第24話:侵される境界
エリシア王女への精神干渉攻撃があった夜会から数日後。
王宮は、何事もなかったかのように朝を迎えていた。
磨き上げられた床、規則正しく行き交う侍従、整えられた空気。
だが、その静けさの奥に、微かな歪みが混じっている。
ミレイユが、レオニードの執務室で書類整理をしていたとき。
――ざわり。
皮膚の内側を撫でるような、不快な気配。
音ではない。
匂いでもない。
けれど確かに“触れてくる”。
呼吸が、ひとつ遅れる。
「……来ました」
自分でも分かるほど、声がかすれた。
レオニードが振り返る。
視線が、鋭く収束する。
「干渉か、行き先は」
短い問い。
逃げ場のない精度。
ミレイユは、胸元を押さえた。
内側から、何かが押し広げられる。
「……私、です……攻撃を受けています」
空気が、一瞬で張り詰める。
「おいおいおい……」
シルヴァンが低く息を吐く。
軽口の調子は消え、観測者の目だけが残る。
「敵も、なりふり構ってられなくなってきたか」
リディアの眼差しが、氷のように細くなる。
「ミレイユに干渉攻撃を仕掛けるとは……命知らずだな」
アルベルトが歯を食いしばる。
「反動を食らっても構わないのか?死ぬかもしれないんだろ?」
「そういうことだろうね」
シルヴァンは淡々と応じる。
「術者も、使い捨て」
「……反吐が出るな」
吐き捨てる声。
そのやり取りの間にも、ミレイユの内側は侵されていく。
冷たい。
重い。
粘りつく。
――ただの干渉じゃない。
境界に、爪が立つ。
こじ開けられる。
思考に、微細なノイズが走る。
会話の意味が一瞬だけ遠のき、戻る。
(……深い……)
このまま立っていれば、崩れる。
分かっている。
「ミレイユ、しっかりしろ」
リディアの声が近い。だが距離感が曖昧になる。
視界の端が、わずかに暗む。
「……ちょっと……失礼、しますね……」
礼を言う癖だけが残っている。
次の瞬間。
力が、抜けた。
「おい!!」
アルベルトの声。
腕が伸び、崩れ落ちる身体を受け止める。
だが、ミレイユの意識は――もうそこにはない。
*
――暗い。
何もないようでいて、濃密な何かに満たされている。
黒い靄が空間そのものを侵食するように広がり、その奥から粘つく悪意が滲み出していた。
触れる前から分かる。
重く、冷たい。
そして何より――強い。
(……強い悪意……)
それは刃物のような殺意ではなかった。
もっと生々しく、もっと人間的な感情。
胸の奥に沈殿し続けたものが腐り、濁り、形を得たような感覚だった。
そして、その正体を理解した瞬間、ミレイユは息を呑む。
(……嫉妬……?)
その認識と同時に、黒が裂けた。
一直線に走る黒い刃。
迷いも躊躇いもなく、喉元へと迫る。
(……っ!)
反射的に身をひねる。
避けた。
だが完全ではない。
刃は頬を掠め、意識の一部を削り取るように通り過ぎた。
焼けるような痛み。
精神を直接切り裂かれる感覚に、思わず顔をしかめる。
(まさか……)
この気配には覚えがあった。
忘れるはずがない。
(……リリアナ?)
その瞬間だけ、防御が遅れた。
ほんのわずかな躊躇い。
それだけで十分だった。
黒は隙間を見つけると、一気に境界へと食い込んでくる。
冷たい泥が流れ込むように。
粘つく感情が心の奥へと侵入してくる。
(どうして……?)
問いが浮かぶ。
理解できなかった。
(どうして、あなたが……私に嫉妬するの?)
記憶が押し寄せる。
家庭教師。
乳母。
優しかった使用人たち。
母との時間。
居場所。
未来。
失われたものばかりが浮かんでは消える。
(私から全てを奪っていったのは……あなたたちでしょう……?)
問いは誰にも届かず、答えも返ってこない。
その代わりに、別の感情が流れ込んできた。
(勝てない……)
かすれた声。
けれど、確かな意思を持った感情。
(何ひとつ……勝てない……)
ミレイユの身体が強張る。
これは自分の感情ではない。
だが、他人のものとも思えないほど鮮明だった。
(……リリアナ……)
黒が揺れる。
その奥から感情が溢れてくる。
(学も、歌も、ダンスも、品格も……)
苦しそうな声。
押し殺し続けたものが、堰を切ったように流れ出す。
(どれだけ努力しても……勝てない……)
胸が痛む。
刃で傷つけられるよりもずっと痛い。
(所詮、血で決まるというの……?)
