第6話:静かな戦場
夜会の準備は急だった。
本来であれば衣装は数週間かけて仕立てるものだが、今回はその時間がない。
用意されたのは上質ではあるものの、あくまで既製のドレスだった。
部屋へ広げられたそれを見つめながら、マルガレーテが深いため息をつく。
「……本当に、これでよろしいのですか……」
どうにも納得がいかないらしい。
その表情には、そう書いてあった。
「せっかく皇家主催の夜会ですのに……」
言葉を飲み込む。
本当なら、もっと相応しい一着を用意したかった。
そんな思いが、痛いほど伝わってくる。
ミレイユは小さく首を横に振った。
「構いません。着られるものがあるだけで十分です」
穏やかな声だった。
迷いも、不満もない。
マルガレーテはしばらくその顔を見つめ、やがて静かに息を吐いた。
「……そうですわね」
気持ちを切り替える。
それが、この屋敷の人間だった。
「では、きちんと整えましょう」
その一言で空気が変わる。
迷いは消え、仕事人の顔になる。
そこから先は早かった。
髪が整えられ、幾重にも布が重ねられ、細部まで丁寧に仕上げられていく。
華美ではない。
それでも確実に、夜会の場へ立つに相応しい姿へと変わっていった。
やがて、最後の仕上げを終えたマルガレーテが目を丸くする。
「……まあ」
次の瞬間、ぱっと表情が明るくなった。
「あら! 本当によくお似合いですわ!」
思わず手を叩きそうな勢いだった。
「とても既製品には見えません!やっぱり素材が違うのですね!」
満足そうに何度も頷く。
ミレイユは少しだけ目を瞬かせ、鏡へ視線を向けた。
そこに映っていたのは、見慣れない自分だった。
それでも、不思議と違和感はない。
「……ありがとうございます」
小さく礼を言う。
それだけで十分だった。
*
夜。
公爵邸の前には馬車が用意され、灯りが静かに揺れていた。
門がゆっくりと開く。
ミレイユはためらうことなく馬車へ乗り込み、その向かいにはアロイスが腰を下ろす。
表情も姿勢も、いつもと変わらない。
だが、纏う空気だけは違っていた。
いつも以上に鋭く、張り詰めている。
馬車が静かに走り始める。
窓の外では夜の帝都が流れ、人々の気配や遠くの喧騒だけが微かに届いてくる。
それとは対照的に、車内は静まり返っていた。
ミレイユは視線を落とさず、まっすぐ前を見る。
向かう先は分かっている。
皇宮。
そして、皇家主催の夜会。
(……戦いの場)
剣も魔術も使わない。
だが、それ以上に厄介な場所だった。
知らず、呼吸が浅くなる。
その瞬間。
「……出すな」
低い声が静寂を破った。
ミレイユは我に返り、顔を上げる。
アロイスはこちらを見ていない。
前を向いたまま、淡々と言葉を続ける。
「弱みは見せるな」
視線は動かない。
「見せた瞬間に、食われる」
短く、それだけだった。
余計な説明はない。
それでも十分だった。
ミレイユはゆっくりと息を整える。
浅くなっていた呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……はい」
静かに答え、視線をまっすぐ前へ戻した。
もう、迷いはない。
やがて馬車が止まる。
重厚な門。
高くそびえる城壁。
皇宮は眩いほどの灯りに包まれていた。
けれど、その光に温かさはない。
扉が開き、夜気が流れ込む。
ミレイユは静かに馬車を降りた。
背筋を伸ばき、視線を上げる。
その横にはアロイスが立っていた。
何も言わない。
それでも、そこにいる。
それだけで十分だった。
「行くぞ」
短い一言。
ミレイユは静かに頷き、皇宮の中へ足を踏み入れる。
*
扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
音楽が流れ、人々が語り合っている。
それでも、その場にいた誰もが一瞬だけ動きを止める。
視線が集まる。
好奇。
畏怖。
疑念。
さまざまな感情を宿した眼差しが、一斉に二人へ向けられた。
(……来た)
ミレイユは静かに息を整える。
歩みは止めない。
視線も逸らさない。
その隣を歩くアロイスは、相変わらず何も言わなかった。
それでも、その存在だけで人垣が自然と割れていく。
二人はその中央を、堂々と進んだ。
ざわめきは波紋のように広がっていく。
("鉄血公爵"が夜会に……?)
