第1話:呼び声
----------プロローグ-----------
とある邸宅の隅に、その部屋はあった。
窓はない。
昼なのか夜なのかも分からない。
湿った空気だけが、いつもそこにあった。
少女は粗末な寝台に座っていた。
伸び放題の髪。
痩せ細った体。
荒れた指先。
擦り切れた服。
年齢よりもずっと幼く、ずっと老いて見えた。
何も考えない。
何も望まない。
そうしていれば傷つかずに済むことを、いつの間にか覚えてしまっていた。
時間だけが過ぎる。
どれほど経ったのかも分からない。
不意に、扉が開いた。
細く差し込んだ光に、少女は目を細める。
久しぶりに見る光だった気がした。
そこに一人の男が立っていた。
ぼさぼさの茶色の髪。
頼りなさそうな体つき。
英雄にも救世主にも見えない。
むしろ少し疲れて見えた。
男は少女を見ると、申し訳なさそうに、少し悲しそうに口を開いた。
「おそくなってごめん」
まるで約束に遅刻したみたいな口調だった。
少女は瞬きをする。
意味が分からない。
男は続けた。
「迎えにきたよ」
迎え。
その言葉だけが胸の奥に落ちた。
理解はできない。
けれど、忘れていた何かが、小さく揺れた気がした。
男は手を差し出す。
「一緒に来る?」
当たり前のように。
特別なことではないと言うように。
少女はその手を見つめた。
信じられなかった。
どうして。
どうしてそんなことを言うの。
震える指先を、ゆっくりと持ち上げる。
触れた瞬間。
温かい。
ただ、それだけを思った。
少女は男の手を握る。
強くではなく。
消えてしまわないように、そっと。
それが、彼女の人生で初めての選択だった。
--------------------------------------
朝の光が森をやわらかく照らしていた。
葉の隙間からこぼれた陽射しが、小さな畑をまだらに染める。
ミレイユはしゃがみ込み、指先で土をほぐした。
「……今日は少し乾いていますね」
さらりと崩れた土を見つめ、小さく頷く。
昨日より、水を少し多めに撒こう。
そう決めると、桶を手に井戸へ向かった。
七年前、この家へ来た頃は、土の良し悪しなど分からなかった。
草花の名前も、季節ごとの畑仕事も知らない。
先生は、そんな自分を急かさなかった。
春になれば春を。
夏になれば夏を。
一つ覚えれば、また一つ。
季節を重ねるように教えてくれた。
だから今では、この家の朝が好きだった。
鳥の声を聞きながら畑へ出て、土に触れ、水を撒く。
変わらない毎日。
その穏やかさが、何よりも愛おしい。
「ミレイユ〜……朝はまだかい……」
家の中から気の抜けた声が聞こえてくる。
思わず頬が緩んだ。
「もう朝ですよ、先生」
返事はない。
……聞こえてはいるのだろう。
起きる気がないだけで。
桶を持って家へ戻ると、居間の長椅子には案の定、男が寝転がっていた。
ぼさぼさの茶色の髪。
掛け布も半分落ちている。
どこからどう見ても、昼まで寝ていそうな青年だった。
「先生」
「起きているよ」
目を閉じたまま返事だけが返る。
「目が閉じています」
「起きることと目を開けることは、別問題だからねぇ」
「初めて聞きました」
「今考えた」
「感心しません」
「私も感心しないなぁ」
ミレイユは小さく息をつく。
朝は弱く、掃除も苦手。
本を読めば積みっぱなし。
洗濯物も、放っておけば平気で取り込み忘れる。
それなのに、魔術を教える時だけは驚くほど丁寧で、決して手を抜くことはなかった。
分からないところは、分かるまで付き合ってくれる。
失敗すれば、一緒に原因を考えてくれる。
だからこそ、七年間、一度も不満に思ったことはない。
「朝食の準備ができています」
「それは困るなぁ」
「何がですか」
「起きなくちゃいけなくなる」
「はい」
「……厳しい」
ようやく片目だけ開く。
その姿がおかしくて、ミレイユはくすりと笑った。
男もつられるように笑う。
朝の光が差し込む部屋は、それだけで少し明るくなった気がした。
食卓へ皿を並べる。
一枚ずつ、静かに。
自然と背筋が伸び、指先まで無駄なく動く。
