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選択の魔女  作者: めいあん
第一章:王宮魔術師編
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第22話:温度

馬車を降りたあともしばらくの間、ミレイユの足取りはどこか頼りなかった。

地面は固いはずなのに、まだ身体が揺れている気がする。

「着いたよ」

クロウレイの声に促され、ミレイユはゆっくり顔を上げた。

そこにあったのは、伯爵家のような豪奢な屋敷ではなかった。

石壁に囲まれた邸宅でもない。

だが不思議と落ち着く家だった。

飾り立てられてはいない。

けれど人が暮らしている温かさがある。

扉を開けた瞬間、柔らかな空気が流れてきた。

思わず足が止まる。

「どうした?」

「……入って、いいのですか……?」

自分でも驚くような言葉だった。

クロウレイは一瞬だけ目を瞬いたあと、小さく笑った。

「もちろん」

まるで当たり前のことを言うように。

その返答に、ミレイユは何も言えなくなる。

許可を求める必要など、本当はなかったのかもしれない。

それでも確認せずにはいられなかった。

そっと家の中へ入る。

暖かかった。

ただ、それだけで胸の奥がざわつく。

「とりあえず、身体を洗おうか」

案内された部屋には湯気の立つ桶が用意されていた。

「使い方、分かる?」

「……なんとなく、は……」

「じゃあ適当でいい、火傷だけは気をつけて」

それだけ言うと、クロウレイは本当に部屋を出ていった。

見張りもしない。

監視もしない。

鍵もかけない。

ミレイユはしばらくその場から動けなかった。

――任された。

そんな経験は一度もなかった。

命じられることはあった。

叱られることもあった。

けれど、自分で決めていいと言われたことはなかった。

やがて恐る恐る湯へ手を入れる。

温かい。

思わず息が漏れた。

「……あたたかい……」

小さな呟きは湯気の中へ溶けていった。

時間をかけて身体を洗う。

絡まった髪を解く。

汚れを落とす。

それだけのことに、ずいぶん時間がかかった。

やがて着替えを済ませて部屋へ戻ると、クロウレイは一目見て頷いた。

「うん、きれいになったね」

それだけだった。

大袈裟に褒めるわけでもない。

哀れむわけでもない。

ただ事実を言っただけ。

だからこそ、不思議と安心できた。

その後、椅子へ座らされる。

クロウレイは背後へ回り込み、櫛を手に取った。

絡まった髪へ慎重に櫛を入れる。

何度も引っかかる。

そのたびに少しだけ痛い。

だが無理には引かない。

少しずつ、丁寧に。

本当に少しずつ解いていく。

「……ごめん、引っかかった」

淡々とした声。

それでも不思議と嫌ではなかった。

やがて最後のもつれがほどける。

「こんなもんかな」

クロウレイが櫛を置く。

ミレイユはおそるおそる髪へ触れた。

指が通る。

それだけで少しだけ息が軽くなった。

ふと視線がクロウレイへ向く。

――髪がぼさぼさだ。

自分の髪はあんなに丁寧に梳かしたのに、本人は少しも気にしていないらしい。

不思議な人だと思った。

そして、それはロシュ家にいた頃には一度も抱かなかった感想だった。

窓の外では、いつの間にか日が傾き始めている。

新しい人生の最初の日は、静かに暮れていこうとしていた。

*

それから、食事が出された。

木の机の上に置かれた皿からは、白い湯気がゆっくりと立ち上っている。

ミレイユは、その光景を見つめたまま動けなかった。

温かい食事だった。

それだけのことなのに、どうしていいのか分からない。

いつぶりだろう。

湯気の立つ食事を見るのは。

優しい匂いが鼻をくすぐる。

腹は空いているはずなのに、すぐには手が伸びなかった。

「食べられる?」

向かいの席でクロウレイが尋ねる。

声音は穏やかだった。

食べなければ怒られるわけでもなく、食べるよう急かされるわけでもない。

ただ確認しているだけ。

それが、ミレイユには不思議だった。

「……はい」

「なら良かった」

それだけだった。

責めない。

困った顔もしない。

ミレイユは戸惑いながら、そっとスプーンを手に取った。

動きはぎこちない。

ゆっくりと口へ運ぶ。

温かい。

優しい味がした。

何の変哲もない料理なのだろう。

それでも、ミレイユには十分だった。

しばらく無言で食べ続ける。

クロウレイも余計なことは言わない。

同じ食卓につき、自分も食事をしている。

それだけだ。

ただ静かにそこにある時間だった。

食べ終えた頃には、肩に入っていた力が少しだけ抜けていた。

「……ごちそうさまでした」

小さな声。

それでも、自分から口にした言葉だった。

クロウレイは軽く頷く。

「どういたしまして、ミレイユ」

その瞬間、ミレイユの指先がぴくりと動いた。

名前を呼ばれた。

怒鳴られるでもなく。

命令されるでもなく。

ただ自然に。

当たり前のように。

それだけで胸の奥がざわつく。

どう返せばいいのか分からず、ただ視線を伏せた。

*

その日から、奇妙な日々が始まった。

会話は少ない。

「水、そこ」

「……はい」

「寒くない?」

「……大丈夫、です」

けれど、不思議と苦しくはなかった。

クロウレイは何かを強要しない。

何かを求めもしない。

ただ、そこにいる。

それだけだった。

最初の頃、ミレイユは何度も失敗した。

皿を落としたこともある。

洗った食器を割ったこともある。

