第2話:境界を越えて
それからの時間は、いつもと同じように流れていった。
朝が来る。
水を汲み、畑に出る。
食事を作り、クロウレイを起こす。
言葉も、やり取りも変わらない。
何も変わっていないはずだった。
けれど、ミレイユの中では何かが少しずつ変わっていた。
(……王宮)
その言葉が頭から離れない。
かつて、自分のような者がいた場所。
そして、もう戻ることはないと思っていた場所。
考えても答えは出ない。
そう思うのに、考えることをやめられなかった。
クロウレイは何も聞かない。
何も言わない。
いつも通りに見える。
だが、それがかえって分かりやすかった。
自分で決めるのを待っている。
そういうことなのだろう。
*
二日目の朝。
パンを切る手がわずかに止まる。
(もし、行かなかったら)
このままの生活が続く。
静かで、穏やかで、誰にも邪魔されない時間。
ここは安全だ。
傷つかない。
壊れない。
それでも。
その選択が、少しだけ“逃げ”のように感じられた。
*
三日目の夜。
静かな部屋で、二人は向かい合って座っていた。
湯気の立つ茶器。
言葉はない。
沈黙は苦しくなかった。
けれど、軽くもなかった。
ミレイユはゆっくりと顔を上げる。
「先生……私」
言葉が喉で止まる。
怖い。
戻ることも。
向き合うことも。
知られることも。
すべてが。
それでも、目は逸らさなかった。
「……行きたいです」
小さな声だった。
だが、はっきりと。
「王宮に」
クロウレイは何も言わない。
ただ聞いている。
「私が助けられたように」
ミレイユは言葉を探す。
「誰かを助けられるようになりたいです」
立派な理由ではない。
強い理由でもない。
ただ、自分がそうしたいと思った。
それだけだった。
「……自分で選びます」
長い沈黙が落ちる。
やがてクロウレイが小さく息を吐いた。
「そう」
それだけだった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ受け取る。
それだけで十分だった。
ミレイユの肩から、少しだけ力が抜ける。
「ごめんなさい、先生」
思わず言葉が漏れた。
「ん?」
クロウレイが首を傾げる。
「……ですが」
うまく言葉にならない。
クロウレイは少しだけ笑った。
「自分で選んだ道を行くのに、誰に遠慮する必要があるんだい」
ミレイユは答えられない。
「まあ、面倒になるのは確かだけどねぇ」
いつもの調子だった。
だからこそ、少しだけ安心する。
その夜。
自室で荷をまとめる。
といっても、大した量ではない。
替えの衣服が数着。
身の回りの品が少し。
ふと、手が止まった。
部屋の隅に置かれた小さな本。
クロウレイが渡してくれたものだった。
難しかった。
それでも読み続けていた。
まだ途中だ。
ミレイユは少しだけ迷い、そっと荷物の中へ入れる。
「……お借りしますね」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
*
居間へ戻ると、クロウレイはまだ起きていた。
机の上には見慣れないものが置かれている。
細い指輪だった。
装飾は少ない。
だが、ただの装飾品ではないことは分かる。
「……それは」
「ああ、これかい」
クロウレイは指輪をつまみ上げる。
「君にあげようと思ってね」
ミレイユは目を見開いた。
「……私に、ですか」
「そう。お守りみたいなものかな」
軽い口調だった。
けれど、それだけではないことも分かる。
「高価なものなのでは」
「遠慮しなくていいよ」
クロウレイは肩をすくめた。
「こう見えて、王宮勤めの頃はそれなりに稼いでいたからねぇ」
冗談のように言う。
ミレイユはそっと手を伸ばした。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げる。
クロウレイは軽く手を振った。
「それと」
