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選択の魔女  作者: めいあん
第一章:王宮魔術師編
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第23話:目覚め

街の大通りは今日も賑わっている。

石畳の上を行き交う人々。

道端には露店が並び、客を呼ぶ声が飛び交う。

荷馬車の車輪が軋み、子どもたちが駆け回る。

活気のある光景だった。

だが、長く隠されていたミレイユにとっては、居心地の良い場所ではない。

クロウレイの後ろを歩きながら、無意識にその背中との距離を詰める。

人混みに紛れないように。

見失わないように。

そんな言い訳はできる。

けれど、本当は違う。

「そんなにくっつかなくても大丈夫だよ」

振り返りもせず、クロウレイが軽い口調で言った。

「……はい」

ミレイユは慌てて足を緩める。

少し距離を取る。

だが、数歩も進めば、また元の位置に戻ってしまう。

クロウレイは何も言わなかった。

分かっているのだろう。

ミレイユが街を苦手としていることを。

ふと、ミレイユは気づく。

ざわざわと、頭の奥で何かが鳴っている。

耳から聞こえてくる音ではない。

もっと近い。

もっと曖昧なもの。

(なんでこんなに遅いんだ)

ふいに声が聞こえた。

男のものだった。

知らない声。

だが確かに聞こえる。

(今日中に終わるのか)

別の声。

今度は女性。

(あれ欲しいな)

(邪魔だな)

次々と流れ込んでくる。

誰が考えているのか分からない。

どこから聞こえてくるのかも分からない。

それでも確かに存在している。

まるで街中の人々の思考が、断片になって頭の中へ落ちてくるようだった。

ミレイユは顔を伏せる。

苦しい。

頭が重い。

胸の奥がざわつく。

誰にも聞こえていないはずの声が、自分だけに聞こえている。

その事実が恐ろしかった。

「大丈夫?」

前を歩きながら、クロウレイが何気なく聞く。

「……平気です」

嘘だった。

平気ではない。

だが、どう説明すればいいのか分からない。

自分でも何が起きているのか理解できていないのだから。

そのときだった。

「おい!」

鋭い怒声が響いた。

ミレイユは思わず肩を震わせる。

少し離れた店先で、男が店員に向かって怒鳴っていた。

周囲の人々が足を止める。

店員は困り果てた顔をしている。

「ふざけんな! いったいどうしてくれるんだよ!」

怒り。

苛立ち。

不満。

男の感情が、そのまま流れ込んでくる。

頭の奥へ。

胸の奥へ。

無理やり押し込まれるように。

ミレイユは息を呑んだ。

怖い。

その怒りは自分へ向けられたものではない。

それなのに、心が縮み上がる。

(やめて)

苦しい。

(怒らないで)

胸が締め付けられる。

(お願いだから)

男の怒声がさらに大きくなる。

(静かにして)

ただ、それだけを願った。

強く命じたつもりはない。

ただ、そう思っただけだった。

次の瞬間、男の声が止まった。

ぴたりと。

まるで何かに遮られたように。

怒鳴り声だけではない。

動きも止まる。

表情も固まる。

店員が目を瞬く。

周囲の人々も戸惑ったように顔を見合わせた。

男はぼうっと立ち尽くしていた。

何も言わない。

何も怒らない。

ただ、その場に立っているだけ。

ミレイユの呼吸が止まる。

(……え)

理解できない。

何が起きたのか。

どうしてそうなったのか。

だが一つだけ、嫌な予感がした。

(……私が?)