そのたびに身体が強張った。

怒鳴られる。

叩かれる。

そう思った。

だが。

「怪我ない?」

返ってくるのは、それだけだった。

ある日など、盛大に水差しを倒してしまった。

机の上に水が広がる。

ミレイユは反射的に立ち上がった。

「も、申し訳ありません……!」

慌てて布を探そうとする。

すると。

「大丈夫大丈夫」

クロウレイが立ち上がった。

「床まで行ってないし」

「ですが……」

「水差しは割れてない」

そう言いながら布を差し出す。

「じゃあ一緒に拭こう」

怒られなかった。

責められもしなかった。

そのことに、逆に混乱する。

クロウレイは何事もなかったように机を拭いていた。

まるで本当に大したことではないみたいに。

そんな日々が続く。

少しずつ。

本当に少しずつ。

身体の力が抜けていく。

名前を呼ばれても、以前ほどびくりとしなくなる。

温かい食事にも慣れていく。

食べることが怖くなくなっていく。

ある日の午後、クロウレイが本棚の前で何かを探していた。

背の高い棚。

積み上げられた本。

ミレイユは少し離れた場所から見ていた。

「先生」

言葉が落ちる。

自分でも驚いた。

クロウレイが振り返る。

「ん?」

ミレイユは固まった。

なぜ今そう呼んだのか、自分でも分からない。

沈黙。

数秒。

クロウレイは笑った。

「先生か」

怒られない。

変な顔もされない。

「いいね」

あっさりと言う。

「そのほうが呼びやすい?」

ミレイユは小さく頷いた。

「……はい」

「じゃあそれで」

それだけだった。

その日から、クロウレイは先生になった。

*

雨が降っていた。

静かな音で屋根を叩き続ける雨だった。

激しくもない。

弱すぎもしない。

一定の調子で降り続くその音は、どこか心を落ち着かせるはずなのに、その夜のミレイユは眠れなかった。

夢を見たのだ。

暗い部屋。

伸ばした手は誰にも届かず、呼んだ声も返ってこない。

目が覚めた今も、その感覚だけが身体に残っている。

布団の中で目を閉じても、眠りは戻ってこなかった。

(……ここは)

分かっている。

ここはロシュ家ではない。

あの暗い部屋でもない。

それでも、怖かった。

寒かった。

苦しかった。

忘れたはずなのに、夢は容赦なく過去を引きずり出してくる。

ミレイユはゆっくりと起き上がった。

部屋を出る。

足音を忍ばせながら廊下を歩く。

窓の外では雨が降り続いている。

行く当てもなく歩いているうちに、気づけば一つの扉の前に立っていた。

クロウレイの部屋だった。

そこで初めて足が止まる。

こんな時間に、理由もなく訪ねていいのだろうか。

迷惑ではないだろうか。

頭の中でそんな考えが巡る。

ノックをしようとして手を下ろす。

やめようとして、また手が上がる。

何度も繰り返した。

胸の奥にある不安が、どうしても消えなかった。

しばらく迷った末に、ようやく指先が扉を叩く。

こん、こん。

控えめな音。

少し間があってから、中から声がした。

「どうぞ」

いつも通りの声だった。

眠そうでもない。

迷惑そうでもない。

ミレイユはゆっくりと扉を開ける。

部屋の中ではクロウレイが本を読んでいた。

机の上のランプが、柔らかな光を落としている。

「……どうしたの」

問いかけは穏やかだった。

ミレイユは言葉を探す。

けれど、うまくまとまらない。

「……あの」

声が小さくなる。

「……すみません」

結局、出てきたのはそれだった。

クロウレイが少しだけ笑う。

「謝るとこ?」

ミレイユは困ったように視線を伏せた。

「いや、別にいいけど」

本を閉じる。

それから首を傾げた。

「怖い夢でも見た?」

図星だった。

ミレイユの肩がわずかに揺れる。

「……はい」

小さく頷く。

クロウレイはそれ以上聞かなかった。

夢の内容も、何を思い出したのかも。

無理に聞き出そうとはしない。

「そっか」

ただ、それだけ。

「で、どうしたい?」

ミレイユは目を瞬いた。

どうしたい。

そんなことを聞かれたことがなかった。

いつだって決めるのは他人だった。

自分は従うだけだった。

だから答えに迷う。

長い沈黙のあと、ようやく口を開く。

「……ここに」

声が震える。

「……いても、いいですか」

初めてのお願いだった。

クロウレイは一瞬も迷わなかった。

「いいよ」

当たり前のように頷く。

特別なことではないように。

ミレイユはゆっくりと部屋へ入った。

少し離れた場所に腰を下ろす。

何も話さない。

クロウレイも話さない。

再び本を開く。

雨音だけが響く。

静かな時間だった。

だが、不思議と心地よかった。

誰かと同じ空間にいて。

何も求められず。

何も責められない。

そんな時間をミレイユは知らなかった。

しばらくして。

「……先生」

ぽつりと呼ぶ。

「んー?」

気の抜けた返事が返ってくる。

それが少しだけ可笑しかった。

「……ありがとうございます」

小さな声。

クロウレイは視線を本から上げた。

それから少しだけ目を細める。

「どういたしまして」

軽く返す。

そのまま立ち上がり、棚から毛布を一枚取ってきた。

何も言わずに肩へ掛ける。

それだけだった。

けれど、その毛布は不思議なくらい温かかった。

ミレイユは、その夜、久しぶりに安心して眠った。

挿絵(By みてみん)

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