第27話:選ばなかった者たち
重厚な家具が並ぶ部屋だった。
王宮内に設けられた貴族用の監禁室。
罪人を収容する牢とは違い、最低限の体面だけは保たれている。
だが、それでも窓には格子が嵌められ、扉の外には衛兵が立っていた。
自由はない。
ここは、処刑の日を待つための部屋だった。
アルフォンス・ロシュは、椅子に腰掛けたまま来訪者を見ていた。
クロウレイ。
かつて王宮魔術師として名を馳せた男。
今は王都を離れ、隠遁しているはずの魔術師だった。
「……会うのは2度目か」
アルフォンスが口を開く。
「こんなところまで来るとは」
クロウレイは特に礼もせず、向かいの椅子へ腰を下ろした。
相変わらず姿勢は崩れている。
だが、その空気だけは妙に場に馴染まない。
処刑を待つ罪人の部屋でさえ、この男はどこか自由だった。
「まあね」
軽い声だった。
「ミレイユのこと、聞いた?」
その名前に、アルフォンスの表情がわずかに揺れる。
「……ああ」
短く返した。
「王宮にいると」
それ以上でも、それ以下でもない。
クロウレイは小さく頷く。
「そっか」
静かな沈黙が落ちた。
長くはない。
だが、妙に重かった。
「じゃあさ」
ふと顔を上げる。
「そこに至るまでの話は?」
アルフォンスは答えない。
知らない。
あるいは、知ろうとしなかった。
どちらなのか、自分でも分かっている。
クロウレイは、その沈黙を肯定として受け取った。
「……まあ、そうだよね」
軽く笑う。
責めるような色はない。
ただ淡々と事実を並べるように続けた。
「僕がミレイユを引き取るまではさ」
少しだけ視線を落とす。
「彼女は、ちゃんと育っていなかった」
その言葉は静かだった。
だが、重かった。
アルフォンスの眉が寄る。
「……どういう意味だ」
「言葉通りだよ」
クロウレイはあっさり答えた。
「教育は途中で止まった」
「食事もまともじゃなかった」
「環境も良くなかった」
感情を乗せずに事実だけを並べる。
だからこそ逃げ場がない。
「……誰が」
アルフォンスが言いかける。
だがクロウレイは首を振った。
「関係ないよ」
穏やかな声だった。
「誰がやったかは問題じゃない」
アルフォンスは口を閉じる。
「誰か一人を責めれば済む話でもない」
クロウレイは続けた。
「でも、誰かが見ていれば止められた」
その言葉に、アルフォンスの指先がわずかに動く。
「君は、その立場にいた」
沈黙。
重い沈黙だった。
「重要なのはさ」
クロウレイは静かに言う。
「君が、何もしなかったこと」
アルフォンスの視線が揺れる。
「……それは」
言葉を探すが、見つからない。
「君は何もしてない」
「見てもいないし、止めてもいない」
「関わってもいない」
ひとつずつ、逃げ道を塞ぐように。
「だから、こうなった」
それだけだった。
断罪ではない。
責めてもいない。
ただ事実を置いただけ。
それが何より重かった。
アルフォンスは何も言えない。
言葉が出てこない。
そんなことは初めてだった。
クロウレイは椅子の背に体重を預ける。
「別にさ」
口調が少しだけ軽くなる。
「責めに来たわけじゃないんだ」
それは本当だった。
「ただ、確認しに来ただけだ」
「何をだ」
ようやく絞り出された問い。
クロウレイは静かに答えた。
「もう、関係ないってこと」
アルフォンスは顔を上げる。
「ミレイはもうロシュ家にはいない」
「ロシュ家に戻る理由もない」
ひとつずつ、丁寧に言葉を積み上げる。
「君のものじゃない」
最後の一言だけが妙に静かだった。
アルフォンスの手がわずかに動く。
何かを掴もうとして、掴めない。
クロウレイは立ち上がった。
「それだけ」
用は終わった。
扉へ向かう。
そして、あと数歩というところで足を止めた。
「……ああ、そうだ」
振り返らないまま言う。
「ミレイユは、ちゃんと生きてたよ」
その声は少しだけ柔らかかった。
「君が知らないところで、笑顔でね」
それだけを残して、クロウレイは部屋を出る。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
アルフォンスは動かなかった。
何も壊されていない。
何も奪われてもいない。
だが胸の奥には、奇妙な空洞だけが残っていた。
初めて理解する。
自分が何をしてこなかったのかを。
そして、それが何を生んだのかを。
ミレイユは戻らない。
もう二度と。
取り返す方法も、やり直す機会も残されていなかった。
*
随分と昔のことだった。
王宮の図書館は、今と変わらず静かだった。
高い天井まで届く書架。磨かれた床に落ちる柔らかな陽光。
紙の匂いと、かすかなインクの香り。
そこは喧騒から切り離された場所だった。
クロウレイは、その一角を好んでいた。
必要な資料を探し、目を通し、用が済めば去る。
ただそれだけの場所。
人と関わることはほとんどない。
視線を交わすことすら稀だった。
だから最初は、ただの風景のひとつだった。
窓際の席。
日差しの届く場所。
そこに、いつも同じ女性がいた。
エレオノーラ。
モンフォール公爵家の末子。
名前くらいは耳に入っている。
美しく、聡明だと。
だが同時に、足が悪いとも聞いていた。
社交界へ姿を見せない理由も、噂としては知っていた。
クロウレイは深く関心を持たなかった。
ただ、視界の端に入ることが増えただけだった。
彼女はよく本を読んでいた。
分厚い書物を静かにめくり、時折何かを書き留める。
その仕草は丁寧で、無駄がない。
誰とも話さず、ただそこにいる。
それだけだった。
ある日。
図書館の一角で、ばさり、と音がした。
