第26話:断罪
謁見の間へ向かう前の控えの間。
重い沈黙が流れていた。
窓の外では朝の光が差している。
けれど、その部屋だけは時間が止まったように静かだった。
ミレイユは窓際に立ち、ゆっくりと息を吐く。
遠くに見える王都の景色は、いつもと変わらない。
人々が行き交い、馬車が走り、店が開く。
今日が特別な日だなど、誰も知らないかのようだった。
「緊張してる?」
背後からシルヴァンの声がした。
振り返る。
いつも通りの軽い調子。
けれど、その視線は思っている以上によく人を見ている。
「……いえ」
ミレイユは静かに首を振った。
嘘ではなかった。
胸は落ち着いている。
少なくとも、震えてはいない。
ただ、言葉にできない何かが、胸の奥に沈んでいるだけだった。
緊張とも違う。
恐怖とも違う。
悲しみとも少し違う。
長い旅路の終わりを前にしたような、不思議な感覚だった。
「そうか」
シルヴァンはそれ以上追及しない。
窓枠に寄りかかりながら、小さく肩をすくめた。
その横でアルベルトが腕を組む。
しばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「……会いたくなきゃ、見なくてもいいんだぞ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
優しい言葉ではない。
けれど、その不器用な気遣いは十分伝わる。
ミレイユは少しだけ目を伏せ、それから静かに首を横に振った。
「見届けます」
その声に迷いはなかった。
「私が逃げてはいけないと思うので」
ロシュ家から逃げ出したかった日もあった。
忘れてしまいたかった日もあった。
けれど今は違う。
目を背けたまま終わらせたくはなかった。
アルベルトは何も言わない。
ただ、小さく鼻を鳴らした。
それが彼なりの肯定だった。
そのとき。
「逃げなかったから、今ここにいる」
静かな声が響いた。
リディアだった。
壁際に立ったまま、真っ直ぐミレイユを見ている。
「お前はあの家から逃げたのではない」
淡々とした口調。
けれど、その言葉には確かな重みがあった。
「生きるために、自ら道を選んだ」
ミレイユの瞳がわずかに揺れる。
十歳の秋。
差し出された手。
自分で頷いたあの日。
あれは確かに、自分で選んだ最初の一歩だった。
「だから胸を張れ」
リディアは短く言う。
「今日ここに立っているのは、お前自身の力だ」
不器用な励ましだった。
だが、それはリディアなりの最大限の言葉だった。
ミレイユはゆっくりと息を吐く。
胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ軽くなる。
「……ありがとうございます」
小さく微笑む。
それを見たシルヴァンが、ふっと笑った。
「珍しいねぇ、リディア嬢がそんなに喋るなんて」
「うるさい」
即答だった。
だが、その声はいつもより少しだけ柔らかかった。
アルベルトが思わず吹き出す。
「ははっ」
短い笑い声。
ほんの一瞬だけ、重苦しかった空気が和らぐ。
そして、控えの間の扉が開いた。
衛兵が一礼する。
「お時間です」
静寂が戻る。
誰も動かない。
ほんの数秒。
それぞれが最後の呼吸を整える。
やがてレオニードが立ち上がった。
鋭い視線が一同を見渡す。
そして静かに告げる。
「――さあ、行くぞ」
その一言とともに、彼らは謁見の間へ向かって歩き出した。
*
王宮の謁見の間には、重苦しい空気が満ちていた。
高い天井の下、先進派と保守派を問わず、王国の有力貴族たちが一堂に会している。
普段であれば互いを牽制する視線や思惑が交錯する場だが、今日ばかりは違った。
誰もが同じ方向を見ていた。
ロシュ伯爵家への裁定。
王女への精神干渉。
国家反逆。
それらが公の場で読み上げられることを、ここにいる全員が知っている。
だからこそ、囁き声は小さい。
「本当にロシュ家だけだったのか」
「王女殿下への精神干渉だぞ」
「だが、あの家にそこまでの力があるか……?」
言葉は途中で消える。
