第25話:石に刻まれたもの
ロシュ伯爵家の門前には、早朝から王宮の衛兵たちが集結していた。
重厚な鉄門の前に整列した兵たちの槍先が朝日に鈍く光る。
静かなはずの朝の空気だけが、その場所を避けるように張り詰めている。
「国家反逆罪の疑いにより、邸内を捜索する」
先頭に立つ衛兵の宣告が響いた。
門の内側から現れたアルフォンスの顔色は悪かったが、それでも伯爵としての威厳だけは保とうとしている。
「濡れ衣だ!勝手に入るな!」
怒声が飛ぶ。
しかし衛兵たちは動じない。
次の瞬間、重い音を立てて門が開かれ、兵士たちが一斉に屋敷へ踏み込んでいった。
「やめろと言っている!」
アルフォンスが叫ぶ。
それでも誰一人として足を止めない。
レオニードはただ一度だけ伯爵へ視線を向けた。
その眼差しに、アルフォンスはわずかに言葉を詰まらせる。
何かを言い返そうとして――結局、口を閉じた。
屋敷の中は整えられていた。
だが、その整然さはどこか不自然だった。
使用人たちは皆うつむき、誰も目を合わせようとしない。
その表情には怯えが浮かび、何かを知っている者特有の緊張が滲んでいる。
「各所を捜索しろ。地下、隠し部屋、書庫も含めて全てだ」
レオニードが命じる。
兵たちは散り、扉が開かれ、机が調べられ、書棚の裏が叩かれていく。
しばらくして、一人の衛兵が駆け戻ってきた。
「報告します。伯爵夫人の姿が見当たりません」
レオニードの眉がわずかに動く。
「……逃げたか」
低く呟く。
その言葉に、アルフォンスが反応した。
「待て……セラフィーヌがいないだと?」
その声には隠しきれない動揺が滲んでいた。
少なくともレオニードには、演技をしているようには見えない。
シルヴァンが横目で眺める。
「知らなかったの?」
軽い口調だったが、その目は笑っていなかった。
アルフォンスは顔色を変える。
「何の話だ……!」
本気で分かっていない顔だった。
レオニードは何も言わない。
ただ、その反応を記憶するように見つめていた。
「他に部屋はないのか」
短く問う。
執事はためらった後、小さく頭を下げた。
「……ひとつだけ」
そう言って案内されたのは、本邸の端にある古い部屋だった。
使われなくなって久しいのだろう。
扉には薄く埃が積もっている。
「こちらは、ミレイユお嬢様がお屋敷を出られるまで使われていた部屋です」
執事は申し訳なさそうに目を伏せた。
「何も出てこないとは思いますが……」
扉が開く。
誰も言葉を発しなかった。
部屋は狭かった。
伯爵令嬢の私室とは思えないほどに。
粗末な寝台。
小さな机。
椅子が一脚。
それだけだった。
壁を飾る絵もない。
花もない。
本棚もない。
衣装棚ですら、まともなものは見当たらない。
生活の痕跡はある。
だが、それは伯爵家の令嬢のものではなく、使用人の部屋に近かった。
アルベルトの眉間に深い皺が刻まれる。
「……これが?」
シルヴァンの思わず漏れた声に、誰も答えない。
机の上に残されていたのは、古びた便箋が数枚だけだった。
誰かへ送られた形跡はない。
途中まで書いては消された文字が残っている。
レオニードは静かに部屋を見回した。
余計な感想は口にしない。
だが、一つだけ理解した。
(……だからクロウレイに引き取られたのか)
クロウレイは多くを語らなかった。
だが、あの男が他家の娘を引き取るなど、本来ならあり得ない。
それでも手を伸ばした理由が、ようやく分かった気がした。
レオニードは小さく息を吐く。
「次へ行くぞ」
短く告げる。
その声だけが、わずかに低かった。
*
やがて屋敷の奥から別の報告が届く。
「こちらです」
衛兵が案内した先は、使用人ですら滅多に近寄らない区画だった。
壁際に隠れるように設けられた目立たない扉。
それを開くと、地下へ続く石階段が現れた。
冷たい空気が流れ出す。
湿った石の匂いが鼻を刺し、足音だけがやけに大きく反響する。
レオニードとシルヴァンは無言のまま階段を降りていった。
その先にあった地下室は決して広くなかった。
しかし、長い年月にわたって使われ続けていたことだけは一目で分かった。
空気には人の気配が染みつき、壁際の棚や中央の机にも生活空間とは異なる用途を感じさせる。
石床には不自然な擦れ跡が無数に残されていた。
同じ場所に何度も人が立っていたような痕跡。
焦げたような黒い染みも点々と残っている。
「……随分と使われていたみたいだね」
シルヴァンが静かに呟いた。
机の上には石板が置かれていた。
一見すれば何の変哲もない石だ。
