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選択の魔女  作者: めいあん
第一章:王宮魔術師編
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第21話:手を引く者

ミレイユがクロウレイの手を取る数刻前。

ロシュ家の応接室には重い空気が満ちていた。

豪奢な調度品に囲まれていても、その場に流れる緊張までは隠せない。

アルフォンスは正面に座る男を見つめていた。

元王宮魔術師、クロウレイ。

王宮を離れた今もなお、本来なら伯爵家が軽々しく相手にできる人物ではない。

その男が、わざわざこの屋敷まで足を運んでいる理由は一つだった。

「――つまり、娘を引き取りたいと」

アルフォンスが低く口を開く。

「そういうことだね」

クロウレイは静かに頷いた。

穏やかな声だったが、その意思に揺らぎはない。

「理由は」

今度はセラフィーヌが問う。

値踏みするような視線を受けても、クロウレイは少しも動じなかった。

「魔術師としての素養がある」

即答だった。

「放置するには惜しい」

それは嘘ではない。

ミレイユには確かに才能がある、だがそれだけではなかった。

本当の理由を口にするつもりはない。

セラフィーヌの目がわずかに細められる。

感情ではなく利益で考えている顔だった。

「……条件は」

その問いに、クロウレイは小さく笑った。

「金でいいだろう?」

沈黙が落ちる。

アルフォンスの指先がわずかに動いたが、それだけだった。

娘の行く末より、自分に不利益があるかどうかの方が重要なのだろう。

セラフィーヌはほんの数秒だけ考える。

ミレイユはすでに社交界から姿を消している。

身体が弱いという噂も定着した。

後継者として育てる予定もない。

今のロシュ家にとって価値があるのはリリアナだ。

しかも財政状況は決して良くない。

「……提示を」

クロウレイはあっさりと金額を口にした。

破格だった。

伯爵家としての体面を保ちながら、当面の問題を解決できる額。

セラフィーヌの中で答えはすぐに出た。

「――了承いたします」

迷いのない返答だった。

アルフォンスは最後まで何も言わない。

まるで最初から、その席に娘など存在しなかったかのように。

応接室を出ながら、クロウレイは奥歯を噛み締める。

胸の奥に沈む感情が何なのか、自分でも分からなかった。

怒りなのか、後悔なのか。

ただ一つだけ確かなのは、遅すぎたということだった。

本当はもっと早く気づけたかもしれない。

もっと早く動けたかもしれない。

だが、過去は変えられない。

だからせめて――これからだけは。

*

屋敷の奥へ進むほど、人の気配は薄くなっていった。

廊下は暗く、窓も少ない。

伯爵家の本邸とは思えないほど静まり返っている。

案内していた使用人は一枚の扉の前で足を止めると、頭を下げて早々に立ち去っていった。

まるで、この場所には長くいたくないとでもいうように。

クロウレイはその背中を見送り、小さく息を吐く。

そして、扉を開いた。

廊下の光が室内へ流れ込む。

部屋は狭かった。

伯爵令嬢の部屋とは思えないほど質素で、どこか物置のような空気すら漂っている。

その部屋の中央に、少女がいた。

ベッドの端に腰掛けたまま、虚ろな目でこちらを見ている。

身体は痩せ細っていた。

粗末な服。

荒れた手。

艶を失った長い髪。

頬もこけている。

けれど、その面影だけは間違えようがなかった。

エレオノーラによく似た瞳。

エレオノーラによく似た顔立ち。

痩せていても、やつれていても、それだけは隠しようがない。

あの美しかったモンフォール公爵令嬢が残した娘。

クロウレイは胸の奥が締めつけられるのを感じた。

こんな姿になるまで、誰も助けなかったのか。

いや、違う。

自分も、その誰もの一人だった。

だからこそ責める資格などない。

あるのは後悔だけだ。

クロウレイは少女の前まで歩み寄る。

少女は逃げない。

逃げる気力すら残っていないようだった。

「遅くなってごめん」

静かに告げる。

その瞬間、少女の瞳がわずかに揺れた。

反応があった。

それだけで十分だった。

「迎えに来たよ」

少女は何も言わず、ただ見つめている。

その目の奥には、かすかな光が残っていた。

消えかけた灯火のような、小さな光。

クロウレイは少しだけ笑う。

「一緒に来る?」

沈黙が落ちる。

少女は答えない。

長い沈黙だった。

言葉を探しているのか。

それとも信じられないのか。

やがて、震える声が落ちた。

「……行って、いいの……?」

まるで許可を求めることすら恐れているようだった。

クロウレイは答えなかった。

代わりに手を差し出す。

少女はその手を見つめる。

白く細い指。

少しの間だけ迷いがあった。

だが、ゆっくりと。

本当にゆっくりと。

小さな手が伸びる。

触れる、そして握られる。

クロウレイは何も言わず、その手を包み込んだ。

言葉よりも確かな肯定だった。

少女の身体がほんの少しだけ前へ動く。

それだけで十分だった。

「よし」

クロウレイは穏やかに笑った。

そして、そのまま少女を連れて歩き出す。

誰も止めなかった。

誰も声をかけなかった。

まるで最初から、この屋敷に少女など存在していなかったかのように。

玄関を抜けると、外の空気が頬を撫でた。

ミレイユはわずかに目を細める。

久しぶりに見る空だった。

クロウレイは馬車へ向かう前に、一度だけ屋敷を振り返る。

巨大なロシュ伯爵邸。

クロウレイは目を閉じる。

そして心の中で、一人の女性の名を呼んだ。

(エレオノーラ)

