第10話:眠りの石版
遺跡の奥に、静寂が落ちていた。
先ほどまで空間を満たしていた耳鳴りのような干渉は跡形もなく消え、青く脈打っていた古代装置も、今は何事もなかったかのように沈黙している。
その静けさの中で、荒い呼吸だけが小さく響いていた。
床へ膝をついたミレイユは、肩を上下させながら息を整えようとしている。
「ミレイユ殿」
エドガーはすぐに駆け寄り、その場へしゃがみ込んだ。
「……意識は」
「あります……」
答えは返ってきた。
だが、その声は掠れ、顔色もひどく青ざめている。
精神干渉の反動だった。
しかも、その負荷は王国で休眠させた装置とは比べものにならないほど重い。
アロイスは何も言わず、遺跡全体へ視線を巡らせる。
騎士たちも少しずつ正気を取り戻し始めていた。
恐慌状態に陥っていた男も、今は呆然と床へ座り込み、自分の手を見つめている。
「……何が……」
「夢を見ていたような……」
誰も状況を理解できていない。
それでも、命に別状はない。
そのことを確認すると、ミレイユはようやく小さく息を吐いた。
「戻っています……」
エドガーも周囲を見渡しながら静かに頷く。
「休眠した影響でしょう。少なくとも、干渉源は沈黙しています」
そのときだった。
アロイスの視線が、遺跡の入口へ向く。
「……来る」
低い一言。
次の瞬間、空気が裂けるような殺気が走った。
「伏せろ!」
鋭い声と同時に矢が飛来する。
エドガーは瞬時に魔法陣を展開し、透明な結界が火花を散らして矢を弾いた。
その隙を縫うように、黒衣の集団が遺跡へ雪崩れ込んでくる。
十人ほど。
動きに無駄はなく、明らかに訓練されている。
盗賊ではない。
しかし、その所属までは判別できなかった。
「……こちらを妨害するつもりか」
エドガーが低く呟く。
返事はない。
黒衣たちは一切の迷いもなく、一行へ襲いかかってきた。
「迎撃する」
アロイスが静かに剣を抜く。
その瞬間、遺跡の空気が一変した。
次の瞬間には、先頭を走っていた男が吹き飛んでいる。
速い。
いや――重い。
一歩踏み込む、その動き自体が暴力だった。
鈍い衝撃音が遺跡へ響く。
その横では、エドガーも即座に魔術を展開した。
「右を塞げ!」
青白い魔法陣が広がり、通路を壁のように封鎖する。
黒衣たちの隊列が真っ二つに分断された。
その一瞬を逃さず、シュタルク騎士団も素早く陣形を立て直す。
息の合った連携だった。
だが、そのとき――。
遺跡のさらに奥から、別の気配が流れ込んでくる。
ミレイユの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。
「――下がってください!!」
叫んだ、その直後だった。
淡い青い光が遺跡の奥から静かに広がっていく。
空気が変わる。
荒々しかった殺気が、嘘のように消えていく。
柔らかく。
穏やかで。
まるで深い夜へ包み込まれるような静けさだった。
それと同時に、抗いようのない眠気が一気に押し寄せる。
「……これは」
エドガーが眉をひそめる。
シュタルク騎士の一人が膝をついた。
「っ……だめ、だ……」
その姿を皮切りに、次々と騎士たちが地面へ崩れ落ちていく。
眠らされている。
ミレイユは息を呑み、青い光が放たれた通路の奥へ視線を向けた。
そこには、黒衣の男が一人。
両手で石板を掲げていた。
青白く光る、その石板。
「あれは……」
ミレイユの瞳が大きく揺れる。
「……石板」
王国で見たものと同じだった。
だが、放たれる感覚が違う。
これは――。
「……誘眠している……!?」
精神干渉能力者。
石板を媒介に、広域へ精神干渉を行っている。
その事実を悟った瞬間、遺跡の空気は再び張り詰めた。
*
アロイスは止まらなかった。
押し寄せる眠気を振り払うように剣を振り抜き、その一撃で黒衣の男を吹き飛ばす。
「効かんな」
低く放たれた声には、わずかな揺らぎもない。
