第9話:砂の底で眠るもの
報告が届いたのは、夜明け前のことだった。
シュタルク邸の執務室には、すでに大量の書類が机の上へ積み上げられている。
その山を見つめながら、ライナーは心の底から嫌そうな声を漏らした。
「……嘘だろ」
エドガーはそんな反応など意に介さず、淡々と書類を仕分けていく。
「残念ながら現実です」
「いや待て、増えてない?さっきより増えてない?」
「閣下が不在になりますので」
さらりと返す。
「騎士団関連の決裁書類も追加されました」
ライナーは固まった。
数秒の沈黙。
やがて低い声で呟く。
「……団長」
執務机の向こうでは、アロイスが皇宮から届いた報告書へ目を通していた。
「なんだ」
「俺も行く」
即答だった。
「やっぱ現地の方がいい。砂漠とか超行きたい」
「駄目だ」
一刀両断だった。
「えぇ……」
「副団長の仕事を放棄するな」
「それ絶対エドガーの差し金だろ」
「事実を申し上げただけです」
エドガーは表情一つ変えない。
ライナーは力尽きたように机へ突っ伏した。
「嫌だ……書類仕事嫌だ……」
完全に死んだ目をしている。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
「……失礼します」
ミレイユだった。
部屋へ入った途端、妙な空気に少しだけ目を瞬かせる。
机へ突っ伏すライナー。
山のような書類。
そして、いつも以上に静かなエドガー。
「何か、ありましたか」
その問いに、エドガーはすぐ仕事の顔へ戻った。
「皇宮より、異常干渉発生の報告です」
その一言で、部屋の空気が一変する。
ライナーも顔を上げた。
先ほどまでの気の抜けた表情は、もうない。
エドガーは一枚の報告書をミレイユへ差し出す。
「帝都南方、砂漠地帯の採掘居住区において、精神異常と思われる症状が多数発生しています」
続けて淡々と告げた。
「第一皇子殿下より、調査命令が下りました」
ミレイユは静かに報告書へ目を落とす。
その瞬間だった。
胸の奥が、ざわりと波立つ。
遠いどこかで、何かが脈打っている。
嫌な感覚だった。
王国で石板へ触れたとき。
そして、古代装置へ触れたとき。
あの感覚に、よく似ている。
「……砂漠」
小さく呟き、ゆっくりと顔を上げた。
「恐らく……あります」
その一言で、室内は静まり返る。
ライナーから軽薄な空気が消えた。
「王国にあったという、古代装置……か」
アロイスだけは表情を変えない。
ただ一言だけ告げる。
「向かう」
それだけで決まった。
ライナーはじっとアロイスを見る。
嫌な予感しかしない顔だった。
対するアロイスは、いつも通り平然と言う。
「留守は任せる」
数秒の沈黙。
「…………は?」
「騎士団の管理を空けるわけにはいかん」
「いやいやいや、待て待て待て!」
ライナーは勢いよく立ち上がった。
「団長いない!副団長俺!つまり俺が全部!?」
「理解が早いな」
「褒めてねぇよ!?」
エドガーが静かに補足する。
「主な業務は、決裁、報告整理、予算確認、訓練予定の調整、それから皇宮提出用書類ですね」
「死ぬ」
即答だった。
「俺、絶対砂漠行った方が生き生きしてるって」
「気のせいです」
「冷たくない!?」
ミレイユは、そのやり取りを見てほんの少しだけ目を瞬かせた。
その反応に気付いたライナーは、机へ突っ伏したまま片手を伸ばす。
「ミレイユ……」
「はい」
「早く帰ってきてくれ……」
切実だった。
「俺の精神が先に休眠しそう……」
エドガーが間髪入れず返す。
「その場合は叩き起こします」
「鬼か?」
いつもの調子だった。
騒がしいやり取り。
だが、その奥には任務前特有の静かな緊張が流れている。
ミレイユは、その空気を静かに感じ取っていた。
そして同時に――
また、"あれ"に触れることになる。
そんな予感が、胸の奥で静かに脈打っていた。
*
出発は、その日のうちだった。
帝都を離れるにつれ、景色は少しずつ姿を変えていく。
乾いた大地。
赤茶けた岩山。
そのさらに先。
ミレイユ、アロイス、エドガー、そして数名のシュタルク騎士を伴った一行は、帝都南方の砂漠地帯へ到着していた。
乾いた風が砂をさらい、砂漠特有の熱気が一行を包み込む。
見渡す限りの荒野。
その中に、採掘居住区は静かに広がっていた。
だが――そこに流れる空気は、明らかに異様だった。
「……静かですね」
ミレイユが小さく呟く。