だが近づくと、微かな魔力の残滓が感じられる。
「レオニード様」
同行していた魔術師が石板へ手をかざした。
「糸の先はこれにつながっています」
「確定か」
レオニードが短く言う。
さらに地下室を調べると、机の引き出しの奥から大量の書類が発見された。
束ねられた記録。
日付。
対象。
結果。
そこに書かれている文章には一切の感情がなかった。
人の生死を扱っているはずなのに、記されているのは結果だけ。
まるで家畜の飼育記録か実験報告書を読まされているようだった。
レオニードが最初の一枚を開く。
その表情がゆっくりと険しくなった。
『◯月◯日、五名に干渉』
『現場で騎士一名に干渉するも、反射』
『襲撃後、四名は現場で死亡』
『残る一名は予定通り自害』
『術者死亡、干渉力の増強を確認』
空気が冷える。
人が人として扱われていない。
ただの数字だった。
レオニードは無言で頁をめくる。
『◯月◯日、実験的に一点へ集中して始動』
『術者二名は干渉を返され死亡、効果はあり』
ぴたりと指が止まった。
「……殿下への干渉があった日か』
さらに頁をめくる。
『◯月◯日、石板を王宮にて使用』
『効果を認めるが、またしても干渉を返される
『術者二名死亡』
静まり返る。
「……夜会の日だな」
そして最後の頁。
そこには、これまでとは違う記述があった。
『◯月◯日、ロシュ家次女の独断により魔術師三名を用いて射出』
『反撃され、術者死亡』
『干渉時に精神付与していたロシュ家次女、意識不明』
地下室に重苦しい沈黙が広がった。
誰もすぐには言葉を発せず、その記録が意味するものだけが静かに場を支配する。
「知らん!」
アルフォンスが叫んだ。
「私はそんなもの知らん!」
必死だった。
だが、それは言い逃れというより本気の混乱に近い。
「セラフィーヌだ……!」
顔色を失ったまま叫ぶ。
「こんなもの、あいつが勝手に……!」
レオニードは黙って伯爵を見ていた。
年老いた執事が震える声で言った。
「旦那様は……その地下室についてはご存じありませんでした」
愚かな主へ、僅かに残った忠誠心が言わせているのか。
「奥様……セラフィーヌ様が、ときどき出入りしていたようですが……」
視線が落ちる。
「我々には、立ち入らないよう命じられておりました」
レオニードは黙って聞いていた。
嘘をついているようには見えない。
少なくとも、この男が知る範囲では事実なのだろう。
やがて一人の衛兵が地下へ駆け込んでくる。
「報告します!」
「何だ」
「ロシュ家次女、リリアナ・ロシュが、先ほど意識を回復したとのことです」
室内の空気がわずかに変わった。
シルヴァンが小さく息を吐く。
「へえ」
「生きていたか」
レオニードの声は変わらない。
だが、その報告は大きかった。
事情を知る生存者が現れたのだ。
「連れて行け」
短い命令が下る。
衛兵たちが動く。
「伯爵夫人の行方を追え」
「次女は監視下に置け。事情聴取は後で行う」
ロシュ家という屋敷が、音を立てて崩れていくようだった。
*
石板は厳重な警備のもと王宮へ運び込まれた。
人払いされた部屋の中央。
机の上に置かれた石板を囲むように、レオニードたちが立っている。
何も起こらない。
ただそこにあるだけ。
それなのに、誰も近づきたいとは思わなかった。
「で、この石板が怪しい、と」
シルヴァンが軽く言う。
だが、その目は笑っていない。
「大丈夫なのか?こんなもの持って帰ってきて」
アルベルトが眉をひそめる。
「絶対に殿下へ近づけるな」
リディアの声は冷たい。
「狂い死ぬならお前たちだけでいい」
「ひど」
シルヴァンが肩をすくめた。
ミレイユは机の上に置かれた石板をじっと見つめていた。
見た目はただの石にしか見えない。
だが、その奥には何かが沈んでいるような違和感がある。
「……これ自体に危険なものは感じません」
静かに言う。
違和感があった。
空虚なのだ。
何もない。
だからこそ不気味だった。
「何かわかるか」
レオニードが問う。
ミレイユは一瞬だけ目を伏せる。
他人の内側へ触れることへの恐れは、まだ完全には消えていない。
そのとき、ふとクロウレイの声が蘇った。
――閉じる。
――境界を作る。
ミレイユはゆっくりと息を整える。
そして顔を上げた。
「……試してみます」
そう告げると、石板へ手を伸ばした。
冷たい感触。
その瞬間、不意に意識がどこか遠くへ引かれた。
身体はここにあるはずなのに、感覚だけが細い糸を辿るように遠くへ伸びていく。
思わず眉を寄せる。
(……何?)
