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選択の魔女  作者: めいあん
第一章:王宮魔術師編
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第28話:名を継ぐ者

王宮の謁見の間には、抑えられているようで抑えきれていないざわめきが広がっていた。

声は潜められている。だが、その中身は生々しい。

(ロシュ伯は処刑が決まったらしいぞ)

(夫人も同様だと聞いたが……まだ捕まっていないとか)

(逃げたのだろう、あの女は)

(次女は?)

(修道院送りだ。表向きは更生だが……戻ってはこれまい)

(実質の終身だな)

ひそひそとした声が波のように広がっては消え、また別の話題へと移っていく。

(しかし、あの長女は……)

(両家から見放されたとか)

(モンフォールからも、ロシュからも)

(夜会での様子、聞いただろう)

(魔術師とはいえ、あの立場で王宮に居座るとは……)

興味と嘲りの入り混じった視線が向けられる。

だが、その中心にいる当人は静かだった。

ミレイユは何も聞こえていないかのように前を見つめている。

少し離れた場所で、アルベルトは腕を組みながら周囲を見回した。

(……うるせぇな)

聞こえている。

だが動かない。

ここは“場”だ。

感情で踏み込む場所ではない。

守るべき線がある。

そのとき。

「――その程度の話題で、場を濁すのですか」

静かな声が響いた。

誰が言ったのかと探すより早く、すべての視線が一点へ集まる。

エリシア王女が振り返っていた。

まるで最初から、すべてを聞いていたかのように。

その視線は、ざわめきの中心へまっすぐ向けられている。

「事実関係は、すでに公示済みです」

静かな声だった。

だが、逃げ場を与えない響きがあった。

「それでもなお、根拠のない推測で人を測るのであれば、それは貴族の振る舞いとは言えません」

空気が一瞬で冷える。

誰も何も言えなかった。

王女はさらに一歩前へ進んだ。

「彼女は、己の能力と結果でこの場に立っています」

断言する。

「それ以上でも、それ以下でもありません」

それだけで十分だった。

ざわめきは断たれ、貴族たちはわずかに頭を下げる。

言葉はない。

ただ理解する。

――これ以上は触れるな、と。

ミレイユは静かに立っていた。

何も変わらない。

だが、胸の奥では確かに何かが違っていた。

守られた。

認められた。

公の場で、はっきりと。

アルベルトは横目でその姿を見る。

ほんの少しだけ口元が緩んだ。

「……すげぇな」

小さく漏らす。

「……はい」

ミレイユも小さく答えた。

それ以上の言葉はいらなかった。

やがてミレイユは一歩前へ進み出る。

「……申し上げます」

静かな声だった。

だが確かに場を貫いた。

視線が集まる。

ミレイユはゆっくりと顔を上げる。

「私は、ロシュ・モンフォールの名を継ぎます」

その宣言に、空気が大きく揺れた。

(ロシュ……だと?)

(断罪された家の名を……?)

(モンフォールまで名乗るつもりか……!)

