第30話:歪み
ロシュ家の断罪から、しばらくの時が過ぎていた。
王宮は束の間の平穏を取り戻している。
精神干渉事件は終息し、王女への攻撃も確認されていない。
だが、それですべてが終わったわけではなかった。
ロシュ家の地下で発見された石板は、今も王宮魔術師団の管理下で厳重に保管されている。
その正体は分からない。
何のために作られたのかも分からない。
分かっているのは、精神干渉を増幅する危険な遺物であるということだけだった。
そんなある日。
執務室へ駆け込んできた若い魔術師が、硬い表情のまま報告する。
「王国南東部の村で、異変が起きています」
レオニードが顔を上げた。
「異変?」
「……精神干渉に似た現象が起きているとのことです」
空気が変わる。
室内にいた数人の魔術師が顔を見合わせた。
精神干渉。
その単語自体が、今や誰も無視できない意味を持っている。
レオニードは静かに腕を組んだ。
「詳細を」
「村人たちが感情を失ったようになり、日常動作だけを繰り返している、と」
ミレイユの指先がぴくりと震えた。
脳裏へ、あの感覚が蘇る。
石板へ触れた瞬間に流れ込んできた、“どこか遠く”へ引かれるような感覚。
あれはただの残留思念ではない。
何かと、“繋がっている”。
ミレイユはゆっくり顔を上げた。
「……場所は」
報告役の魔術師が地図を差し出す。
王国南東部。
帝国との国境近く。
その位置を見た瞬間。
ミレイユの背筋に冷たいものが走った。
同じだ。
石板へ触れた時に感じた方向と。
「レオニード様」
彼女は静かに口を開く。
「行かせてください」
レオニードの鋭い視線が向けられる。
「理由を聞こう」
ミレイユは少し迷った。
だが、隠す意味はない。
「……石板へ触れた際、微かな“繋がり”を感じました」
室内が静まり返る。
「場所までは分かりませんでした。ですが……」
彼女は地図の一点を指した。
「方向が一致しています」
シルヴァンが眉を上げる。
「つまり、その石板と異変に関連がある、と?」
「確証はありません」
ミレイユは首を振る。
「ですが……恐らく」
レオニードはしばらく沈黙した。
やがて低く言う。
「アルベルト、護衛につけ」
「はい!」
「シルヴァン、お前も同行しろ」
「了解です」
「決して深入りするな。異常があれば即時撤退しろ」
その声には、珍しく警戒が滲んでいた。
*
村へ近づくにつれ、空気が重くなっていった。
風が弱い。
鳥の声もしない。
アルベルトが周囲を睨みながら吐き捨てる。
「……気味悪ぃな」
村へ足を踏み入れた瞬間。
ミレイユは息を止めた。
人はいる。
だが、生きている気配が薄い。
女が洗濯物を干している。
老人が薪を運んでいる。
子どもが地面を掃いている。
誰も無表情だった。
いや。
“感情が抜け落ちている”。
「おい……」
アルベルトの声が低くなる。
村人の一人がこちらの横を通り過ぎる。
しかし視線が合わない。
まるで周囲を認識していない。
ただ、決められた動作だけを繰り返している。
ぞわり、と。
ミレイユの背筋に寒気が走った。
「……違います」
無意識に、声が漏れる。
シルヴァンが振り返った。
「何がだ?」
「普通の精神干渉ではありません」
ミレイユは目を閉じる。
人の精神は、本来揺らぐ。
怒り、不安、迷い、喜び。
小さな波を持っている。
だが今、この村の精神は。
静かすぎた。
まるで深い眠りへ沈められているように。
「ここに長く留まるのは危険です」
ミレイユは小さく言った。
「原因が分かるのか?」
アルベルトの問いへ、ミレイユはゆっくり頷く。
「……恐らく、“あちら”です」
彼女は森の奥を見る。
石板は持ってきていない。
だが、一度触れた際の感覚だけが、微かな糸のように残っていた。
呼ばれている。
遠くから。
「行くぞ」
アルベルトが短く告げる。
騎士たちが後に続いた。
*
森の奥深く。
苔むした石階段が現れる。
崩れかけた石柱。
風化した壁面。
そして半ば地中へ沈んだ巨大な遺跡。