(珍しいこともあるものだ)
(……隣のご令嬢は?)
(随分と若い)
(王国から派遣されたという、あの魔術師か)
囁き声は小さい。
けれど、隠そうという気はない。
それが、この場所だった。
ミレイユは何も反応しない。
姿勢を崩さず、一定の歩幅で進み続ける。
やがて広間の最奥。
一段高く設えられた席には、帝国の二人の皇子が座していた。
第一皇子。
正妃の子。
整った容貌と、冷えた眼差し。
そして第二皇子。
側妃の子。
穏やかな笑みを浮かべながら、その瞳だけは底が見えない。
二人の前でアロイスが足を止める。
わずかに頭を垂れた。
ミレイユもそれに倣い、静かに礼を取る。
そのときだった。
「……その娘が」
第一皇子が低く口を開く。
値踏みするような視線が、ミレイユへ向けられた。
ミレイユは静かに顔を上げる。
逃げない。
真正面から、その視線を受け止めた。
「ミレイユ・ロシュ・モンフォールと申します。帝国との共同研究に参加させていただいております」
淀みなく名乗る。
礼節も崩さない。
第一皇子は、わずかに目を細めた。
何かを測るように見つめる。
だが、それ以上は何も言わない。
「……そうか」
短く、それだけだった。
その真意は読み取れない。
代わって第二皇子が穏やかに口を開く。
「遠いところを、よく来たな」
柔らかな声音だった。
だが、軽さはない。
「まずは帝国に慣れるがいい。今宵は肩の力を抜いて楽しんでいくといい」
金色の瞳が静かにミレイユを見つめる。
微笑んでいる。
それでも、その奥だけは読めなかった。
「……ありがとうございます」
ミレイユは静かに頭を下げる。
短いやり取りだった。
それだけで十分だった。
背後では、貴族たちの空気が一気にざわめき始める。
第一皇子派か。
第二皇子派か。
あるいは――。
誰のもとへ付くのか。
探るような視線が、再びミレイユへ集まった。
そのときだった。
「……来い」
低い声が響く。
アロイスだった。
そう言って、ミレイユの手を静かに取る。
強くはない。
けれど、迷いもなかった。
*
アロイスに手を取られ、ミレイユは自然な動きでフロアへと導かれる。
その瞬間、広間の空気がわずかにざわついた。
(……鉄血公爵が踊る?)
(踊れたのか、あの男……)
(いや、そもそも女性を誘うことがあるのか……?)
囁き声は抑えられている。
それでも、その驚きまでは隠し切れていなかった。
音楽が流れる。
華やかなダンスの場。
周囲の視線は、先ほどよりもさらに強く二人へ集まっていた。
(……そういうことですか)
ミレイユは、その意味を理解する。
これは踊ること自体が目的ではない。
――"見せる"ためのダンス。
アロイスと踊ることは、公爵家の庇護下にあることを、この場の全員へ示すという意味を持っていた。
ミレイユは静かに手を預ける。
重心を合わせ、音楽を拾い、一歩を踏み出した。
自然なステップ。
無理のない動き。
淀みなく流れる足運び。
ミレイユは何も言わず、その動きへ静かに合わせていく。
呼吸を読み、歩幅を合わせる。
二人の動きは驚くほど滑らかに重なっていた。
優雅に。
静かに。
それでいて、一切の隙がない。
二人を見つめる周囲の空気が、ゆっくりと変わり始める。
先ほどまで軽々しく向けられていた視線が、次第に慎重なものへと変わっていく。
ざわめきの質も、確かに変わっていた。
(……踊れるのか)
(ただの飾りではない、か)
(やはり、貴族の出か……)
人々は、改めてミレイユという存在を測り始める。
軽視は消えた。
代わって始まったのは、評価のやり直しだった。
――触れていい相手なのか。
その答えを探るように。
その中心で、アロイスは最後まで何も語らない。
だが、それで十分だった。
彼が隣に立っている。
その事実だけが、何より雄弁な答えになっていた。




