第3話:それぞれの距離
揺れは、一定だった。
規則的で乱れのない揺れは、舗装された街道を進んでいる証でもある。
王宮は、もう遠い。
窓の外には見慣れない景色が流れ続けていた。
ミレイユは何も言わず、静かに座っている。背筋は伸び、呼吸も乱れていない。
ただ――ほんのわずかに、視線だけが落ちていた。
考えているのは、さっきの言葉。
あの一瞬のことだった。
口には出さない。出す必要もない。
それでも、忘れられずにいた。
向かいの席には、アロイスが座っている。
姿勢は崩れず、目も閉じていない。ただ静かに、ミレイユの存在を見つめていた。
観察でも、値踏みでもない。
ただ、「そこにいる」と認識しているだけの視線だった。
「……」
互いに何も言わない。
言葉を交わさなくとも、時間だけがゆっくりと流れていく。
馬車の揺れが、その静寂を刻んでいた。
やがて、その沈黙を破るようにアロイスが口を開く。
「……後悔は」
短い問いだった。
唐突だが、余計なものは何もない。
ミレイユは少しだけ目を上げ、一瞬だけ考えてから答えた。
「……ありません」
静かな声だった。
嘘もなければ、飾りもない。
ただ、そのままの言葉だった。
アロイスはそれを受け、わずかに目を細める。
「そうか」
それだけだった。
深く踏み込まない。
踏み込まないことを、自ら選んでいる。
再び沈黙が戻る。
馬車は変わらぬ揺れを刻み、外の音だけが遠く流れていく。
やがてアロイスは視線を窓の外へ向けた。
流れていく景色。
王国の外縁。
そして、その先。
(……切り離した)
思考だけが、静かに胸の内へ落ちていく。
表情は変わらない。
だが、自分が何をしたのかは理解していた。
ひとりの人間を、ひとつの場所から引き剥がした。
それが最適解だったとしても、正しい判断だったとしても。
"何もなかった"とは思わない。
ほんのわずかに指先へ力が入り、すぐに抜ける。
痕跡は残さない。
そのまま視線を戻し、ミレイユを見る。
変わらない。
揺れていない。
それが、少しだけ意外だった。
(……強いな)
評価ではない。
ただの事実だった。
そして、ほんのわずかに思う。
(……悪くない)
もちろん、口にはしない。
言葉にする必要もない。
それでも、もう一度だけ確認するように口を開く。
「……あちらでは、環境が変わる」
視線は窓の外へ向けたまま続ける。
「問題があれば言え」
簡素な言い方だった。
命令にも、配慮にも聞こえる。
ミレイユはその言葉を受け、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……はい」
短い返事。
それで十分だった。
アロイスは、それ以上何も言わない。
沈黙が戻る。
だが、それは先ほどまでとは少しだけ違っていた。
完全な無関係ではない。
ほんのわずかに、二人の間へ関係が生まれている。
まだ、名前もつかないほどの小さなもの。
それでいい。
――今は、まだ。
*
執務室の灯りは、最小限だった。
広い室内で、机の上だけが淡く照らされている。
整然と積まれた書類に乱れはない。
エリシアは、その前に静かに座っていた。
背筋は伸び、視線は一枚の書面へ落ちている。
帝国との合意文書。
署名はすでに終わり、手続きも進んでいた。
もう覆ることはない。
それを理解しているはずなのに、指先だけは紙の端から離れなかった。
まるで、最後の何かを繋ぎ留めようとするかのように。
「……」
何も言わない。
言う必要もない。
理解している。
これが、この国にとって。
民にとって。
そして未来にとって、最善だったことを。
だから選んだ。
少なくとも、あの場では迷わなかった。
そのとき、扉が軽く叩かれる。
「入ってちょうだい」
柔らかな声だった。
だが、揺れはない。
レオニードが静かに入室する。
足音にも、余計な気配はなかった。
「出発しました」
簡潔な報告だった。
それで十分だった。
「そう」
エリシアは短く返す。
顔は上げず、視線も動かさない。
それでも、その返答のあとには、わずかな沈黙が残った。
レオニードは、それに気づく。
だが、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
静かな時間が流れる。
短い。
それでも、重い沈黙だった。
やがてエリシアが、ゆっくりと口を開く。
「……正しかったと思う?」
独り言のような声。
それでも、その問いは確かにレオニードへ向けられていた。
レオニードは、すぐには答えない。
ほんの数秒だけ思考を巡らせ、それから静かに頷く。
「はい」
迷いのない返答だった。
それが事実だからだ。
エリシアは、小さく息を吐く。
「そう……」
それだけだった。
それ以上は求めない。
求める意味もない。
正しいことは、最初から分かっている。
それでも、その視線だけはほんの一瞬、誰にも気づかれないほど小さく揺れた。
「……あの子は」
そこで言葉を切る。
「よく耐えていたわ」
静かな声だった。
評価ではない。
ただの事実。
そして、その奥に滲むわずかな感情。
レオニードは何も言わない。
その意味を理解しているからだった。
エリシアは、ゆっくりと背もたれへ身を預ける。
天井を見上げる。
灯りが、わずかに滲んだ。
「……守るべきだったのかしら」
小さく落ちた声。
独り言のようでいて、それは確かな問いでもあった。
レオニードは視線をわずかに下げる。
少しの沈黙を置いてから、静かに答えた。
「殿下は、守りました」
そこで一度言葉を切る。
「国を」
そして、続けた。
「……あの者の未来も」
エリシアは目を閉じる。
数秒、そのまま動かない。
やがて静かに目を開いた。
「……ええ」
短い返事だった。
その声は、もう揺れていない。
いつもの王女の声に戻っていた。
エリシアは手を伸ばし、新たな書類を取る。
視線を落とし、何事もなかったように仕事へ戻る。
止まらない。
止まれない。
それが、彼女の立場だった。
レオニードはそれを確認すると、静かに踵を返して扉へ向かった。
手をかけた、その背へ。
「……レオニード」
声が掛かる。
レオニードは振り返った。
エリシアは書類から目を離さないまま告げる。
「帝国との交渉、次も私が出るわ」
その声には、もう迷いはなかった。
ただ、決定だけがある。
「承知しました」
レオニードは頷き、扉を開けて部屋を出る。
静かに扉が閉まり、執務室には再び静寂が戻った。
エリシアは書類へ視線を落とし、淡々と、正確に読み進めていく。
何もなかったかのように。
それでも、机の上に置かれた指先だけは、ほんのわずかな間だけ動かなかった。
その時間だけが、静かにそこへ残されていた。