歪んだ問い。
(いいえ……そんなことはない……私だって……)
抗おうとする声。
けれど。
(でも……)
沈んでいく。
(いくら自分を磨いても……蔑まれる……)
社交界で浴びせられてきた視線。
囁き。
嘲笑。
侮蔑。
その全てが押し寄せてくる。
(悔しい……)
(悲しい……)
(苦しい……)
感情の奔流だった。
ミレイユは思わず息を呑む。
リリアナが抱えていたものを、初めて知った気がした。
半分だけ平民の血を引く者として向けられてきた差別。
どれほど努力しても消えない壁。
認められたいのに認められない苦しみ。
それらが容赦なく流れ込んでくる。
そして、その苦しさを理解してしまった瞬間、ミレイユの中で何かが揺らいだ。
自分ではない、分かっている。
それでも、その感情があまりにも鮮明で、あまりにも切実だった。
まるで自分自身の痛みであるかのように感じてしまう。
理解できる。
分かってしまう。
だからこそ拒みきれない。
境界が曖昧になる。
自分と他人を隔てていた線が、ゆっくりと滲んでいく。
黒はその隙を見逃さなかった。
さらに深く入り込もうとする。
(シルヴァン様の関心も……)
期待が砕ける。
(結局はミレイユが全部持っていく)
地位。
立場。
称賛。
未来。
何もかも。
(もう迷わない)
感情が固まる。
嫉妬が憎悪へ変わる。
(ミレイユを潰す)
「だめ……!」
気づけば叫んでいた。
「リリアナ、やめて……!」
手を伸ばす。
だが届かない。
黒はなおも広がり続ける。
そして、その苦しみを理解してしまったからこそ、ミレイユは完全に拒絶することができなかった。
そのときだった。
――“触れる”のと“入り込む”のは違う。
懐かしい声が響く。
クロウレイ。
遠い日の記憶。
庭での訓練。
初めて魔力に触れた日。
――力は強さじゃない。
――止まれるかどうかだ。
ミレイユは、はっと目を見開いた。
「……違う」
小さく呟く。
押し寄せる感情を見つめる。
リリアナの苦しみは本物だ。
悲しみも悔しさも偽物ではない。
けれど。
それは自分の感情ではない。
自分が背負うべきものでもない。
「これは……私じゃない」
静かに線を引く。
震えながら。
傷つきながら。
それでも確かに。
「あなたの苦しみを消すことはできません」
黒を見つめる。
「でも……あなたの代わりに背負うこともできません」
境界が閉じる。
曖昧になっていた線が、再びはっきりと輪郭を取り戻していく。
黒が軋んだ。
侵食が止まる。
そして最後には、拒絶ではなく、静かな断絶としてその感情を押し返した。
「――ここまでです」
その瞬間、黒が砕け散る。
空間そのものがひび割れ、崩壊していく。
激しい反動が奔り、ミレイユの意識は一気に浮上した。
――光。
閉ざされていた意識が、一気に浮上する。
肺が空気を求めるように震え、ミレイユは激しく息を吸い込んだ。
「はっ……!」
視界が揺れる。
輪郭が滲む。
何が現実で、何が精神世界の残滓なのか、一瞬だけ判別できない。
「大丈夫か!?」
すぐ近くから聞こえる声。
アルベルトだった。
気づけば、その腕に支えられている。
倒れた身体を抱き起こされていた。
呼吸がうまく整わない。
胸が苦しい。
精神世界で受けた傷が、そのまま身体にも残っているような感覚だった。
「ミレイユ」
レオニードの低い声が落ちる。
「何が見えた」
問いは短い。
だが、その声には焦りを押し殺した緊張が滲んでいた。
ミレイユは何とか息を整えようとする。
けれど上手くいかない。
喉の奥が震える。
胸の奥が痛い。
そして――
涙が零れた。
自分でも気づかないうちに。
ぽろりと、頬を伝って落ちる。
「……リリアナが……」
掠れた声。
「リリアナが……!」
それ以上が続かない。
涙だけが溢れてくる。
止めようとしても止まらない。
精神世界で流れ込んできたリリアナの感情が、まだ胸の中に残っていた。