記録を読むときの感覚とは違う。
石板の向こうに、何かがある。
そんな奇妙な確信が胸をよぎった。
しかも、それはただ漠然と存在を感じるだけではなかった。
どこか遠く。
王都の外。
さらに先。
正確な距離も場所も分からない。
それなのに、不思議なことに“方向”だけは分かる気がした。
まるで見えない糸の先を指し示されているように。
だが、その感覚を掴もうとした瞬間、視界が揺れた。
無数の断片が流れ込んでくる。
顔。
声。
感情。
それらが秩序なく重なり合い、誰かが石板へ手を伸ばす光景が浮かび上がった。
緊張と恐怖、そして高揚にも似た興奮。
様々な感情が入り混じり、ひとつの濁流となって押し寄せてくる。
景色が切り替わる。
そこにいたのは見知らぬ男だった。
額に汗を浮かべながら石板へ魔力を流し込み、その先にいる遠く離れた誰かへ精神干渉を伸ばしている。
だが次の瞬間、激しい反発が返ってきた。
衝撃。
悲鳴。
男の身体が大きく揺れ、そのまま床へ崩れ落ちる。
視界はそこで終わらない。
別の術者。
また別の術者。
石板を手にした者たちが次々と現れ、同じように干渉を試みては、同じように反動を受けて倒れていく。
その光景は途切れることなく繰り返され、まるで石板そのものが積み重ねてきた記録を見せつけているようだった。
「……っ」
ミレイユの呼吸が乱れた。
これは記録だ。
石板を介して行われた干渉の痕跡。
その中に、見覚えのある金髪が映り込んだ。
術者の肩に手を置く少女――リリアナだった。
追い詰められたような表情で何かを訴えるその姿は、夜会で見た彼女とはまるで別人のように見える。
「……リリアナ……」
思わず声が漏れた。
少女の感情が流れ込んでくる。
嫉妬や焦り、拭いきれない劣等感。
認められたいという痛いほどの渇望。
そのどれもがあまりに強く、あまりに切実だった。
感情は術者へ流れ込み、そのまま精神干渉へと混ぜ込まれていく。
刃となって放たれたのは、悪意だけではない。
報われなかった願いもまた、そこに含まれていた。
だが、その代償は大きかった。
激しい反動が術者を襲い、男はその場へ崩れ落ちる。
続いてリリアナの身体も力を失ったように傾き、そのまま床へ倒れ込んだ。
そこで映像は途切れた。
ミレイユははっと我に返り、石板から手を離す。
胸が苦しい。
息が浅い。
指先は小さく震えていた。
「ミレイユ」
アルベルトが声をかける。
ミレイユは数度呼吸を整え、それからゆっくりと顔を上げた。
「……使用者の記録です」
静かな声だった。
「この石板を使って干渉した人たちの痕跡が残っています」
レオニードが目を細める。
「何が分かった」
「術者は複数います」
ミレイユは答えた。
「そして最後の干渉には……リリアナの感情が利用されていました」
沈黙が落ちる。
「利用された?」
アルベルトが眉をひそめる。
「あるいは、自分から乗せたのかもしれません」
ミレイユは首を振った。
そこまでは断定できない。
ただ。
「あの感情は確かにありました」
嫉妬。
焦燥。
劣等感。
あまりにも強い感情だった。
シルヴァンが腕を組む。
「他には?」
ミレイユは再び石板を見る。
「……この石板自体が精神干渉を行っているわけではありません」
慎重に言葉を選ぶ。
「ですが、干渉を強くする効果があるように感じます」
「増幅か」
レオニードが呟く。
「はい」
ミレイユは頷いた。
「通常なら届かない距離にも干渉できるような……そんな感覚です」
部屋の空気が重くなる。
それだけでも十分に危険だった。
ミレイユは石板から視線を離さない。
胸の奥の違和感は、まだ消えていなかった。
これだけで終わりではない。
石の中には、まだ何かが眠っているような気がしてならなかった。