驚きは広がる。

だが先ほどとは違う。

誰も声には出さない。

王女の言葉が、すでに線を引いていた。

ミレイユは静かに息を吸い、ほんのわずかだけ視線を落としたあと、再び前を向く。

「母は、モンフォールの生まれでした」

穏やかな声だった。

だが、その言葉は確かに場へ届く。

「高度な教育を受け、公爵家の末子として育ちながらも、脚が悪いという理由だけで厄介者として扱われました」

誰も口を挟まない。

「そして、ロシュ家へ嫁ぎました」

ダンスを踊れない公爵令嬢の、有効な使い方として。

その言葉の裏にあるものを、多くの者が理解した。

ミレイユの指先にわずかに力がこもる。

「それでも母は、どちらの家からも逃げませんでした」

エレオノーラに劣等感を抱く夫に疎まれても。

居場所を与えられなくても。

ロシュ家に寄り添おうとした。

最後まで。

亡くなるその日まで。

「そのどちらにも、母の覚悟がありました」

視線は揺れない。

逃げる気配もない。

「私は、その両方を受け継ぎます」

言い切る。

その瞬間、場の空気が静かに張り詰めた。

嘲りではない。

理解しきれない何かを前にした沈黙だった。

やがて。

「静粛に」

澄んだ声が響く。

エリシア王女だった。

その一言で、再び空気が整う。

王女はミレイユを見つめていた。

静かに、だが揺るぎなく。

「その名乗りを、認めます」

迷いなく告げる。

再び空気が揺れた。

だが今度は誰も声を上げない。

王女の言葉は、それだけで決定だった。

沈黙の中、一人の男が前へ進み出る。

モンフォール公爵。

冷ややかな視線。

感情を読ませない顔。

「……謝罪はしない」

低く言い放つ。

空気が張り詰める。

だが公爵は続けた。

「だが、その名を名乗ることは認める」

拒絶でもない。

受容でもない。

ただの許可。

それが、この男の精一杯だった。

「他に、何か保障できるものはあるか」

試すような問い。

ミレイユはほんのわずかに目を伏せる。

夜会で浴びた視線。

嘲笑。

囁き。

すべてが脳裏をよぎる。

それでも顔を上げた。

「……一つだけ、譲っていただきたいものがあります」

その声は揺れなかった。

モンフォール公爵は黙ってミレイユを見つめる。

周囲の貴族たちもまた、固唾を呑んでその答えを待っていた。

やがてミレイユは静かに願いを告げる。

その言葉を聞いた瞬間、モンフォール公爵の目がわずかに細められた。

長い沈黙の後、公爵は短く答える。

「……分かった」

それだけだった。

だが、その一言で十分だった。

*

王宮の回廊は静かだった。

先ほどまでの緊張が嘘のように、人影もまばらになっている。

高い窓から差し込む午後の光が、白い石床を柔らかく照らしていた。

アルベルトは壁にもたれながら腕を組んでいる。

その前に立つミレイユの両手には、小さな肖像画があった。

若い頃のエレオノーラ。

穏やかな微笑みを浮かべている。

今のミレイユによく似た瞳。

優しい面差し。

まるで時間だけが止まったような姿だった。

挿絵(By みてみん)

ミレイユは、しばらく何も言わなかった。

ただ静かに見つめる。

指先で、そっと額縁をなぞる。

本当に存在していたのだと。

ここにいたのだと。

そう確かめるように。

アルベルトが口を開く。

「……よかったのか、それで」

アルベルトが問う。

ミレイユは答えず、手元へ視線を落とした。

両手に収まるほどの小さな肖像画。

若き日のエレオノーラが、穏やかに微笑んでいる。

「それだけか」

爵位でも、財産でもない。

アルベルトの問いに、ミレイユはそっと額縁を撫でる。

「……はい」

小さく微笑む。

「これだけで、十分です」

その言葉に、アルベルトはしばらく黙った。

何か言おうとして。

結局やめる。

代わりに視線を逸らした。

「……そうかよ」

短い返事。

だが否定はない。

ミレイユは再び肖像画を見る。

失ったものは戻らない。

母も。

幼い頃の時間も。

取り戻すことはできない。

それでも、残されたものは確かにあった。

母が生きた証。

母が遺した想い。

そして、自分が受け継ぐと決めた名前。

ロシュ・モンフォール。

それは呪いではない。

誰かに押しつけられたものでもない。

今、この瞬間に自分で選んだ名前だった。

窓の外では、春の風が静かに木々を揺らしている。

ミレイユは肖像画を抱いたまま、その光の中へ目を向けた。

長かった過去との決着は、ようやく終わった。

けれど、母から受け継いだものと共に歩く未来は、これから始まるのだった。

*

同時刻。

一台の馬車が街道をひた走っていた。

行き先は国境。

王国と帝国を隔てる境界線だった。

馬車の中で、セラフィーヌは荒く息を吐く。

指先が震えていた。

怒りなのか、不安なのか、それともその両方なのか、自分でも分からない。

(こんなはずじゃなかった)

爪が掌へ食い込む。

(保守派に取り入って、中央へ進出できるはずだった)

(社交界の連中を見返してやれるはずだった)

(全部、うまくいくはずだったのに)

ぎり、と奥歯を噛み締める。

脳裏に浮かぶのは、一人の少女だった。

淡い水色の髪。

真っすぐな瞳。

エレオノーラによく似た顔立ち。

ミレイユ。

その存在を思い浮かべるだけで、胸の奥に黒い感情が湧き上がる。

(あの女の娘さえいなければ)