幼い頃から身体に染みついた所作だった。
男は、その横顔をぼんやり眺める。
(……似てきたな)
目を伏せて考え事をする時の横顔。
あの人も、よくそうしていた。
高い窓から午後の陽射しが差し込む窓際の席。
分厚い本を抱え、夢中で頁をめくる一人の女性。
本を読む時だけ少し伏せられる目元まで、よく似ている。
「先生?」
ミレイユが首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
男は穏やかに笑った。
「いや。昔の知り合いを思い出しただけ」
「そうなのですか」
それ以上は聞かない。
先生は昔話を、自分から語る人ではなかった。
皿を並べ終えた頃、不意に男が呟く。
「君も、もう十七か」
「はい?」
「早いなと思ってね」
ミレイユは少し考え、それから尋ねた。
「先生は、おいくつなのですか?」
「私?」
男は天井を見上げる。
「五十……二、三だったかな」
「……かな?」
「そのくらい」
思わず、その顔を見つめる。
(……私の兄と言われても、不思議ではないくらいお若く見えるのですけれど)
視線に気付いた男が笑う。
「何だい?」
「いえ……先生は、本当に不思議なお方だと思いまして」
「そういう生き物だからねぇ」
「人です」
「たぶんね」
「『たぶん』では困ります」
二人は思わず笑い合う。
その笑い声を断ち切るように、空気が微かに震えた。
ミレイユの表情が変わる。
風ではない。
音でもない。
家を包む結界が、外から静かに触れられた。
「……先生」
男もゆっくりと立ち上がる。
先ほどまでの眠たげな雰囲気は消え、静かな眼差しだけが残っていた。
「来客だね」
ほどなくして、規則正しいノックが響く。
コン、コン。
森の奥のこの家へ、迷いなく辿り着き、ためらいなく扉を叩く者。
そんな相手は、多くない。
男は玄関へ向かい、取っ手に手を掛けた。
「めんどくさいなぁ」
口ではそう言いながら、その声に本気で嫌そうな響きはない。
扉を開く。
朝日に照らされ、一人の男が立っていた。
深い紺の法衣。
胸元には、王宮魔術師の銀章。
「久しいな、クロウレイ」
クロウレイ――”先生”と呼ばれていた男は、笑顔で応える。
「やあ、レオニード」
悪戯っ子のように、ニヤリと笑った。
「しょっちゅう手紙では話しているでしょ」
「……そういうことにしておこうか」
レオニードは身体を半歩ずらした。
「立ち話もなんだ。入ってよ」
レオニードは静かに家へ足を踏み入れる。
森の空気をまとったまま室内へ視線を巡らせ、奥に立つ少女で止まった。
「……これが、その」
「こらこら」
クロウレイが苦笑する。
「『これ』はないでしょ」
親指で少女を示しながら笑う。
「うちのお姫様に向かって」
「先生……」
困ったように微笑みながら、ミレイユは一歩前へ出た。
裾を軽く摘まみ、淀みのない所作で一礼する。
「初めてお目にかかります……ミレイユ・ロシュでございます」
「……ミレイユ・ロシュ」
レオニードはその名を静かに繰り返した。
そして、礼を終えて顔を上げたミレイユを見つめる。
「モンフォールの血を引く、ロシュ伯爵家の長女……だったか」
ミレイユは目を瞬いた。
「……はい」
「やはり」
レオニードは小さく頷く。
「その所作は、モンフォール公爵家のものだ」
クロウレイが肩をすくめる。
「よく覚えてるね」
「王国でも有数の公爵家だからな」
短く返し、再びミレイユへ目を向ける。
「なぜ私に貴族の挨拶を?」
「…お召し物や所作から、身分の高い方とお見受けしましたので」
「良かったねぇ、偉い人認定されてるよ」
「お前は黙っていろ」
レオニードはこめかみを抑えている。
「……ある時期から、貴族子女の集まりでも、名を聞かなくなったが」
静かな声だった。
「お前が引き取っていたから、か」
クロウレイは少しだけ目を伏せる。
「……まあ、そんなところ」
曖昧な返事だった。
ミレイユは何も言わない。
母が亡くなってから、お茶会への招待は来なくなった。
理由を尋ねることもないまま、その時間は終わってしまった。