「古代帝国の遺跡、か……」
シルヴァンが周囲を見回す。
古代帝国。
数百年前、大陸全土を支配した統一国家。
その遺跡は各地に点在している。
だが、ほとんどは価値のない廃墟だった。
儀式場。
神殿跡。
古い祭壇。
歴史資料として研究される程度の存在。
少なくとも、王国ではそう認識されている。
アルベルトが顔をしかめる。
「こんな場所、今まで放置されてたのかよ」
「……ただの遺跡だと思われていましたからね」
ミレイユは掠れた声で答えた。
だが。
遺跡へ近づくにつれ、頭の奥が軋む。
強い。
何かが。
遺跡内部へ足を踏み入れる。
空気が冷たい。
暗い通路を進み、その最奥。
広い空間の中央に、それはあった。
大きな円形の台座。
複雑な紋様が刻まれた、儀式祭壇のような構造物。
だが、淡く脈打つように光っている。
生きているように。
「……なんだ、あれ」
アルベルトが呟く。
ミレイユの顔から血の気が引いた。
「これは……」
胸の奥がざわつく。
分かってしまう。
あの石板と、同質だ。
「精神干渉が……増幅されている……?」
シルヴァンが息を呑む。
「それが村民の異常の原因か?」
ミレイユは答えなかった。
答えられない。
装置から流れ出る“波”が、あまりにも巨大だった。
静かに、だが確実に。
人の感情を削っている。
怒りを。
恐怖を。
不安を。
そして、“自発性”を。
「止めます」
ミレイユが前へ出る。
「待て、危険だ!」
アルベルトの制止より早く、ミレイユは祭壇へ触れた。
瞬間。
凄まじい精神干渉が流れ込んできた。
「――ッ!!」
視界が白く弾ける。
眠れ。
穏やかであれ。
考えるな。
逆らうな。
感情を鎮めろ。
全てを静かに。
「ミレイユ!!」
背後で剣が抜かれる音。
振り返る。
騎士たちの目が虚ろになっていた。
「敵は……排除しなければ……」
誰かが呟く。
騎士としての行動原理だけをなぞるように。
シルヴァンが舌打ちする。
「精神誘導か……!」
「下がってろ!!」
アルベルトが剣を抜き、前へ出た。
剣戟が響く。
その間にも、装置の干渉はミレイユを押し潰そうとしていた。
強い。
人間の能力とは比べ物にならない。
意識が沈む。
感情が削られる。
怖い。
眠りたい。
もう全部、どうでもよく――
違う。
これは。
「……人の、心に……」
震える指を、祭壇へ押し当てる。
「勝手に……触れて、いいものじゃ……ありません……!」
ミレイユの精神干渉が広がる。
攻撃ではない。
拒絶。
保護。
閉ざすための力。
他者の精神へ、無理やり踏み込ませないための境界。
ぶつかり合う精神波が空間を震わせた。
そして。
ふっと、祭壇の光が弱まる。
騎士たちの動きが止まった。
静寂が場を支配する。
ミレイユの身体が崩れ落ちる。
「ミレイユ!」
アルベルトが駆け寄った。
彼女は荒い呼吸のまま、小さく首を振る。
「……止めて、いません……」
「何?」
「眠らせただけ、です……」
祭壇――いや、“装置”は、そこに残っている。
ただ静かになっただけだ。
その時、意識の奥で。
遠く、遥か遠く。
別の“何か”が響いた。
一つではない。
点在する気配。
ミレイユの顔から血の気が引く。
「……そんな……」
「どうした」
アルベルトの問いへ、彼女は呆然と呟いた。
「これだけじゃ……ありません」
静かな恐怖が落ちる。
「同じものが……まだ、どこかに……」
*
村へ戻った頃には、空気が変わっていた。
夕暮れの薄橙が、家々の屋根を照らしている。
井戸端では女たちが話し、子どもたちが走り回り、家畜の鳴き声が響いていた。
つい数時間前までの、不気味な静けさは消えている。
アルベルトが眉をひそめた。
「……普通、だな」
警戒を解かぬまま、騎士の一人が村人へ話しかける。
返ってきたのは、ごく当たり前の反応だった。
困惑。
不安。
そして、「何かあったのか」という戸惑い。
誰も、自分たちの異常状態を覚えていない。
ミレイユは静かに村の様子を見渡した。
人々の精神は、元に戻っている。
揺らぎがある。