本が床へ散る音。
クロウレイは顔を上げる。
視線の先で、エレオノーラが床へ手をついていた。
数冊の本を抱えていたのだろう。
腕から滑り落ちた本が足元へ散らばっている。
周囲には人がいた。
だが、誰も動かない。
視線だけが一瞬向けられ、すぐに逸らされる。
クロウレイはわずかに眉を寄せた。
そして立ち上がる。
なぜ動いたのか、自分でも分からなかった。
「……大丈夫?」
声をかけながら本を拾う。
エレオノーラは驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「ええ……ありがとうございます」
差し出された本を受け取ろうとして、彼女の動きが少しだけ止まる。
立ち上がる動作が遅い。
そのとき初めて気づいた。
足の運び方が不自然だった。
慎重に体重を移すような歩き方。
無理をすれば歩ける。
だが、それは普通ではない。
クロウレイは何も言わなかった。
ただ残りの本を持ったまま、彼女が体勢を整えるのを待った。
「……お手数をおかけしました」
「いや」
短く返す。
それ以上の言葉はない。
その日を境に、二人は少しずつ言葉を交わすようになった。
とはいえ、大したものではない。
顔を合わせれば軽く会釈をする。
時折、挨拶を交わす。
それだけだ。
「今日は、ずいぶん難しそうな本を読んでいるね」
「ええ。少し興味があって……理解できているかは分かりませんけれど」
そんな他愛もない会話。
エレオノーラはよく笑った。
派手ではない。
だが、穏やかで柔らかい笑みだった。
誰かを押しのけることもなく。
誰かを否定することもなく。
ただ静かに笑う。
クロウレイは、自分がその時間を嫌っていないことに気づいていた。
むしろ、図書館へ足を運ぶ回数が増えていることにも。
だが、その理由までは考えなかった。
考える必要もないと思っていた。
*
別の日。
いつもの席に、彼女はいなかった。
代わりに入口の近くに立っていた。
帰る直前らしい。
クロウレイに気づくと、エレオノーラは歩み寄ってくる。
いつも通り、ゆっくりとした足取りで。
「……お話があって」
声は穏やかだった。
だが、どこか決意を含んでいた。
「ロシュ家への輿入りが決まりました」
言葉は簡潔だった。
クロウレイは数秒だけ沈黙した。
「……そうか」
出てきた言葉は、それだけだった。
「ですので……もう、ここへ来ることはありません」
エレオノーラは少しだけ目を伏せる。
「お世話になりました」
丁寧に頭を下げる。
それは別れの挨拶だった。
クロウレイは何も言えない。
何を言えばいいのか分からなかった。
引き止める理由もない。
引き止める資格もない。
だから、ようやく絞り出した。
「……お幸せに」
その言葉を口にした瞬間、自分の声が少し掠れていることに気づく。
けれど、エレオノーラは何も言わなかった。
ただ微笑む。
いつもと変わらない笑顔で。
「ありがとうございます」
静かな返事。
そして彼女は振り返る。
足取りはゆっくりだった。
けれど迷いはない。
その背を、クロウレイは見送った。
見えなくなるまで、ずっと。
やがて姿が消える。
図書館は何も変わらない。
高い天井も。
積み上げられた本も。
窓から差し込む光も。
すべて昨日と同じだった。
それなのに。
何かが決定的に欠けている。
奇妙な空白だけが残る。
その正体が分からないまま、クロウレイはしばらく立ち尽くしていた。
そして、ようやく理解する。
「……ああ」
小さく息を吐く。
あまりにも遅い理解だった。
なぜ彼女を目で追っていたのか。
なぜ会話を楽しみにしていたのか。
なぜ今、こんなにも空虚なのか。
答えは単純だった。
単純すぎるほどに。
だからこそ、どうしようもない。
もう遅い。
何もかも。
「……くだらない」
自嘲が漏れる。
あまりにも遅かった。
気づくには。
理解するには。
彼女がいなくなってからでは、何の意味もなかった。
クロウレイは苦く笑う。
笑うしかなかった。
*
それから間もなくして。
クロウレイはレオニードの執務室を訪れた。
「……王宮魔術師をやめる」
唐突な宣言だった。
レオニードの表情が変わる。
「何を言っている」
低い声。
「理由を聞かせろ」
「ない」
クロウレイは答える。
「全部、ばかばかしくなった」
レオニードは眉をひそめた。
そんな理由で辞める男ではないことを知っている。
だからこそ納得できない。
「お前がそんな人間ではないことくらい分かっている」
鋭い視線が向けられる。
だがクロウレイは逸らさない。
「半分は本当だよ」
少しだけ沈黙する。
そして視線を落とした。
「もう半分は」
「何だ」
レオニードが問う。
クロウレイは静かに答えた。
「ここにいると、見えなくなる」
「何がだ」
「壊れる瞬間」
レオニードは黙る。
クロウレイは続けた。
「遅れるんだよ」
その声には、珍しく感情が滲んでいた。
「全部、あと一歩」
気づけたかもしれない。
手を伸ばせたかもしれない。
だが、遅い。
「だから外に出る」
静かな決意だった。
「今度は、間に合いたい」
レオニードはしばらく何も言わなかった。
そして最後に小さく息を吐く。
「……勝手にしろ」
それ以上は止めなかった。
止める言葉が届かないと分かっていたからか。
あるいは、その理由を理解してしまったからか。
クロウレイは小さく肩をすくめる。
「そうする」
そして王宮を去った。
振り返ることはなかった。
その背に残ったのは空白だった。
だが、その空白は後に一人の少女の手を取ることになる。
そのときのクロウレイは、まだ知る由もなかった。




