第4話:内側
翌朝。
柔らかなノックの音で、ミレイユは目を覚ました。
「お目覚めですか」
扉越しの声が聞こえる。
「……はい、いま参ります」
短く応じ、身を起こす。
用意されていた衣服に袖を通す。
昨日とは違う、王宮魔術師としてのローブ。
質は良い。
だが、どこか借り物のようにも感じた。
鏡に映る自分を一瞬だけ見て、視線を外す。
扉を開くと、侍女が一礼した。
「ご案内いたします」
ミレイユは黙って頷き、その後に続く。
王女宮へ続く廊下は、不思議なほど静かだった。
足音すら吸い込まれるように消えていく。
だが。
(……多い)
気配は幾重にも重なっていた。
壁の向こう。
廊下の先。
遠く離れた階層。
目では見えない存在が、そこかしこにいる。
そして、ごく微かな違和感。
押さえつけられた何か。
気づかない者は気づかない。
だが、確かに存在している。
ミレイユは目を伏せた。
(全部は受け止めない)
今は、まだ。
――全部を見ようとしなくていい。
クロウレイの言葉が静かに蘇る。
小さく息を吐き、顔を上げた。
曲がり角の先から、数人の王宮魔術師が歩いてくる。
ローブの色で階位が分かる。
彼らは一瞬だけ足を緩め、ミレイユへ視線を向けた。
短い時間だった。
だが、それで十分だった。
評価。
計算。
そして切り離し。
そのまま何事もなかったように通り過ぎていく。
すれ違いざま、かすかに声が聞こえた。
「……例の」
「……もう、か」
はっきりとは聞こえない。
だが、意味だけは伝わる。
ミレイユは歩みを乱さない。
表情も崩さない。
だが、指先だけがわずかに強く組まれた。
(……そういうものなのですね)
拒絶ではない。
受容でもない。
ただ、枠の外へ置かれる感覚。
それは静かで、そして確実だった。
やがて重厚な扉の前へたどり着く。
そこには、同じローブを纏った青年が立っていた。
壁に軽く寄りかかっている。
「君がモンフォールの血を引く、ロシュ家のお姫様?」
軽い声だった。
だが、目は笑っていない。
「……今はただの一介の魔術師です」
ミレイユは静かに返す。
青年の口元がわずかに歪んだ。
「“今は”、ね」
視線が少しだけ鋭くなる。
「貴族様の面倒ごとに巻き込まれないといいけど」
その言葉に、ミレイユは首を傾げた。
「……心配してくださっているのですか?」
青年は肩をすくめる。
「どうかな」
軽く笑う。
「ま、同僚としては活躍を期待してるよ」
軽い言葉だった。
だが、その裏で観察されているのが分かる。
青年はふと廊下の奥へ視線を向けた。
先ほどの魔術師たちの背が遠ざかっていく。
「……ああいうの、気にしない方が楽だよ」
何気ない調子で言う。
ミレイユはわずかに目を瞬かせた。
「……やはり、そう見えますか」
「見える見える」
ひらりと手を振る。
「魔術師連中、面倒くさいでしょ」
冗談めかしている。
「実力主義って顔してるくせに、身内意識は強いから」
だが、否定はしていない。
ミレイユは小さく頷いた。
「……承知しております」
それ以上は言わない。
言う必要もなかった。
「とりあえず、入った入った」
青年は扉に手をかけた。
*
中はレオニードの執務室だった。
「よく眠れたか」
机の向こうから声が落ちる。
「はい。お気遣いいただき、ありがとうございます」
ミレイユは一礼した。
レオニードは書類から視線を上げる。
「改めて名乗ろう」
椅子に背を預けた。
「エリシア王女殿下の護衛を束ねている、レオニードだ」
「苗字はない」
ミレイユの目がわずかに揺れる。
「……珍しいお名前ですね」
横から、くすりと笑いが差し込んだ。
「外国出身なんだよ」
先ほどの青年が口を挟む。
「それでいて、この国の筆頭王宮魔術師、ついでに殿下の参謀」
軽い調子だが、その内容は重い。
レオニードのこめかみがわずかに動く。
「……このうるさいのがシルヴァンだ」
淡々とした紹介だった。
「私の補佐をしている」
「よろしくね」
シルヴァンは気安く手を振る。
(……軽い)
そう見える。
だが。
(観察されている)
視線が離れない。
レオニードは立ち上がった。
「王女殿下に、お目通り願おう」
その一言で、場の空気が切り替わった。
*
王女の私室。
扉が開く。
そこにいたのは、一人の少女だった。
陽光を閉じ込めたような金髪。
透けるように白い肌。
最高品質の碧玉を思わせる青い瞳。
華奢な身体つきは年齢相応にも見える。
だが、その姿には不思議な揺らぎがなかった。
静かに椅子へ腰掛けているだけなのに、自然と視線を引き寄せる。
そこにいるだけで分かる。
王族だ。
生まれながらに、人の前に立つ者なのだと。
