかな口調のまま、ぽつりと呟く。
「そして、もう一つは"向こう"の手の中か」
小さく息を吐く。
「困ったものだね」
そう口にしながらも、その表情に焦りは見えない。
むしろ、予想外の出来事すら楽しんでいるようだった。
その横顔を見つめながら、ヴァルターは薄く笑う。
「でしたら、その石板は私がお守りしましょう」
不敵な声音だった。
第二皇子は、その言葉にゆっくりと目を細める。
「頼りにしているよ」
短く返したあと、再び窓の外へ視線を向けた。
帝都の夜景が、静かに広がっている。
しばらくその景色を眺めていたが、やがて思い出したように口を開いた。
「……それと」
ヴァルターが静かに視線を向ける。
「あのお姫様も、守ってやってくれよ」
柔らかな声音だった。
その一言に、ヴァルターの眉がわずかに動く。
第二皇子は窓の外を見たまま、穏やかに続けた。
「失うには、惜しい」
夜風がカーテンを静かに揺らす。
その言葉だけを聞けば、まるで一人の少女を案じる優しい人物のようにも思えた。
だが、ヴァルターは知っている。
主君が口にする"守る"という言葉が、必ずしも本人の自由や幸福を意味するわけではないことを。
大切だからこそ手元へ置きたい。
失いたくないからこそ、選択肢ごと奪うことも厭わない。
その穏やかな微笑みの奥に潜む本質を、誰よりも近くで見てきた。
だからこそ、ヴァルターは何も尋ねない。
何も諫めない。
ただ静かに一礼すると、口元へ薄い笑みを浮かべた。
「……承知いたしました」
その返答だけで十分だった。
第二皇子も、それ以上は何も言わない。
月明かりだけが静かに部屋を照らし、二人の影を長く床へ落としていた。
優しげな笑みを浮かべる皇子と、その傍らで静かに控える男。
一見すれば穏やかな主従の姿だった。
しかし、その静寂の裏側では、王国へ向かう一行を巡る新たな思惑が、誰にも気づかれぬまま静かに動き始めていた。