ミレイユが顔を上げる。
「全部を見ようとしなくていい」
静かな声だった。
「君の力の話だよ」
クロウレイは少しだけ目を細める。
「全部を見ようとすると疲れる」
「全部に干渉しようとすると、いつか自分が壊れる」
ミレイユは黙って聞いていた。
その言葉の重みを知っている。
「だから、触れるかどうかは君が決めるといい」
技術の話ではない。
生き方の話だった。
ミレイユは指輪を握る。
「……はい」
小さく頷いた。
*
翌朝。
森の空気はいつもと同じだった。
だが、同じではない。
「……決断したようだな」
レオニードが言う。
「はい。よろしくお願いします」
迷いは残っている。
けれど、揺れてはいない。
クロウレイは二人を見ていた。
そして、静かに言う。
「この子を……ちゃんと守れよ」
低く落ち着いた声だった。
レオニードはわずかに顎を引く。
「無論だ」
「ならいい」
それだけだった。
ミレイユは深く頭を下げる。
「行ってまいります」
「うん」
引き止めることもない。
送り出す言葉もない。
ただ受け入れる。
それがクロウレイだった。
ミレイユは背を向ける。
森の外へ。
境界を越えて。
新しい世界へ。
振り返らない。
自分で選んだ道だから。
二人の背中を見送りながら、クロウレイはしばらく動かなかった。
やがて小さく息を吐く。
「……やれやれ」
少しの沈黙。
「めんどくさいことになりそうだ」
その声は、どこか楽しげで。
ほんの少しだけ、寂しげだった。
*
森の外へ出るのは、久しぶりだった。
ミレイユは一歩ごとに、足元の感触が変わっていくのを感じていた。
柔らかな土から、踏み固められた道へ。
木々に囲まれた影から、開けた空へ。
光が少し強い。
思わず目を細める。
森の中で受けていた光とは違う。
遮るもののないそれは、まっすぐで、逃げ場がなかった。
「……大丈夫か」
隣を歩くレオニードが短く問う。
「はい」
ミレイユは小さく頷いた。
声は落ち着いている。
だが、視線はわずかに揺れていた。
久しく触れていなかった外の空気。
懐かしさと、どこか遠さを感じる。
後ろを振り返る。
森はまだすぐそこにある。
だが、その奥にある家はもう見えなかった。
ほんの少し前まで、自分のすべてだった場所。
ミレイユは胸の奥に浮かんだものを言葉にしないまま、前を向く。
「行きましょう」
自分に言い聞かせるように呟く。
レオニードは何も言わず、ただ歩調を合わせた。
やがて街道へ出る。
人の往来が増え、音の種類が変わる。
そこで用意されていた馬車へ乗り込んだ。
屋根付きの実用本位な造り。
豪華ではない。
それでも、座席に腰を下ろした瞬間、わずかな違和感が走った。
(……久しぶりですね)
身体が覚えている感触。
けれど、遠ざかっていたもの。
「乗合ではない馬車は久しぶりか」
向かいからレオニードが言う。
「……はい。九歳のとき以来です」
短く答える。
その言葉の裏にあるものには触れない。
レオニードも、それ以上は踏み込まなかった。
馬車が動き出す。
一定の揺れ。
規則的な車輪の音。
しばらく沈黙が続く。
やがてレオニードが口を開いた。
「……誤解を解いておくが」
唐突に見えて、意図的な切り出し方だった。
ミレイユが顔を上げる。
「クロウレイ。奴はお前を売ったわけではない」
言葉は短い。
だが、その意味は重かった。
「わかっています」
ミレイユは迷わず答える。
「先生は、そんな人ではありませんから」
即答だった。
それ以上の理由は必要ない。
レオニードはわずかに視線を動かす。
その反応を測るように。
「お前の精神干渉を制御する方法は、奴から習っただろう」
「はい」
「奴はかつて『天才』と謳われていた」
レオニードの口元がわずかに歪む。
「……普段の奴からは想像できんがな」
皮肉のようでいて、否定ではない。
事実としての言葉だった。
「だが、『天才』ではあっても『万能』ではない」