続きを口にする者はいない。
誰もが気づいている。
ロシュ家だけで成し遂げられる話ではないことに。
だが、その先の名を口にする者もまたいなかった。
保守派の筆頭。
モンフォール公爵家。
その存在は大きすぎた。
列の後方で、そのざわめきを聞きながらミレイユは静かに立っていた。
不思議なほど心は静かだった。
怒りもない。
復讐心もない。
ただ、長く続いた何かが終わろうとしていることだけは分かる。
やがて謁見の間の扉が開いた。
全員の視線が一斉に前方へ集まる。
そこにいたのは二人。
アルフォンス・ロシュ。
リリアナ・ロシュ。
セラフィーヌの姿だけが空いていた。
「……後妻がいないな」
アルベルトが眉をひそめる。
「逃げたね」
シルヴァンが肩をすくめた。
「首尾のいいことだ」
「ああいう人はどこかで図太く生き残るんじゃない?」
軽い口調だったが、その目はまったく笑っていない。
リディアが低く呟く。
「娘まで置いていくのか」
その声には微かな嫌悪が滲んでいた。
「母とは、そういうものなのだろうか」
シルヴァンは一瞬だけ彼女を見たが、何も言わなかった。
前方へ進み出たレオニードが静かに口を開く。
「ロシュ伯爵家当主、アルフォンス・ロシュ」
「次女、リリアナ・ロシュ」
「並びに妻セラフィーヌ・ロシュ」
名が読み上げられるたびに、場の空気が重く沈んでいく。
「王女殿下への精神干渉」
「国家反逆行為への加担」
「違法魔術研究」
「違法術具の運用」
一つずつ罪状が告げられる。
誰も反論しない。
誰も擁護しない。
地下室から発見された記録はあまりにも明白だった。
石板を用いた精神干渉実験。
王女への攻撃。
犠牲となった術者たち。
すべてが記録として残されていた。
「以上により」
レオニードの声が響く。
「ロシュ伯爵家を国家反逆罪として裁定する」
謁見の間にざわめきが広がった。
だが、それもすぐに消える。
誰もが予想していた結末だった。
「ロシュ伯爵家は取り潰し」
「領地および財産は王国へ帰属する」
「アルフォンス・ロシュ、セラフィーヌ・ロシュ、リリアナ・ロシュの身柄は王国の管理下に置く」
淡々と告げられる宣告。
そのたびに、一つの家が崩れていく。
その時だった。
「違う!!」
アルフォンスが叫んだ。
「私は知らん!!」
場の空気が揺れる。
「地下室など知らなかった!」
「妻が勝手にやったことだ!」
「私は関係ない!!」
必死だった。
顔色は青白く、額には汗が浮かんでいる。
伯爵としての威厳など、もうどこにも残っていない。
レオニードは静かに彼を見つめた。
「知らなかったと?」
「そうだ!」
アルフォンスは縋るように言う。
「私は伯爵だぞ!屋敷の隅々まで把握しているわけでは――」
「王女殿下を害する術が」
レオニードが遮った。
「お前の屋敷で研究され」
「お前の屋敷で運用され」
「お前の屋敷から実行された」
静かな声だった。
だが、その一言一言が逃げ場を塞いでいく。
「知らなかったのであれば」
視線が鋭く細められる。
「それもまた当主の責任だ」
アルフォンスの顔から血の気が引いた。
言い返せない。
地下室を知らなかったとしても。
見ようとしなかったこともまた罪だった。
衛兵が腕を掴む。
「待て!」
「聞いてくれ!」
「私は――」
叫び声は途中で途切れた。
そのまま引きずられるように連行されていく。
かつてロシュ家を率いていた男の最後は、あまりにも惨めだった。
ミレイユはその背中を見ていた。
父。
そう呼ぶべき男。
けれど胸は痛まない。
悲しくもない。
ただ、もし母が生きていたなら。
もしあの頃、病が流行らなかったなら。
もし父が母を選んでいたなら。
そんな「もし」が浮かんでは消えていく。
もう答えのない問いだった。
そのとき、ミレイユの視線は自然ともう一人のロシュ家の人間へ向かった。
そこにいたリリアナは、父とは対照的に微動だにしていなかった。
取り乱さない。
泣きもしない。
叫び声を上げることもない。
ただ静かに背筋を伸ばし、ゆっくりと一歩前へ出ると、貴族令嬢として完璧な一礼を見せる。