クロウレイも、それ以上語ろうとはしなかった。
部屋に短い沈黙が落ちる。
それを破るようにクロウレイが笑った。
「朝食を食べていきなよ」
レオニードは眉をわずかに動かす。
「仕事中だ」
「食べながら話せばいい」
クロウレイは食卓へ目を向けた。
「ミレイユの料理は、なかなかのものだよ」
レオニードは小さく息を吐く。
「……では、いただこうか」
クロウレイは、ふっと笑い、ミレイユに声をかけた。
「ミレイユ、もう1膳頼むよ」
ミレイユは頷き、客人のために追加の食事を用意した。
三人は食卓へ着く。
窓から差し込む朝の光が、木の机をやわらかく照らしている。
湯気の立つ野菜のスープ。
近くの村で買っておいたパン。
庭で採れた香草を添えた卵料理。
豪華ではない。
けれど、丁寧に作られた朝食だった。
「いただきます」
静かな声が重なる。
しばらくは、食器の触れ合う音だけが部屋を満たした。
レオニードは一口、スープを口へ運ぶ。
ゆっくりと味わい、小さく頷いた。
「……確かに、美味い」
「だろう?」
クロウレイがどこか誇らしげに笑う。
「お前が作ったわけではないだろうが」
「育てたのは私だから、少しくらい威張ってもいいと思うんだけどねぇ」
「それとこれとは別だ」
「厳しいなぁ」
クロウレイは苦笑しながらパンをちぎる。
そんな二人を見て、ミレイユは小さく笑った。
穏やかな空気が流れる。
だからこそ。
レオニードがスプーンを置いた音は、やけに大きく聞こえた。
「……本題に入ろう」
部屋の空気が静かに張り詰める。
「かねてより、打診していた件だ」
クロウレイは何も言わず、レオニードへ視線を向けた。
「王宮魔術師は、慢性的な人手不足にある」
「引く手数多だからねぇ」
「お前は黙っていろ」
「はいはい」
軽口を交わす声も、どこか固い。
レオニードは続けた。
「加えて、第一王位継承者の護衛を任せられる人材が不足している」
「第一王女殿下……」
ミレイユは静かに呟く。
「エリシア・ド・ソレイユ=ロワ王女殿下ですね」
「知っているか」
「はい」
ミレイユは頷いた。
「幼い頃から、聡明なお方だと伺っておりました。お目に掛かったことはございませんが」
レオニードは静かに頷く。
「誇張ではない」
その声音には揺るぎがなかった。
「殿下は、この国の希望だ」
部屋が静まり返る。
その言葉には、王宮魔術師としてではなく、一人の人間としての敬意が込められていた。
「だからこそ、お守りする者が必要だ」
視線がミレイユへ向く。
「条件は三つある」
「年齢が近い女性であること」
「魔術師として十分な素養を持つこと」
「そして、王宮で礼節をもって振る舞えること」
一つずつ、静かに言葉を重ねる。
「その条件を満たす者は、多くない」
ミレイユは戸惑いながら口を開いた。
「ですが……私より優れた魔術師は、たくさんいらっしゃるのではありませんか」
「いる」
レオニードは即座に頷いた。
「だが、お前にしかない力もある」
一拍置く。
「感知魔術、防御魔術」
そして、その次の一言は静かだった。
「精神干渉の適性についても、把握している」
ミレイユの手が止まる。
(……把握している?)
胸の奥で、小さく何かが揺れた。
先生は。
王宮へ。
私のことを、報告していたのだろうか。
理由は分からない。
責めたいわけでもない。
それでも、その事実だけが胸の奥へ静かに沈んでいく。
レオニードは立ち上がった。
「無論、強制するつもりはない」
外套を整え、男へ視線を向ける。
「三日後、もう一度ここへ来る」
そして、ミレイユへ。
「その時に返答を聞かせてほしい」
短い沈黙。
やがてレオニードは、穏やかな声で続けた。
「王宮は、お前を必要としている」
その一言だけを残し、静かに森へ帰っていった。
扉が閉まる。
さっきまでと同じ朝のはずだった。
鳥は鳴き、風は森を渡っている。
けれど、部屋の中だけは違っていた。
ミレイユはゆっくりと扉へ歩み寄る。
そっと手を添え、静かに閉める。
小さな音が、やけに大きく響いた。
(……報告)
その言葉だけが、胸の奥に残っていた。




