第2話:選択の代償
結論は、すでに出ていた。
時間をかけたわけではない。むしろ――あまりにも早く、決まってしまったのだ。
帝国と王国の共同研究。その名目のもと、ミレイユは帝国へ派遣される。
ただし、“王国籍のまま”という条件を付けて。
それが、双方にとっての落としどころだった。
それ以上でも、それ以下でもない。
執務室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
エリシアは机に手を置いたまま、しばらく何も言わなかった。
視線は落ちている。
思考はすでに終わり、判断も下している。
それでもなお、口にするまでには、ほんの少しだけ時間が必要だった。
「……ごめんなさいね」
ぽつりと落ちた言葉は、柔らかく、それでいて静かだった。
エリシアは顔を上げる。その目にあったのは、王女としての表情ではなく、ひとりの人間としての感情だった。
「本当は、こんな形で送り出したくはなかったのだけれど……」
わずかに苦笑を滲ませる。
ミレイユは、ほんの少しだけ目を見開いた。
それを見て、レオニードが言葉を継いだ。
「本来であれば、拒絶すべき要求だ」
低く、抑えた声だった。
「しかし、帝国は情報を掴んでいる。このまま突っぱねれば、より強硬な手段に出る可能性が高い」
そこで、レオニードは一度言葉を切った。
「……お前を守り切れる保証は、なかった」
言い切った声には、余計な感情はなかった。
それは、現実だった。
王女と、その側近。そして国の中枢にいる者たちが下した、冷徹な判断。
その裏には、どうしても拭いきれない悔いがあった。
ミレイユは、静かにその言葉を受け止めた。
否定も、反論もしない。
ただ、ほんのわずかに息を吸ってから、穏やかな声で答える。
「……いいえ」
視線はまっすぐだった。
「今回の決定は、合理的です」
淡々とした声音だった。
「帝国が精神干渉の情報を得ている以上、いずれ何らかの形で接触は避けられなかったかと」
それは、まるで自分自身のこととして受け入れているような声音だった。
「それに――」
ほんのわずかに、表情が柔らぐ。
「精神干渉増幅の謎を解明できれば、王女殿下をお守りすることにも繋がります」
はっきりとした言葉だった。
そこに迷いはない。
エリシアは、その言葉をまっすぐに受け止めた。
しばらく何も言わずにミレイユを見つめ、それから、ゆっくりと息を吐く。
「……本当に、強い子ね」
その声音は柔らかかった。
責めるでもなく、諦めるでもない。
ただ、目の前の少女の強さを認めるような響きだった。
「無理はしないで、とは言えないわね…」
一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから、エリシアは続ける。
「でも……ちゃんと、帰ってきてちょうだい」
願うような言葉だった。それでも、王女としての矜持は崩さない。
ミレイユは、ほんの少しだけ目を細めた。
そして――
「……はい」
静かに、頷いた。
*
風が、やわらかく通り抜けていく。
石畳の中庭には整えられた植栽が並び、どこからか静かな水音が聞こえていた。
王宮の中にありながら、ほんの少しだけ“外”に近い場所だった。
ミレイユは、そこで足を止めた。
待っているわけではない。けれど、気がつけば自然とここへ足が向いていた。
「……来ると思った」
背後から、軽い声がした。
振り返らなくても分かる。
「……シルヴァン様」
「うん」
短く答え、シルヴァンはミレイユの隣へ、近すぎず遠すぎない、いつも通りの距離を保って立った。
空気も、立ち位置も、いつもと変わらない。
――そう見えるのに、ほんの少しだけ、その目が鋭かった。
「帝国、行くんでしょ」
確認する形を取っているが、答えなどとうに知っている。
「……はい」
ミレイユが静かに頷くと、シルヴァンは小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。
軽く流したようにも見える。
けれど、その短い言葉の奥には、いくつもの言葉が詰まっている。
シルヴァンは少しだけ視線を逸らし、空を見上げた。
「……まあ、あっちの方が設備はいいだろうし」
あえて軽い調子で言う。
「君のそれ、ちゃんと扱えるやつも多いだろうしね」
理屈を並べれば、どれも正しい。だからこそ、それ以上は言わなかった。
ミレイユも、何も挟まずに聞いている。
否定も肯定もせず、ただ、その言葉を受け取っていた。
やがてシルヴァンは、少しだけ笑う。
「……無理はしないでよ」
軽い調子だったが、目は笑っていなかった。
「君、自分のこと後回しにするからさ」
ミレイユは、わずかに目を伏せる。
「……気をつけます」
それが、今の彼女にできる精一杯の答えだった。
シルヴァンは頷く。
「うん。それでいい」
それ以上は言わない。
言葉にしなくても、伝わっている。
そのとき、規則正しい足音がもう一つ聞こえてきた。
迷いのない歩幅で近づいてくるのは、リディアだった。
リディアは真っ直ぐに歩み寄り、ミレイユの前で足を止める。
背筋を伸ばし、わずかに姿勢を正してから、短く告げた。
