第5話:皇立魔術研究所
皇立魔術研究所は、帝都北区画にあった。
整然と並ぶ石造りの建物群。
その中央には、周囲を見下ろすように一際大きな塔がそびえ立っている。
王国の王宮魔術師団とは、まるで雰囲気が違った。
閉鎖的で、無機質で、どこか冷たい。
そんな印象を抱かせる場所だった。
馬車の窓からその塔を見上げながら、ミレイユは静かに息を吐く。
向かいの席では、エドガーが書類へ目を通していた。
「帝国最高峰の魔術研究機関です」
淡々とした口調で説明を続ける。
「所属魔術師は全員、選抜制。成果主義を徹底しており、政治との結び付きも強い組織です」
「……王国とは、少し違うのですね」
「ええ。こちらは"学術機関"というより、"国家機関"に近いと言った方が正確でしょう」
ぱたり、と書類を閉じる。
眼鏡の奥の視線が、わずかに細められた。
「ですので――歓迎はされないと思ってください」
ミレイユは静かに頷く。
予想はしていた。
精神干渉能力者。
その肩書きだけで、警戒される理由としては十分すぎる。
馬車がゆっくりと停まり、低い声が響いた。
「着いたぞ」
アロイスだった。
短い一言だったが、それだけで空気が引き締まる。
ミレイユは馬車を降りた。
研究所の正面には、すでに数名の魔術師たちが待機している。
全員が白衣姿だった。
王国では見慣れない光景である。
視線が、一斉に集まった。
ほんの一瞬。
本当に、それだけだった。
すぐに逸らされる。
けれど、その一瞬だけで十分だった。
警戒。
忌避。
値踏み。
隠そうともしない感情が、その視線には滲んでいる。
ミレイユは何も言わず、それらを静かに受け止めた。
「こちらです」
案内役の男が事務的な声で促す。
そこには歓迎の色も、人間味もなかった。
研究所の中は驚くほど静かだった。
紙をめくる音。
ペンが走る音。
魔術器具が微かに駆動する音。
誰一人大声を出さない。
それでも、ミレイユが廊下を歩くたび、空気だけがわずかに止まる。
視線。
囁き。
すぐに消える小さな声。
「……本当に来たのか」
「精神干渉能力者だろ」
「危険すぎる……」
「シュタルク公爵閣下が後ろについているらしい」
「余計に厄介だ」
最後の一言だけが、不自然なほど小さかった。
ミレイユは何も反応しない。
ただ前を向き、静かに歩き続ける。
その少し後ろを、アロイスが無言で歩いていた。
何も言わない。
視線も動かさない。
それでも、そこにいる。
ただ、それだけで十分だった。
研究員たちは誰一人として、アロイスを正面から見ようとしない。
見たくない。
視線を合わせたくない。
そんな空気が、廊下全体へ静かに広がっていた。
「……すごいですね」
ミレイユが小さく呟く。
隣を歩くエドガーが首を傾げた。
「何がです?」
「皆さん、アロイス様をご覧になりません」
エドガーは一瞬だけ黙り込み、それから少し困ったように笑った。
「……慣れていて気付きませんでした」
本当に今、初めて意識したような表情だった。
少しだけ間を置いて続ける。
「閣下は、圧がありますから」
「圧……」
「はい。主に物理的な意味で」
真顔だった。
ミレイユは、ほんのわずかだけ目を瞬かせる。
そのやり取りの間も、研究員たちの空気は少しも柔らかくならなかった。
やがて、一室へ案内される。
室内には数名の魔術師が控え、その中央には年配の男が立っていた。
研究所責任者。
恐らく、この場の責任者なのだろう。
男はミレイユを一瞥すると、歓迎の色を欠いた声で言った。
「……王国の魔術師か」
それが第一声だった。
ミレイユは静かに一礼する。
「ミレイユ・ロシュ・モンフォールと申します。本日より――」
「話は聞いている」
言葉を遮られる。
部屋の空気が、さらに冷えた。
責任者は書類を机へ置き、ミレイユを見据える。
「精神干渉能力者、だったな」
確認するような口調だった。
だが、それは確認ではない。
危険物を見る視線だった。
「……はい」
「研究所内での精神干渉は禁止する」
「もちろんです」
ミレイユは即座に答える。
責任者は、わずかに目を細めた。
その目は、まったく信用していない。
「席は、あちらを使え」
指し示されたのは部屋の端だった。
他の研究員から明確に距離を置かれた場所。
資料棚の近く。
孤立した席だった。
「報告は書面で提出。必要最低限以外の研究参加は認めない」
淡々と条件が告げられる。
「勤務は週三日、午前のみだ」
その言葉に、エドガーの眉がわずかに動いた。
「……随分な扱いですね」
静かな声だった。
だが、その温度だけが一段低い。
責任者は表情を変えない。
「精神干渉能力者を常時研究所へ置く危険性を考慮した結果だ」
「彼女を王国から招いたのは帝国でしょう」
エドガーの声音が、わずかに鋭くなる。
「共同研究と称しておきながら、この扱いはあまりにも――」
「変更の予定はない」
責任者は言い切った。
取り付く島もない。
部屋の空気が張り詰める。
そのときだった。
静かに。
だが、確かに。
室温が一段下がったような錯覚が走る。
誰かが、小さく息を呑んだ。
研究員たちの肩が強張る。
原因は明白だった。
部屋の後方。
アロイスが、そこに立っている。
何も言わない。
一歩も動かない。
それでも、その場を支配する圧だけが存在していた。
――ミレイユへ危害を加えれば、シュタルクが動く。
その事実だけが、言葉もなく部屋中へ伝わっていく。
責任者ですら、一瞬だけ言葉を失った。
重い沈黙が流れる。
数秒後、責任者は小さく咳払いをして口を開いた。
「……案内は以上だ」
