第3話:王宮
やがて、城壁が見えてきた。
高く、厚い石造りの壁。
圧のある存在感だった。
門の前には列ができている。
兵たちが一人ずつ確認を行い、人々を中へ通していた。
ミレイユはその様子を見つめる。
規律。
秩序。
そして、その裏にある緊張。
「……ここから先が王都だ」
レオニードが言う。
「そして、その中心にあるのが王宮だ」
ミレイユは頷いた。
かつては遠かった場所。
今は、自ら向かっている。
門番が視線を向ける。
レオニードが身分を示すと、すぐに許可が下りた。
続いて視線がミレイユへ向けられる。
ほんの一瞬。
そして道が開かれた。
「行くぞ」
「はい」
一歩を踏み出す。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
音が増える。
視線が増える。
気配が押し寄せる。
濃い。
重い。
ミレイユはほんの一瞬だけ息を詰めた。
だが、止まらない。
前へ進む。
ここが、自分で選んだ場所だから。
*
王都の中心へ近づくにつれて、建物の様相は変わっていった。
石造りの家々はより整い、道は広くなる。
行き交う人々の衣服も、明らかに質が違っていた。
視線が増える。
好奇。
値踏み。
無関心を装った観察。
それらが混ざり合い、空気に滲んでいる。
ミレイユはそれを受け止めながらも、表情を崩さなかった。
余計なものは拾わない。
そう決めている。
やがて視界の先に、白い建造物が現れた。
王宮だった。
陽光を受けて、眩いほどに輝いている。
だが、それは単なる美しさではない。
近づくほどに感じる重さ。
積み重ねられてきた時間。
交錯してきた思惑。
積層した意思。
ミレイユは無意識に呼吸を整えた。
「……ここが」
「ああ」
レオニードは短く答える。
「お前のこれからの場所だ」
門が開かれる。
中へ足を踏み入れる。
広い中庭。
整えられた庭園。
規律正しく配置された衛兵たち。
すべてが整っていた。
整いすぎているほどに。
無駄がない。
だからこそ。
(……息が詰まる)
その感覚を、ミレイユは口にはしなかった。
そのとき、廊下の向こうから数人の王宮魔術師が歩いてきた。
深い色のローブをまとい、歩幅も視線の運びも無駄がない。
すれ違いざま、そのうちの一人がミレイユを一瞥する。
ほんの一瞬。
だが、その視線には明確な値踏みがあった。
次の瞬間には何事もなかったように視線が外される。
挨拶はない。
敵意もない。
ただ、関わらないという意思だけが残った。
ローブの裾が静かに揺れ、彼らは通り過ぎていく。
(……歓迎されているわけではないのですね)
言葉にされない分だけ、それはよく分かった。
胸の奥に小さな引っかかりが残る。
だが、それを表に出すことはない。
ミレイユは視線を前へ戻した。
歩みを止める理由にはならなかった。
「おかえりなさいませ、レオニード様」
門番が頭を下げる。
「ああ」
短い返答。
そのまま進もうとして、兵の視線がミレイユへ向いた。
鋭い観察。
疑念。
測るような眼差し。
(……当然ですね)
精神に触れなくても分かる。
ここでは、すべてが確認される。
ミレイユは軽く会釈した。
それ以上は何も示さない。
必要以上に見せない。
兵は一瞬だけ目を細め、やがて道を開けた。
*
「疲れただろう」
レオニードは歩みを止めずに言った。
「部屋を用意してある。今日は休め」
廊下に足音が静かに響く。
「明日、殿下に紹介する」
言葉は簡潔だった。
だが、順序に無駄がない。
「着替えも用意してある。それを使え」
「……はい」
ミレイユは短く応じた。
自分の服装へ視線を落とす。
動きやすさを優先した衣服。
質素だが、使い慣れている。
(気に入ってはいたのだけれど)
指先で布を整える。
その仕草は無意識に丁寧だった。
歩きながら周囲へ目を向ける。
部屋。
衣服。
動線。
すべてが迷いなく用意されている。
(最初から……)
そこで思考が形になった。
(連れて来るつもりだったのね)
責める気はない。
ただ理解した。
案内された客室の前で足を止める。
扉が開いた。
整えられた空間。
過不足のない家具。
落ち着いた色合い。
そして、どこか無機質なほど整然としている。
「湯浴みの用意ができております」
侍女が一礼する。
動作に無駄はない。
「お手伝いいたします」