「……無事で」
たった一言だった。
けれど、その言葉には、すべてが込められていた。
ミレイユは、ほんの少しだけ目を見開く。
「……はい」
小さく応じると、リディアはそれを確かめるように頷いた。
「任務上、同行は叶わない」
まっすぐにミレイユを見据えたまま、リディアは続ける。
「だが――」
その視線が、わずかに強くなる。
「王女殿下の周囲は、我々が守る」
静かな断言だった。
そこには、揺るがない意志がある。
ミレイユの瞳が、わずかに揺れた。
その意味は分かっている。
“安心しろ”。
その言葉の代わりだった。
それ以上のものでもある。
シルヴァンが横から軽く口を挟む。
「そういうこと」
肩の力を抜いた声音だった。
「こっちは任せといていいよ」
ミレイユは二人を見た。
何か言おうとして、言葉を探す。
けれど、うまく出てこなかった。
胸の奥で込み上げるものを抑えるように、ミレイユは小さく頭を下げる。
「……お願いします」
それで、十分だった。
リディアは、わずかに目を細めた。
一瞬だけ感情が滲む。
けれど、それはすぐに消えた。
シルヴァンは、軽く肩をすくめる。
「ちゃんと帰ってきなよ」
何気ない一言だった。
けれど――それは前提だった。
帰ってくることが。
ミレイユは顔を上げる。
「……はい」
今度は、少しだけはっきりと答えた。
静かな中庭に、やわらかな風が流れていく。
もう、言葉はいらなかった。
伝えるべきものは、すでに交わされていた。
*
朝の空気は、冷たかった。
整えられた馬車の周囲には兵が控え、配置にも無駄がない。
すべてが予定通りに進んでいる。
ミレイユは、静かに立っていた。
荷は少ない。持っているのは必要なものだけで、それ以上は持たない。
振り返らなかった。
見る必要がないからだ。
もう――決まっていることなのだから。
「……そろそろだ」
レオニードの声がした。
短い言葉だったが、それで十分だった。
「はい」
ミレイユは頷き、一歩を踏み出す。
そのときだった。
「――待て」
背後から声が落ちた。
鋭くもない。強くもない。
だが、ミレイユの足を止めるには十分だった。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、アルベルトだった。
走ってきたのか、息が少しだけ乱れている。
いつもより、わずかに動作が遅れていた。
それでも、姿勢だけは崩れていない。
騎士のままだった。
アルベルトは、そのまま数歩近づき、正しい距離を保ったところで止まる。
「……行くのか」
分かりきった問いだった。
それでも、言わずにはいられなかったのだろう。
「……はい」
ミレイユは迷いなく答えた。
その答えを聞いた瞬間、アルベルトの視線がわずかに揺れる。
数秒の沈黙が流れた。
言葉を選ぼうとしているのが分かる。
けれど、どれを選べばいいのか、本人にも分からない。
そして――思いがけない言葉が零れた。
「……行くなよ」
小さな声だった。
本当に小さく、他の者には届かず、風に紛れてしまいそうなほどの声。
それでも、確かにそこにあった。
ミレイユの目が、わずかに見開かれる。
ほんの一瞬、驚きが走った。
だが、次の瞬間には消えていた。
何もなかったかのように、表情は元に戻る。
誰にも気づかれないように。
それでも、視線だけは、ほんのわずかに揺れていた。
アルベルト自身も気づいていた。
(……今のは)
言うつもりなどなかった。
言ってはいけない言葉だった。
再び、沈黙が落ちる。
空気そのものが止まったように感じられた。
そんな二人のやり取りを、少し離れた場所から別の視線が捉えていた。
アロイスだった。
馬車の側に立ち、何も言わずにこちらを見ている。
わずかに目を細める。
(……なるほど)
それだけで、十分だった。
踏み込まない。関わらない。
ただ、記憶する。
やがてアルベルトは息を吐き、無理やり気持ちを切り替えた。
「……任務は継続中だ」
いつものぶっきらぼうな声だった。
だが、今度はきちんと整っている。
「無事に戻れ」
それが、本来の言葉だった。
ミレイユは、その言葉を受け止める。
ほんの一瞬だけ、先ほどの言葉を思い出した。
そして、静かに答える。
「……はい」
それ以上は言わない。
言えなかった。
アルベルトも、何も言わなかった。
もう、言葉は十分だった。
レオニードがわずかに視線を動かしたが、何も言及しない。
必要なかった。
すべては、もう決まっている。
「出る」
短い指示とともに、場が動き始めた。
ミレイユは振り返らず、そのまま馬車へ向かう。
一歩、また一歩と進むたびに、二人の距離は確実に離れていった。
アルベルトは、その背中を見つめる。
最後まで動かなかった。
止めない。
止められない。
ただ、騎士としてそこに立っている。
それ以外の何者にもなれないまま。
やがて、馬車の扉が閉まる音が響いた。
馬車はゆっくりと動き出し、王宮の門を越えて、少しずつ遠ざかっていく。
白く美しい王宮が小さくなり、やがて――見えなくなる。
何もなかったかのように、静寂が戻った。
けれど、その場には確かに残されていた。
二度と戻らないものが。