憎悪が滲む。

(全部、あの子が壊した)

セラフィーヌは自分の人生を振り返る。

貴族ですらない生まれだった。

社交界では見下され、嘲笑われ、端へ追いやられてきた。

だが、アルフォンス・ロシュだけは違った。

いや、違ったのではない。

単純だったのだ。

脚が悪いこと以外、優秀な血筋、優秀な貴族令嬢として育ったエレオノーラへの劣等感。

モンフォール公爵家への引け目。

傷ついた自尊心。

そこへ少し手を差し伸べてやれば、男は驚くほど簡単に傾いた。

少し優しくするだけでいい。

少し持ち上げるだけでいい。

それだけで、アルフォンスは自分の味方になった。

(あの男を落とすのは簡単だった)

愛人となり。

リリアナを産み。

伯爵家の別棟で暮らすようになった。

そしてエレオノーラは病で死んだ。

愚かな慈善活動の果てに。

あの日、ようやく全てを手に入れたと思った。

正妻の座。

ロシュ伯爵夫人という地位。

社交界での立場。

ようやく自分は上へ行けるのだと信じていた。

だが現実は違った。

貴族たちは笑っていた。

『妾上がり』

『愛人がうまく転がり込んだ』

『成り上がり』

表では微笑みながら、裏では嘲り続ける。

その視線は最後まで変わらなかった。

(私もリリアナも、ずっと馬鹿にされた)

怒りが煮え立つ。

リリアナを愛していたわけではない。

あの子は、自分が貴族社会へ食い込むための切り札だった。

ロシュ家の血を持つ娘。

自分が上へ行くための証。

それなのに、そのリリアナまで侮られた。

だから見返したかった。

だから協力した。

王国保守派。

帝国保守派。

石板。

精神干渉。

裏社会の術者たち。

使えるものは何でも使った。

邪魔な貴族を壊し。

王女すら狙った。

そこまでしたのに。

(全部、狂った)

ミレイユ・ロシュ・モンフォール。

あの女の娘が、全てを台無しにした。

馬車が大きく揺れる。

御者の声が外から響いた。

「奥様、国境です」

セラフィーヌは勢いよく顔を上げる。

窓の外には検問所の灯りが見えていた。

その少し先。

街道脇に黒ずくめの人影が立っている。

深くフードを被った男。

顔は見えない。

だが、セラフィーヌは知っていた。

帝国側の連絡役。

何度か接触したことがある男だ。

陰気で不気味な男だった。

馬車が止まる。

セラフィーヌは転がるように外へ飛び出した。

「助けてちょうだい!」

縋るように叫ぶ。

「早く帝国へ!私は協力したでしょう!?これだけ尽くしたのよ!」

男は何も答えない。

ただ静かに近づいてくる。

その姿を見た瞬間、背筋を冷たいものが走った。

「……え?」

違和感を覚えたときには、もう遅かった。

鈍い衝撃が腹部を貫く。

熱い。

何が起きたのか理解できない。

ゆっくりと視線を落とす。

黒い刃が、自分の身体を貫いていた。

「な……」

声にならない。

男は何も言わず刃を引き抜く。

鮮血が飛び散った。

膝が崩れる。

「まっ……」

助けて。

そう言おうとした。

だが、その言葉が形になることはなかった。

二撃目が喉を裂いた。

空気が漏れる。

声が出ない。

地面へ倒れ込む。

泥の冷たさが頬に触れた。

視界が滲む。

遠ざかる意識の中で最後に見えたのは、黒ずくめの男が無感情に自分を見下ろす姿だった。

「……しくじりやがって」

吐き捨てるような声。

そこに怒りも憐れみもない。

男は背後の部下へ視線を向けた。

「死体は見つからないように処分しろ」

「はっ」

短い返答。

セラフィーヌの身体が持ち上げられる。

まるで荷物のように。

ロシュ伯爵夫人だった女を惜しむ者はいない。

名を呼ぶ者もいない。

夜の闇だけが静かに広がり、その姿を飲み込んでいった。

その頃。

王都では、一人の少女が母の肖像画を抱いていたことなど、誰も知らない。

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