「こちらにおわす方が、わが国の第一王位継承者、エリシア・ド・ソレイユ=ロワ殿下だ」
レオニードの紹介に合わせ、ミレイユは静かに頭を下げる。
「ようこそ、王宮へ」
柔らかな声だった。
「謁見室でなくてごめんなさい。内輪の話になるから、できるだけ大きくしたくはないの」
完璧な所作。
完璧な微笑み。
誰が見ても理想的な王女だった。
「話は聞いているわ」
エリシアが一歩近づく。
「……精神干渉能力があるそうね」
「はい」
ミレイユは静かに応じた。
「この力がお役に立てると聞き、参じました」
エリシアは微笑んだまま頷く。
「そう」
そして、ほんのわずかに声音を和らげた。
「あなたを王宮へ呼んだのはね」
視線がまっすぐ向けられる。
「あなたを守るためでもあるの」
ミレイユの目がわずかに開いた。
予想していなかった言葉だった。
「……過分なお言葉をいただき、ありがとうございます」
礼は完璧だった。
エリシアの微笑みもまた完璧だった。
角度も。
柔らかさも。
声の温度も。
誰が見ても理想の王女。
――ただし。
(……作られている)
ミレイユには、それが分かってしまう。
沈黙が少しだけ伸びた。
「……あの」
ミレイユが口を開く。
エリシアの視線が、ほんのわずかに揺れた。
「どうしましたか」
すぐに整う。
だが、その一瞬は確かに存在した。
ミレイユは慎重に言葉を選ぶ。
「……お疲れではありませんか」
空気が止まった。
エリシアの呼吸がわずかに乱れる。
すぐに整う。
だが、消えない。
「……『見えている』のですか」
穏やかな声だった。
だが、その奥には警戒が滲んでいる。
ミレイユは目を伏せた。
「……力を使わなくても、無理をなさっている方を見ると分かることがあります」
断定しない。
責めない。
ただ、事実だけを置く。
再び沈黙が落ちる。
短い。
だが、重い沈黙だった。
エリシアは視線を逸らさない。
まっすぐミレイユを見ている。
「……あなたは」
言葉が途中で止まる。
迷い。
戸惑い。
そして、小さく息を吐いた。
「……少し、変わっていますね」
ミレイユは首を傾げる。
「そうでしょうか」
「ええ」
エリシアの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「ここでは、誰もそのようなことは言いません」
その言葉は思った以上に重かった。
ミレイユは、それ以上踏み込まない。
「……出過ぎたことを申しました」
「いいえ」
エリシアは首を横に振る。
そして。
ほんの少しだけ。
微笑みが変わった。
完璧な微笑みではない。
少しだけ不器用な。
けれど、本物の微笑み。
「……ありがとう」
王女としてではなく。
一人の人間としての言葉だった。
そのとき。
背後から鋭い視線を感じる。
ミレイユの意識が自然とそちらへ向いた。
(……圧)
違う。
もっと直接的なもの。
(……殺気)
エリシアが振り返る。
「こちらはリディア」
静かに紹介した。
「私を昼夜護衛してくれているの」
控えていた侍女が一歩前へ出る。
整った所作。
乱れのない姿勢。
だが、その瞳だけが鋭い。
「普段は侍女として側にいるけれど、とても頼りになるのよ」
「……畏れ多いことでございます、殿下」
低く抑えた声。
だが次の瞬間、視線が変わる。
「……リディアだ」
短い名乗り。
「王女殿下の御身を第一に考えている」
さらに続ける。
「必要なら命も賭ける」
空気が張り詰めた。
警告にも似た言葉だった。
エリシアがわずかに苦笑する。
「仲良くしろとは言わないけれど、協力してくれたら嬉しいわ」
ミレイユは静かに一礼した。
「ミレイユです、よろしくお願いいたします」
視線が交わる。
試されるような沈黙。
互いに相手を見定めている。
その空気を断ち切るように、レオニードが口を開いた。
「そして」
視線を横へ向ける。
「こっちが、お前の護衛だ」
一人の男が前へ出る。
「……アルベルト・デュランだ」
短い名乗り。
無駄がない。
騎士らしい騎士だった。
ミレイユはわずかに息を止める。
(……この人も)
圧が強い。
それも。
(……怒っている?)
理由は分からない。
だが、どこか硬い空気を纏っている。
レオニードは構わず話を続けた。
「ミレイユは感知を担当しろ」
視線が動く。
「異常を捉え次第、リディアと連携」
リディアが静かに頷く。
「リディアは引き続き殿下の側に」
「承知」
「かしこまりました」
ミレイユも応じる。
「シルヴァン」
レオニードが視線を向けた。
「ミレイユに王宮を案内しろ」
「了解でーす」
軽い返事。
だが、その目は相変わらず観察をやめていない。
ミレイユたちが部屋を出る。
扉が閉まり、静けさが戻った。