背筋が冷たくなる。

心臓が激しく脈打つ。

怖い。

男よりも。

周囲の視線よりも。

自分自身が。

ミレイユは一歩後ずさる。

そして、そのまま走り出した。

気づけば、人通りはまばらになっていた。

石畳の大通りは消え、視界の先には街の外壁が見える。

荒い呼吸を繰り返す。

胸が苦しい。

足が震える。

立ち止まろうとしても、うまく力が入らない。

ようやく足を止めたときには、街門の近くまで来ていた。

ミレイユはその場に立ち尽くす。

手が震えていた。

自分の腕を抱くように押さえる。

それでも止まらない。

怖かった。

何が起きたのか分からない。

だが、あれが偶然ではないことだけは分かってしまった。

「……どうしたの」

後ろから声がした。

聞き慣れた声だった。

ミレイユは振り返る。

そこにはクロウレイが立っていた。

息一つ乱していない。

追いかけてきたはずなのに。

ミレイユは口を開く。

だが、言葉が出てこない。

何をどう説明すればいいのか分からなかった。

怖い。

不安だ。

苦しい。

頭の中にあるのは、そればかりだった。

「……こわい」

ようやく出た言葉は、それだけだった。

クロウレイは少しだけ目を細める。

「何が?」

穏やかな声。

責める響きはない。

だが、誤魔化しも許さない。

ミレイユは唇を噛む。

そして、ゆっくりと話し始めた。

「……街に行くと」

言葉を探す。

うまく説明できない。

それでも伝えなければならない。

「いろんな人の声が……聞こえるんです」

クロウレイは黙って聞いている。

「耳じゃなくて」

「でも、聞こえるんです」

「勝手に……頭の中に」

言いながら、自分でもおかしいと思う。

こんな話を信じる人などいない。

そう思った。

だが、クロウレイの表情は変わらなかった。

「それで?」

促される。

ミレイユは俯いた。

「怒ってる人がいて……」

あの男の顔が浮かぶ。

怒鳴り声。

流れ込んできた感情。

「苦しくて」

「静かにして、って思ったら……」

喉が詰まる。

言葉にした瞬間、それが現実になってしまう気がした。

それでも続ける。

「……何も言わなくなって」

沈黙が落ちた。

風が吹く。

門の上を見張りの兵士が歩いている。

遠くから馬車の音が聞こえる。

だが、そのどれもが遠かった。

クロウレイは数秒黙ったまま考えていた。

そして。

「……なるほど」

小さく呟く。

驚きも否定もなかった。

まるで、複雑な問題の答えが見つかった時のような声音だった。

ミレイユは顔を上げる。

「それ、いつから?」

「……分かりません」

首を振る。

「でも……気づいたのは、街に来てからです」

クロウレイは小さく息を吐いた。

空を見上げる。

何かを考えている。

そして。

「無意識でそれは……まずいな」

ぼそりと漏らした。

ミレイユの肩がびくりと震える。

胸が冷たくなる。

やっぱり、自分は何かおかしいのだ。

「……ごめんなさい」

反射的に言葉が出た。

クロウレイの眉が僅かに上がる。

「なんで謝るの」

「……え」

思わず顔を上げる。

「別に悪いことしてないでしょ」

あっさりと言った。

まるで当たり前のことのように。

ミレイユは言葉を失う。

怒られると思っていた。

気味悪がられると思っていた。

なのに違った。

クロウレイは少しだけ真面目な顔になる。

「ただ」

一歩近づく。

「そのままだと危ない」

静かな声だった。

だが、その言葉は重い。

「君が」

ミレイユの目が揺れる。

クロウレイは続けた。

「人の中にいると、勝手に拾うんだろ」

「……はい」

「なら閉じろ」

意味が分からない。

ミレイユは瞬きをする。

「……閉じる?」

「そう」

クロウレイは自分のこめかみに軽く指を当てた。

「自分と他人の境界を作る」

「混ざるから拾う」

「分ければいい」

言葉だけなら簡単だった。

だが、やろうとしていることは決して簡単ではない。

ミレイユにもそれは分かる。

不安が胸をよぎる。

本当にできるのだろうか。

クロウレイはそんな様子を見て、小さく笑った。

「できる?」

ミレイユは唇を結ぶ。

怖い。

失敗したらどうなるのか分からない。

また誰かを傷つけるかもしれない。

それでも、このままではいけない。

小さく頷く。

クロウレイは満足そうに目を細めた。

「大丈夫」