若き日の記憶がよぎる。

眩しい笑顔。

真っ直ぐな瞳。

あの頃は理解していなかった感情。

今なら分かる。

今だからこそ分かる。

(君の娘は、僕が守るから)

それが、自分にできる唯一の償いだった。

クロウレイは隣を歩く少女の手を握り直す。

小さな手だった。

けれど、その手は確かに生きている。

失われていない。

まだ間に合う。

そう信じながら、クロウレイは馬車の扉を開いた。

*

馬車がゆっくりと動き出す。

車輪が石畳を踏みしめる音が遠ざかり、やがて屋敷の気配も薄れていった。

ミレイユは座席の端に腰掛けたまま動かない。

いや、動けないと言った方が正しかった。

何をしていいのか分からない。

どこを見ればいいのかも分からない。

ただ両手を膝の上で重ね、小さく身体を縮こませていた。

クロウレイは向かい側に座っている。

何か言うわけでもない。

じっと見つめるわけでもない。

ただ同じ空間にいる。

それが不思議だった。

今まで大人は命令するものだった。

叱るものだった。

機嫌を損ねないように気を遣うものだった。

けれど、この人は何もしない。

何も求めない。

だから余計に分からない。

馬車が揺れ、ごとり、と大きく車輪が跳ねた。

ミレイユの身体も小さく浮く。

思わず肩が震えた。

「大丈夫?」

穏やかな声が飛んでくる。

ミレイユは慌てて頷いた。

「……はい……」

声は小さい。

それでもクロウレイは満足そうに頷く。

「ならよかった」

それだけだった。

責めないし、ため息もつかない。

そのことに戸惑う。

やがて窓の外へ視線が向く。

景色が流れ、王都の街並みを抜ける。

知らない景色だった。

正確には知っているはずなのだろう。

幼い頃には見たことがあるはずだ。

けれど思い出せない。

いつからだっただろう。

屋敷の外へ出なくなったのは。

いつからだっただろう。

窓の外を眺めることさえやめたのは。

「……」

人がいる。

店がある。

笑い声が聞こえる。

どれも自分とは関係のないものだった。

そのはずだった。

なのに、今日は違う。

少なくとも今、自分はそこへ向かっている。

どこかへ。

ロシュ家ではない場所へ。

その事実が現実味を持たない。

夢を見ているようだった。

ふと視線が落ちる。

自分の服。

擦り切れた袖。

汚れた手。

痩せた腕。

みすぼらしい。

恥ずかしい。

そんな感情が、じわりと湧き上がる。

今までは気にならなかった。

気にする意味がなかった。

だが今は違う。

自分の向かう先には、この人がいる。

まともな人間がいる。

だから急に、自分の惨めさが目についた。

ミレイユは袖を握りしめる。

隠すように。

見られたくない、そう思った。

クロウレイは何も言わない。

けれど、その視線が一瞬だけミレイユの手元へ向いたことに気づいてしまった。

恥ずかしくなる。

ますます俯く。

「こういう馬車は初めてかな?」

突然そんなことを聞かれた。

ミレイユは目を瞬く。

予想していなかった質問だった。

返事が遅れる。

それでも何とか口を開いた。

「……はい……」

小さく答える。

クロウレイはふっと笑った。

「最初はお尻が痛くなるけど、慣れると悪くないよ」

思わず顔を上げる。

そんなことを言われるとは思わなかった。

挿絵(By みてみん)

馬車の話をしている。

本当にそれだけの話だ。

だから余計に戸惑う。

何かを試されているわけでもない。

機嫌を取らなければいけないわけでもない。

ただの雑談だった。

ミレイユはどう返せばいいのか分からず、結局もう一度だけ頷いた。

その直後、馬車が大きく跳ねる。

身体がわずかに浮いた。

「ほらね」

クロウレイが笑う。

ミレイユは目をぱちぱちと瞬かせた。

少しだけ。

本当に少しだけ。

胸の奥の緊張が緩む。

馬車は進み、揺れは続く。

しばらくしてから、ミレイユはおずおずと口を開いた。

「あの……」

クロウレイが視線を向ける。

「……どうして……」

そこまで言って言葉が止まった。

どうして助けたのか。

どうして自分なのか。

聞きたいことはある。

けれど、うまく言葉にならない。

クロウレイは少しだけ考えるように窓の外を見た。

それから肩をすくめる。

「放っておけなかった」

あっさりとした答えだった。

そして少し困ったように笑う。

「……で、いいんじゃないかな」

大したことではないように言う。

けれど、ミレイユには分からなかった。

放っておけない。

そんな理由で人は動くものなのだろうか。

そんな理由で、自分なんかを助けるものなのだろうか。

理解できない。

でも、嫌ではなかった。

胸の奥が少しだけ温かくなる。

その感覚の名前は、まだ分からない。

馬車は街道を進み続ける。

後ろにはロシュ家がある。

前には知らない未来がある。

それでも今だけは。

差し出された手が離れていないことだけが、確かな現実だった。

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