ほんのわずかに、口調が早くなっている。
「本日の勤務は終了として構わない」
ミレイユは静かに頭を下げた。
「承知しました」
それ以上、何も言わない。
怒りも、不満も表へは出さない。
その落ち着きぶりに、かえって研究員たちの方が戸惑っているようだった。
*
帰路の馬車では、窓の外で夕暮れが帝都の街並みを赤く染めていた。
しばらく流れていた静寂を破るように、エドガーが小さく息を吐く。
「……失礼にも程がありますね」
珍しく、その声音には感情が滲んでいた。
「申し訳ありません。閣下の客人へ、あのような態度を取らせてしまいました」
「お気になさらないでください」
ミレイユは静かに首を振る。
「予想はしていましたから」
「だから許容する、という話ではありません」
エドガーは間髪入れずに返した。
きっぱりと言い切るその口調に、ミレイユは少しだけ目を丸くする。
向かいでは、アロイスが腕を組んだまま黙っていた。
何も言わない。
だが、その言葉を否定もしない。
エドガーは眼鏡を押し上げ、一度言葉を区切ってから続ける。
「……とはいえ、完全に拒絶されなかっただけ、まだ良かったとも言えます」
「それは、どういう……?」
「閣下が同行しておられましたので」
真顔だった。
ミレイユは、ゆっくりとアロイスへ視線を向ける。
数秒の沈黙。
やがてアロイスは、低く口を開いた。
「……別に脅したつもりはない」
するとエドガーが即座に返す。
「存在そのものが脅しなのです」
「そうか」
「自覚がなかったんですか?」
「必要ないからな」
あまりにも自然な返答だった。
ミレイユは思わず、ほんの少しだけ口元を緩める。
その変化を見て、エドガーもわずかに目を細めた。
馬車はそのまま夕暮れの帝都を進み、静かにシュタルク邸へと戻っていく。
*
「おかえりなさいませ!」
屋敷へ入った途端、元気な声が飛んできた。
マルガレーテだった。
「どうでした!?研究所!坊っちゃん、また怖がられてました!?」
「最初にそこを聞くんですか……」
エドガーが疲れ切った声を漏らす。
「だって気になるじゃない!」
マルガレーテは悪びれる様子もない。
その後ろでは、ライナーがにやにやと笑っていた。
「お、無事帰還」
相変わらず軽い調子だ。
「研究所の連中、生きてた?」
「なぜ殺伐とした方向へ行くんですか」
エドガーのツッコミが即座に飛ぶ。
「帝国最高峰の研究機関ですよ?」
「いやぁ、団長と一緒だったろ?」
ライナーは悪びれもせず肩をすくめる。
「何人か気絶してても不思議じゃねぇなって」
「しません」
「即答だ」
「当たり前です」
騒がしい。
次々と会話が飛び交い、誰も人の話を最後まで聞いていない。
けれど、その賑やかさに、ミレイユはふっと肩の力が抜けるのを感じた。
知らない国。
知らない場所。
歓迎されなかった研究所。
そのあとに帰ってきたこの空気は、不思議なくらい温かかった。
「……ただいま、戻りました」
小さく呟く。
その一言に、マルガレーテはぱっと顔を輝かせた。
「ええ、おかえりなさいませ!」
まるで本当の家族を迎えるような笑顔だった。
「お疲れでしょう? お風呂も、お食事も、すぐにご用意できますからね!」
有無を言わせない勢いに、ミレイユは思わず目を瞬かせる。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
その一言で十分だった。
ほどなくして、湯気の立つ浴室へ案内される。
温かい湯。
湯気に包まれた静かな空間。
湯上がりには、温かな食事が待っている。
整えられた生活。
当たり前のようでいて、決して当たり前ではないもの。
それが、この屋敷にはあった。
*
食堂には、すでに三人が席へ着いていた。
「お、ミレイユ!お疲れ!」
ライナーが大きく手を振る。
「初日からあの研究所とか、なかなかハードモードだったろ?」
「少しは静かにしていろ」
すぐ横からエドガーが刺す。
「食事中だ」
「いいじゃん別に!」
軽口が飛び交う。
いつものやり取りなのだろう。
その横で、アロイスだけは何も言わず食事を進めていた。
黙々と。
けれど、決して場から離れているわけではない。
ただ、そこにいる。
それだけで、この食卓は不思議と落ち着いていた。
ミレイユも席へ着く。
目の前には、温かな料理が並んでいる。
立ち上る湯気。
食欲を誘う香り。
それだけで、自然と口元が緩んだ。
小さく。
けれど確かに、笑みが零れる。
誰もそれを口にはしない。
だが、その変化には気づいていた。
食卓の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
穏やかな時間が流れる。
まるで、今日あった出来事が遠い昔のことのように。
そのときだった。
「……閣下」
静かな声が場を切る。
ルドルフだった。
自然と全員の視線が彼へ向く。
「五日後、皇家主催の夜会がございます」
一瞬、沈黙が落ちる。
「閣下が召集されております」
それは当然だった。
シュタルク公爵であるアロイスが皇家の夜会へ招かれることに、誰も驚きはしない。
だが、ルドルフの報告はそこで終わらなかった。
「……加えて、ミレイユ様もご同席いただくよう、とのことです」
食堂から音が消えた。
さきほどまでの穏やかな空気が、一瞬で張り詰める。
誰も、すぐには口を開かなかった。
その意味が分かっているからだ。
帝国。
皇族。
そして――お披露目。
もはや、後戻りはできない。
静かな緊張だけが、ゆっくりと食堂へ広がっていった。