本来であれば、人々の声や採掘の音が絶えず響いているはずだった。
生活の気配も、笑い声も、荷車の軋む音も。
それなのに今は、落ち着かないざわめきだけが風に紛れて漂っている。
住民たちの様子も尋常ではなかった。
焦点の合わない目で虚空を見つめる者。
意味のない独り言を繰り返す者。
突然笑い出したかと思えば、次の瞬間には何かに怯えて身を縮める者。
感情そのものが、誰かに無理やり揺さぶられているようだった。
王国で目にした光景とは違う。
あちらは静かに心を奪われていた。
だが、これは違う。
「……精神が壊されている」
ミレイユの声が低く落ちる。
洗脳――。
その言葉が脳裏をよぎった瞬間、背筋を冷たいものが這い上がった。
遠く。
砂漠のさらに奥。
そこから、確かに何かが呼んでいる。
ミレイユの表情が変わる。
「……あちらです」
迷いなく砂漠の彼方を指差す。
アロイスは一瞬の迷いもなく頷いた。
「行くぞ」
誰も異論を挟まない。
一行は、そのまま砂漠の奥へと足を進めた。
*
岩場の裂け目を抜けた先、地下深くには古代遺跡が眠っていた。
風化した石柱。
壁一面に刻まれた古代帝国の紋様。
王国で見た遺跡と、驚くほどよく似ている。
だが、漂う空気だけは決定的に違っていた。
重い。
鋭い。
まるで侵入者そのものを拒絶するような敵意が満ちている。
遺跡へ一歩足を踏み入れた瞬間、騎士の一人が顔をしかめた。
「……頭が」
その直後だった。
耳鳴りにも似た不快なノイズが、空間全体へ走る。
ざり――。
精神そのものを鋭い爪で引っかかれるような感覚。
ミレイユは思わず息を呑んだ。
(……強い)
王国の装置とは比べものにならない。
視線の先。
遺跡の最深部。
そこには巨大な円形の台座が鎮座し、青い紋様を脈打たせていた。
王国の装置によく似ている。
だが、同じではない。
放たれる力は、もっと鋭く、もっと侵略的だった。
「……同じ、ではない」
ミレイユが静かに呟く。
「性質が違います……」
その瞬間だった。
「う、あぁぁぁッ!!」
騎士の一人が悲鳴を上げ、剣を抜いた。
その瞳には焦点がない。
別の騎士は壁際まで後ずさりしながら震え始める。
「来る……来る、来る……!」
恐慌。
精神が、急速に侵食されていく。
「下がれ!」
エドガーが即座に魔法陣を展開し、透明な結界が仲間たちを包み込む。
同時にアロイスが踏み込み、暴れ始めた騎士を一瞬で制圧した。
それでも止まらない。
装置から放たれる干渉は空間そのものへ染み込み、結界越しにも精神を削り続けていた。
ミレイユは静かに一歩前へ出る。
ゆっくりと呼吸を整える。
怖い。
強い。
それでも――止めなければならない。
両手を静かに装置へ向けた、その瞬間だった。
凄まじい干渉が、一気に流れ込んでくる。
視界が歪む。
頭の奥へ、知らない声が直接響いた。
――従え。
――屈しろ。
――思考を明け渡せ。
――すべてを。
――こちらへ。
「――ッ!!」
膝が大きく揺れる。
意識が引きずられそうになる。
それでもミレイユは歯を食いしばった。
違う。
これは違う。
人の心へ勝手に踏み込み。
意思を踏みにじり。
人格を塗り潰そうとする。
そんなものを、認めるわけにはいかない。
「……返してください」
掠れた声だった。
それでも視線だけは逸らさない。
「その人たちの心を……!」
次の瞬間、二つの精神干渉が真正面から激突した。
空間そのものが震える。
青い紋様が激しく明滅し、遺跡全体が低く唸りを上げた。
一度。
二度。
装置の光が揺らぐ。
やがて、その輝きは静かに沈んでいった。
それと同時に、騎士たちの動きが止まる。
狂乱していた瞳へ少しずつ光が戻り、恐慌も静かに消えていく。
遺跡を包んでいた異様な圧迫感も、ゆっくりと薄れていった。
静寂。
重苦しい沈黙だけが、その場を支配する。
その中で、ミレイユの身体が大きく揺れた。
「ミレイユ殿!」
エドガーが駆け寄る。
だが、ミレイユは荒い呼吸のまま静かに首を横へ振った。
「……眠らせ、ました……」
完全に止めたわけではない。
休眠。
王国で封じた装置と同じ状態だった。
だが、その言葉を口にしながらも、ミレイユの表情は晴れない。
意識の奥底で、別の"何か"が微かに脈打っていた。
それは、この遺跡にはない。
もっと遠く。
もっと深い場所から響いてくる、かすかな呼び声。
まるで世界のどこかで、まだ眠っている何かが静かに目を覚まそうとしているかのように――。