あまりにも生々しくて、自分のものではないと分かっていても振り払えない。
「ミレイユの妹か?」
アルベルトが眉をひそめる。
低い声だった。
レオニードもわずかに眉根を寄せる。
「ロシュ家の次女に魔術の素養があるなど聞いたことがない」
その指摘はもっともだった。
ロシュ家で魔術師として名が挙がる者はいない。
少なくとも王宮が把握している情報の中には存在しない。
ミレイユは苦しげに首を振った。
呼吸が乱れ、言葉が途切れる。
それでも必死に声を絞り出す。
「……リリアナでは……ありません……」
「何?」
アルベルトが顔をしかめる。
「リリアナ本人が術者ではありません……」
息を整えながら続ける。
「リリアナの意思が……精神干渉に乗せられていました……」
室内が静まり返る。
「嫉妬と……憎しみと……悲しみが……」
胸が痛む。
思い出すだけで苦しい。
「利用されたんです……」
自分に言い聞かせるように呟く。
「リリアナは……感情を利用されただけです……きっと……」
そうであってほしかった。
そうでなければ、自分は何を信じればいいのか分からない。
「……そうでなければ、私は……」
言葉が途切れる。
俯く。
沈黙が落ちた。
その静寂を破ったのはシルヴァンだった。
「逆じゃない?」
いつもの軽さはない。
冷静な分析だけが残った声。
「リリアナ嬢が利用されたんじゃなくて、利用したんだと思うよ」
ミレイユが顔を上げる。
「そんな……」
「感情だけがそこまで綺麗に乗るとは思えない」
シルヴァンは淡々と続ける。
「誰かが彼女の感情を使った可能性はある」
「でも少なくとも、本人の意思がまったく無関係だったとは考えにくいかな」
「シルヴァン」
アルベルトが低く制した。
「今は言うな」
シルヴァンは肩をすくめる。
だが反論はしなかった。
そのときだった。
廊下から慌ただしい足音が近づいてくる。
扉が叩かれる。
「失礼します!」
返事を待たずに入ってきたのは、魔術師団の解析担当だった。
息が上がっている。
明らかに全力で走ってきたのだろう。
「……緊急のご報告です」
空気が変わる。
レオニードの視線が鋭く向けられる。
「何だ」
短い問い。
だが、それだけで室内の温度が下がったように感じられた。
魔術師は一瞬だけ、躊躇うように言葉を飲み込む。
それでも覚悟を決めたように報告した。
「先日の精神干渉攻撃の際、ミレイユ殿が付与した『糸』の解析が完了しました」
誰も動かない。
「行き先が判明しました」
ミレイユの心臓が跳ねる。
嫌な予感がした。
「どこだ」
レオニードが問う。
魔術師は唾を飲み込んだ。
「……ロシュ家です」
沈黙。
その一言が落ちた瞬間、時間が止まったようだった。
ミレイユの呼吸が止まる。
頭の中で反響する。
ロシュ家。
ロシュ家。
ロシュ家。
理解が遅れてやってくる。
胸の奥へ重く沈む。
逃げ場のない現実として。
「……そうか」
最初に口を開いたのはシルヴァンだった。
声は低い。
いつもの笑みもない。
「確定だね」
誰も否定しない。
できなかった。
リディアの気配が変わる。
静かな殺気。
普段の彼女を知る者ほど分かる。
今のリディアは、本気で怒っている。
「殿下に刃を向けた上に……」
声は静かだった。
静かすぎるほどに。
「ミレイユにまで手を出したか」
その言葉に込められた怒りは、むしろ叫び声よりも恐ろしかった。
アルベルトは拳を握る。
関節が白くなるほど強く。
「……あいつら」
短く吐き捨てる。
それ以上は言わなかった。
言えば感情が溢れそうだった。
ミレイユは俯いたまま動けない。
レオニードだけが動じない。
いや、動じていても表に出さない。
彼は静かに立ち上がった。
判断は一瞬だった。
迷いはない。
「ロシュ家を抑えろ」
低く、鋭く命令が下る。
「すぐに」
その一言で、室内の全員が動き出した。