感情がある。
怒りも、不満も、疲労も。
けれどそれが、“人間らしい”。
「……戻っていますね」
シルヴァンが小さく息を吐く。
「装置が休眠した影響か」
「恐らく」
ミレイユは頷いた。
だが胸の奥の寒気は消えない。
あれは止まっていない。
眠っているだけだ。
「今日はここで休む」
アルベルトが周囲を警戒しながら言う。
「夜の森を移動する方が危険だ」
誰も異論はなかった。
*
夜。
村長宅の一室を借り、ミレイユは一人、窓辺へ立っていた。
静かな夜だった。
遠くで犬が吠える。
食器の触れ合う音が聞こえる。
普通の村。
普通の暮らし。
けれど今日、自分たちは見てしまった。
その“普通”が、誰かに奪われる光景を。
「眠れねぇのか」
背後から声がした。
振り返ると、アルベルトが扉にもたれかかっている。
ミレイユは少し困ったように笑った。
「……少しだけ」
アルベルトは近づき、窓の外を見た。
「戻ってんだな」
「はい」
「お前が戻した」
ミレイユは首を横に振る。
「眠らせただけです」
その言葉に、アルベルトは眉を寄せた。
「違いがあるのか」
「あります」
ミレイユは静かに答える。
「あれは壊れていません」
夜風が髪を揺らした。
「また目覚める可能性があります」
アルベルトは舌打ちする。
「厄介極まりねぇな」
ミレイユは答えなかった。
脳裏には、最後に感じた“気配”が残っている。
遠く、どこかに。
まだ、ある。
*
翌日。
王都へ戻ったミレイユたちは、すぐに王宮魔術師団へ報告を行った。
重厚な執務室。
レオニードは腕を組んだまま、無言で話を聞いている。
「……つまり」
低い声が落ちる。
「古代遺跡の内部に、精神干渉を増幅する装置が存在していた、と」
「はい」
ミレイユが頷く。
「村人への影響は、その装置によるものと思われます」
「現在は?」
「休眠状態です」
レオニードの眉間に皺が刻まれる。
沈黙。
重い空気が室内を満たした。
やがて彼は、低く呟く。
「王宮にある精神干渉についての資料は、僅かとはいえ存在する」
その声音には、珍しく迷いが混じっていた。
「……だが、そのような装置の話は聞いたことがない」
視線が机へ落ちる。
「無論、石板も、だが」
シルヴァンが肩を竦めた。
「あれは、古代の遺物なのか?」
ミレイユは静かに答える。
「……そう考えるのが自然でしょう」
脳裏に浮かぶのは、あの遺跡。
古代帝国の廃墟。
歴史としてしか語られなかったもの。
けれど、その内部には確かに“生きている何か”があった。
「そして」
ミレイユの声が僅かに低くなる。
「装置も、あれだけではない可能性が高いです」
アルベルトが露骨に顔をしかめた。
「あんなものが、まだあるのかよ……」
誰も即答できない。
室内へ沈黙が落ちる。
レオニードは鋭い視線をミレイユへ向けた。
「どこにあるのか、特定できるか」
ミレイユはゆっくり首を横に振る。
淡い水色の髪が揺れる。
「……今は、“どこかにある”としか」
遠くに気配を感じた。
だが場所までは掴めない。
霧の向こうに灯りがあるようなものだ。
「現時点では、“詰み”か……」
シルヴァンの呟きに、誰も反論できなかった。
分かっているのは、精神干渉を増幅する装置が存在すること。
そして、それが一つではないらしいということだけだ。
敵の目的も分からない。
装置が作られた理由も分からない。
まして、それを生み出した者たちの正体など知る由もない。
重い沈黙が室内を満たす。
レオニードはゆっくりと息を吐いた。
「……調査を続ける」
それだけだった。
だが、それ以外にできることもない。
ミレイユは窓の外へ視線を向ける。
遠く。
あまりにも遠く手の届かない場所に、まだ何かがある。
石板。
遺跡。
そして、眠るように沈黙していた古代の装置。
知らなかった世界が、ゆっくりと姿を現し始めていた。
第一章はここまでです。
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