ミレイユは黙って聞く。
言葉を遮らない。
「精神干渉は危険な力だ」
その一言で、空気が少し変わった。
「対象だけでなく、術者自身の精神を破壊することもある」
ミレイユの指先がわずかに強張る。
「魔術師の探知すらくぐり抜ける」
「非合法組織や政敵に術者がいるようなことは、絶対に避けねばならん」
淡々と事実が積み重ねられていく。
「存在を隠匿するため、王族と王宮魔術師の一部にしか、その能力は知られていない――ことにはなっている」
レオニードは小さく息を吐いた。
「……はぐれ者もいるがな」
現実を削ぎ落とさない言い方だった。
ミレイユは静かに息を整える。
「我が国の魔術師は、王宮の管理下にある」
言葉は静かに落ちる。
「魔術師を育成する魔術学院も、その一つだ」
視線がわずかにこちらへ向く。
その意味を理解できるか確かめるように。
「表向きは保護だ」
短い沈黙。
「だが、実態は監視でもある」
ミレイユは目を伏せた。
言葉をそのまま受け取る。
逃げずに。
「……私も、監視されていたのですか」
問いは静かだった。
レオニードはすぐには答えない。
少し考えるように視線を落とす。
「少し違う」
そう前置きしてから続けた。
「奴も精神干渉については知っていた」
過去を辿るような口調だった。
「だが、奴にはその素養がなかった」
「久方ぶりに手紙を寄越したと思えば、お前に制御方法を教えるために、王宮が持つ極秘情報をよこせと言ってきた」
呆れと、わずかな苦笑が混じる。
「お前について定期的に報告することを条件に、私は奴へ情報を流した」
ミレイユの呼吸がわずかに乱れた。
(……知らなかった)
「……そんなことが知れたら、レオニード様の立場も危ないのでは……」
「覚悟の上だ」
即答だった。
迷いはない。
「お前の能力は、報告されている範囲を逸脱している」
断言する。
「それを管理下に置かないという選択肢はない」
そこで一度言葉を切った。
「すべては国のためだ」
ミレイユは静かに目を伏せる。
(……国)
まだ実感はない。
だが、無関係ではいられなかった。
「一つ、同輩の好で伝えておくが」
レオニードの声が少しだけ低くなる。
「お前を王宮へ連れてくることは、いつでも出来た」
ミレイユが顔を上げる。
「そうしなかったのは――」
レオニードは小さく肩をすくめた。
「奴が、それを許さなかったからだ」
言葉は短い。
だが、それで十分だった。
ミレイユは何も言わない。
言えなかった。
「……奴の恨みを買いたくないからな」
わずかに冗談めかして付け加える。
ミレイユはほんの少しだけ息を緩めた。
「仲がよろしいのですね」
レオニードは露骨に顔をしかめる。
否定はしない。
ただ、窓の外へ視線を向けた。
その反応が答えだった。
道はやがて広くなり、人の気配が増えていく。
荷馬車が通り過ぎ、旅人が行き交う。
聞こえてくる声の種類も変わった。
商人の呼び声。
子どもの笑い声。
誰かの言い争い。
すべてが混ざり合っている。
ミレイユはそれを静かに見つめていた。
(……多い)
気配が。
感情が。
揺れが。
「……賑やかですね」
「王都に近づいている」
簡潔な答えだった。
「人が多い場所では、余計なものも増える」
ミレイユはその言葉を繰り返す。
「余計なもの」
レオニードは間を置かずに答えた。
「嘘」
「欲」
「思惑」
淡々と並べられる。
ミレイユの指先がわずかに強くなる。
(……見える)
意識を向ければ。
触れれば。
輪郭が浮かび上がる。
「……無理に意識を向けない方がいい」
レオニードが言った。
タイミングを見計らったように。
「すべてに触れる必要はない」
その言葉は、どこか聞き覚えがあった。
だが、温度が違う。
「必要なものだけ選べ」
静かな声だった。
「それで十分だ」
「……はい」
ミレイユはゆっくりと息を整える。
視線を落とす。
閉じる。
選ぶ。
それでいいのだ。