その横では、エドガーも片手でこめかみを押さえながら舌打ちした。
「厄介ですね……!」
二人とも精神力が高い。
干渉を受けても、完全に意識を奪われることはない。
だが、騎士たちは違った。
一人、また一人と膝をつき、そのまま眠るように倒れていく。
ミレイユは、石板を掲げる男をまっすぐ見つめた。
ふと視線が合う。
男はゆっくりと口元を歪め、勝利を確信したように笑った。
その瞬間、ミレイユは一歩前へ踏み出す。
頭が痛む。
視界も大きく揺れている。
砂漠の古代装置へ精神干渉した直後だ。
心も身体も、とっくに限界へ近づいている。
それでも――止めなければならない。
男の精神干渉が、波のように広がる。
ミレイユは静かに目を閉じ、その術式へ意識を重ねた。
触れた瞬間、冷たさが全身を貫く。
強引で、一方的な力だった。
眠らせることで抵抗する意思そのものを奪い、相手から選択を取り上げる干渉。
その在り方に、胸の奥が痛んだ。
ゆっくりと息を吸い込み、ミレイユは静かに口を開く。
「……その人たちを、眠らせないでください」
男の笑みが、ぴたりと止まる。
ミレイユの瞳は、真っ直ぐだった。
一切揺らがない。
「休みたいかどうかは――」
相手を見据えたまま、静かに続ける。
「その人たち自身が、決めることです」
次の瞬間、二つの精神干渉が正面からぶつかり合った。
空間が震える。
遺跡全体を満たしていた青い光が激しく揺らぎ、空気そのものが軋むような音を立てる。
男の表情が大きく歪んだ。
「なっ――」
驚愕が浮かぶ。
石板の光が乱れ始める。
ミレイユは、さらに一歩踏み込んだ。
押し返すためではない。
守るためだった。
人の心へ勝手に踏み込ませない。
そのために、自らの精神干渉で境界を閉ざしていく。
「あなたが決めないでください」
静かな声だった。
それでも、その言葉には揺るぎない意志が宿っていた。
ぱきん――。
何かが砕けるような感覚が遺跡に響く。
男の精神干渉が、一気に崩壊した。
「う、ぁっ……!」
石板が男の手から滑り落ちる。
同時に、騎士たちを包んでいた誘眠も霧が晴れるように消えていった。
「今だ!」
エドガーの声が飛ぶ。
アロイスは一瞬の迷いもなく踏み込んだ。
銀の軌跡が走る。
一閃。
残っていた黒衣たちは、その一撃を最後に次々と崩れ落ちた。
戦闘は、あまりにもあっけなく終わる。
遺跡に静寂が戻った。
残るのは、荒い呼吸だけだった。
ミレイユの身体が、大きく揺れる。
視界の端に、床へ落ちた石板が映った。
震える指で、それを拾い上げる。
その瞬間だった。
膨大な感覚が、一気に流れ込んでくる。
王国。
あの遺跡。
静かな精神干渉。
怒りを鎮め、人の心を穏やかに導こうとしていた力。
「……これ……」
掠れた声が漏れる。
「王国で保管されていた石板と……同じ……」
けれど、違う。
先ほど休眠させた砂漠の古代装置とは、まるで性質が異なっている。
「……ここの装置と、というより……」
視界が大きく揺れた。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
それでも最後に、一つだけ確信する。
「王国で見た装置と……近い……」
そこが限界だった。
全身から力が抜ける。
倒れ込む、その身体を。
アロイスが咄嗟に受け止めた。
「……ミレイユ」
低く名を呼ぶ。
腕の中の身体は驚くほど軽かった。
呼吸はある。
鼓動もある。
だが、意識は深く落ちている。
アロイスは静かに視線を落とした。
青い光を失い、ただの石へ戻りつつある石板。
その向こうには、完全に休眠した古代装置が静かに横たわっている。
王国で眠る装置。
帝国の砂漠で眠った装置。
そして、今ここに残された石板。
ばらばらだった点が、ゆっくりと一本の線で結ばれ始めていた。
その線の先にあるものを、まだ誰も知らない。
ただ一つだけ確かなのは――。
この遺跡で終わりではないということだった。