その声は不思議と安心できた。

「やり方は教える」

その一言だけで、張り詰めていた胸が少しだけ軽くなる。

呼吸が楽になる。

ミレイユはようやく、小さく息を吐いた。

クロウレイはそんな弟子を見ながら、内心で考える。

――これは隠した方がいい。

便利な力ではない。

人の心に触れ。

無意識に干渉する力。

知られれば利用される。

あるいは恐れられる。

どちらにせよ、ろくなことにならない。

下手をすれば、人も壊す。

自分も壊す。

だから、まずは制御を覚えさせる。

クロウレイは静かにそう決めた。

そして何より、この少女が、自分自身を恐れずに済むように。

*

翌朝。

クロウレイが机に本を置いた。

「さて、やるか」

ミレイユが首を傾げる。

「魔術、知ってる?」

問いかけに首を横へ振る。

「……いいえ」

「うん、知らなくていい」

クロウレイは立ち上がった。

「これから知るから」

庭へ出る。

風が吹いている。

空は高く晴れていた。

クロウレイは珍しく真面目な顔をしていた。

「まずは感じるところからだ」

そう言って立ち止まる。

「目を閉じて」

ミレイユは言われた通りに目を閉じた。

風が頬を撫でる。

草が揺れる音が聞こえる。

鳥の鳴き声。

遠くの木々のざわめき。

「……何か分かる?」

曖昧な問いだった。

だが、ミレイユは自然に答えていた。

「……流れが」

「流れ?」

「……空気が、揺れているような」

クロウレイの目がわずかに細くなる。

予想していた。

だが、やはり早い。

普通の子どもなら何も感じない。

それなのにミレイユは、理屈を教える前から捉えている。

「それでいい」

クロウレイは静かに言った。

「じゃあ、その流れに触れてみて」

「……触れる?」

「そう」

軽く頷く。

「掴もうとしなくていい」

ミレイユはそっと手を伸ばした。

挿絵(By みてみん)

目は閉じたまま。

指先を空へ向ける。

触れる。

その瞬間だった。

空気が震えた。

風向きが変わる。

草が大きく揺れる。

ほんの小さな現象。

だが、確かに何かが起きた。

ミレイユが驚いて目を開く。

クロウレイは息を吐いた。

(やっぱりか)

想像以上だった。

才能がある。

そんな言葉では足りない。

この子は生まれながらにして境界へ手を伸ばせる。

危ういほどに。

「今、何をしたか分かる?」

「……いえ」

「だろうね」

クロウレイは苦笑した。

「でも、今のが入口だ」

少しだけ声が低くなる。

「魔術は覚えるものじゃない」

風が吹く。

木々が揺れる。

「気づくものだ」

ミレイユは静かに聞いていた。

「君はもう気づいてる」

その言葉に、ミレイユの瞳がわずかに揺れる。

「……ですが」

「いいから続けて」

遮る。

強引ではない。

だが、迷わせない声だった。

ミレイユはもう一度手を伸ばす。

今度は少し意識して流れをなぞる。

すると、空気が歪んだ。

先ほどよりも明確に、周囲の風が引き寄せられる。

見えない何かが動く。

「……!」

「止めて」

即座にクロウレイが言う。

ミレイユは慌てて手を引いた。

静寂が戻る。

風だけが流れている。

クロウレイはしばらく黙っていた。

そして。

「ミレイユ」

「はい」

「今のはやりすぎ」

素直に肩が落ちる。

「……申し訳ありません」

「謝らなくていい」

すぐに返る。

「ただ覚えておいて」

一歩距離を取る。

「触れるのと、入り込むのは違う」

ミレイユは黙って聞く。

「君は、そっちへ行ける」

静かな断言だった。

「だから、行くな」

意味が分からない。

けれど、その言葉だけは胸に残る。

「……制御、ですか」

「そう」

クロウレイは頷いた。

「力は強さじゃない」

少しだけ空を見上げる。

「止まれるかどうかだ」

風が吹く。

ミレイユは今度は手を伸ばさなかった。

ただ感じる。

流れを、世界を。

そしてクロウレイは、その横顔を見ながら思う。

この子は分かる。

だからこそ、ちゃんと教えなければならない。

守るために、壊さないために。

そして何より――。

(君の娘だから)

その言葉は口には出さない。

ただ、ほんの少しだけ目を細めた。

ミレイユの新しい人生は、まだ始まったばかりだった。

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