流れるような所作だった。
誰が見ても美しい礼。
長年かけて磨き上げてきた教養と社交術の結晶とも言える動きだった。
それは、おそらく彼女に残された最後の矜持だったのだろう。
無数の視線が降り注ぐ。
嘲り。
侮蔑。
好奇。
同情。
様々な感情が入り混じった視線を浴びながらも、リリアナの表情は崩れない。
唇に浮かべた微笑みさえ乱れなかった。
まるで最後の最後まで、自分だけは貴族であり続けると誓うかのように。
やがて彼女が顔を上げる。
その瞬間、ミレイユと視線が重なった。
ほんの一瞬だった。
だが、そのわずかな時間の中で、リリアナの唇がかすかに動く。
声は聞こえない。
けれど。
――完敗ですわ。
そう言ったように見えた。
次の瞬間には何事もなかったかのように視線が逸らされる。
その微笑みに気づいた者はいない。
ミレイユを除いて。
「……リリアナ」
小さく名を呼ぶ。
届かない。
届くはずもない。
異母妹。
最後まで分かり合えなかった存在。
それでも、もし違う出会い方をしていたならと思わずにはいられない相手だった。
だが、その距離が埋まることはもうない。
リリアナは衛兵に促されるまま歩き出し、一度も振り返ることなく謁見の間を後にした。
その背中を見送りながら、ミレイユは静かに理解する。
おそらく、自分たちはもう二度と会うことはないのだと。
*
数日後。
ロシュ家への最終裁定が正式に下された。
アルフォンス・ロシュ。
セラフィーヌ・ロシュ。
両名に絞首刑。
財産は没収。
ロシュ伯爵家は完全に消滅する。
そしてリリアナ・ロシュには終身の修道院入りが命じられた。
社交界への復帰は認められない。
結婚も許されない。
名誉も地位も未来も失い、一生を神へ仕えることで贖う。
それが彼女に与えられた罰だった。
その報告を聞いたのは王宮魔術師棟の執務室だった。
誰もすぐには口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのはアルベルトだった。
「……終わったな」
低い声だった。
だが、どこか割り切れない響きが残っている。
シルヴァンが椅子にもたれたまま肩をすくめる。
「終わったのはロシュ家だけだよ」
軽い口調だったが、その目は鋭かった。
「黒幕は残ってる」
誰も否定しない。
モンフォール公爵家。
証拠はない。
だが、誰もが同じ場所へ辿り着いていた。
「ロシュ家は切り捨てられたんだろうね」
シルヴァンが続ける。
「保守派の筆頭を守るために」
「証拠がない」
レオニードが言う。
「だから逃げられたんでしょう」
シルヴァンは肩をすくめた。
「証拠が残るような連中なら、とっくに捕まってる」
重い沈黙が落ちる。
ミレイユは窓の外を見ていた。
空は高い。
雲がゆっくり流れている。
父は処刑される。
義母も処刑される。
リリアナも社交界から消える。
それなのに、達成感はない。
復讐を果たしたという感覚もない。
残っているのは、ひどく曖昧な喪失感だけだった。
「……さようなら」
ぽつりと零れた声は、誰へ向けたものだったのだろう。
父か。
義母か。
リリアナか。
それとも。
ロシュ家で生きていた幼い日の自分自身か。
答えは分からない。
ただ、その言葉と共に長く胸の奥に残っていた何かが、少しだけ遠ざかっていく気がした。
レオニードはそんなミレイユを一瞥したが、何も言わなかった。
リディアも。
アルベルトも。
シルヴァンも。
誰も何も言わない。
それが今は一番正しい気がした。
窓の外では鐘の音が鳴っている。
王都はいつも通り動いていた。
ロシュ家が滅びても。
誰かが死んでも。
世界は止まらない。
だからこそ、この事件もいずれ歴史の一行として語られるのだろう。
だが、王女を狙った手は完全には断ち切られておらず、保守派と先進派の対立も終わったわけではない。
穏やかに見える王都の空の下には、まだ火種が残り続けている。
それでも今だけは、誰もその話をしなかった。
ロシュ家という一つの家の終焉を、それぞれが静かに見送っていたのである。