ミレイユはわずかに首を横へ振った。
「……いえ、一人で大丈夫です」
「かしこまりました」
踏み込まない。
それ以上は求めない。
完璧な距離感だった。
浴室へ足を踏み入れる。
湯気がやわらかく視界を包んだ。
一歩近づく。
(……あたたかい)
湯に触れた瞬間、肩の力が抜ける。
じんわりと身体が緩んでいった。
香草の香りが漂う。
森とは違う。
整えられた香り。
人工的で、それでも不快ではない。
むしろ心地よかった。
湯に身を沈める。
静けさ。
音が遠い。
身体の感覚だけが、はっきりとしている。
その中で、ふと思う。
(……先生)
クロウレイの顔が浮かぶ。
いつもの気の抜けた表情。
(ちゃんと食事、しているかしら)
放っておけば忘れる。
そういう人だ。
小さな不安は、すぐには消えなかった。
湯から上がり、用意された衣服へ袖を通す。
軽い。
柔らかい。
身体に合っている。
(……用意されている)
違和感と納得が同時にあった。
部屋へ戻る。
ベッドに腰を下ろす。
沈み込む感触。
見慣れない柔らかさ。
(……私)
視線が自然と落ちる。
指先がシーツをなぞった。
(役に立てるのかな)
問いは小さい。
答えは、まだない。
横になる。
天井が静かに視界へ広がる。
何も起こらない。
何も迫ってこない。
それなのに、どこか落ち着かなかった。
王宮。
任務。
力。
先生。
断片的な思考が浮かんでは消える。
やがてまぶたが重くなった。
抗う理由もなく、ミレイユは眠りへ落ちていった。
*
夜。
王宮の喧騒が落ち、灯りがひとつ、またひとつと静けさに溶けていく頃。
レオニードの執務室だけが、まだ明かりを保っていた。
書類の山。
整然と並ぶ魔術具。
無駄のない空間。
その中央で、レオニードは机に向かっている。
対して、椅子に浅く腰掛け、足を組んでいる青年が一人いた。
「ロシュ家もモンフォール家も――保守派の筆頭ですよね」
軽い口調。
だが、視線は鋭い。
「そんな出自の人間を、こちら側に引き入れていいんですか?」
紙をめくる音だけが返る。
レオニードは顔を上げない。
「どちらの家からも見放された娘だ」
淡々とした声だった。
感情は挟まない。
「問題あるまい」
青年は肩をすくめる。
「いやぁ……どうですかね」
机の端を指先で軽く叩く。
「いくら殿下が先進派でも、ちょっと思い切りすぎじゃないですか?」
ペン先が止まった。
レオニードは、わずかに視線を上げる。
「クロウレイ仕込みだ」
それだけで理由としては十分だった。
「害はない」
断言する。
一切の揺らぎがない。
青年の口元がわずかに歪んだ。
「へぇ」
興味深そうに呟く。
「ずいぶん信頼してるんですね、あの人のこと」
視線が少しだけ細くなる。
「さすが、まめに文通してるだけありますね」
沈黙。
空気が変わる。
レオニードのこめかみに、わずかに皺が寄った。
「……シルヴァン、お前はいつも一言余計だ」
低い声だった。
だが、それ以上は言わない。
シルヴァンは軽く笑う。
(面白いことになってきたな)
声には出さない。
ただ、状況も人も楽しんでいた。
そして話題を変えるように足を組み替える。
「そういえば」
「護衛、つけるんでしたよね」
視線を向ける。
「入宮の条件でしたっけ。過保護ですねー」
軽口だった。
だが、その裏で探っている。
「貴族のお姫様だからって、仰々しくないですか?」
「また騎士の反感、買いません?」
レオニードは書類を閉じた。
指先で整え、静かに机へ置く。
「過大にならぬよう、適任を寄越すよう騎士団には話を通してある」
合理的な判断。
それ以上でも、それ以下でもない。
そのとき、空気がわずかに揺れた。
シルヴァンの視線が無意識に動く。
何かいる。
そう理解するより先に、レオニードが口を開いた。
「リディア」
呼びかけは短い。
「聞いていたな」
返答はすぐには来ない。
だが、次の瞬間。
「……はい」
どこからともなく声だけが落ちた。
姿は見えない。
気配もほとんどない。
ただ、そこにいると分かる。
シルヴァンの口元がさらに楽しげに歪む。
「へぇ……」
小さな感嘆。
「相変わらず、気配消すの上手いね」
返事はない。
空気だけが静かにそこにある。
レオニードは、それ以上何も言わなかった。
必要な配置は、すでに終わっている。
あとは動かすだけだった。




