第20話:奪われた季節
夢の中の空気は、やけに冷たかった。
けれど、その冷たさがいつのものなのか、ミレイユには分かっていた。
九歳の秋。
愛する母が病で命を落とした季節だ。
王都の外れにある貧民街で流行していた病だった。
母は慰問のためにそこを訪れ、人々のために手を差し伸べ、その先で病をもらった。
最期に触れた母の手は少し熱く、それでも優しかった。
「大丈夫よ」
そう言って微笑んでいた。
幼いミレイユは、その言葉を信じていた。
だから気づかなかった。
あれが別れの言葉だったことに。
あれが最後の笑顔だったことに。
*
母が亡くなった日から、ミレイユの世界は少しずつ形を失っていった。
激しく壊れたわけではない。
誰かに怒鳴られたわけでもない。
音もなく、誰にも気づかれないまま。
大切なものだけが、一つずつ静かに消えていった。
最初に消えたのは、人だった。
公爵家の後援を受けていた家庭教師が解雇された。
母がいたから続いていた縁だった。
母が亡くなると、それは驚くほどあっさり切り捨てられた。
「必要ありませんので」
そう告げたのはセラフィーヌだった。
後に父の正妻となる女性。
当時はまだ別邸に住んでいた父の愛人だった。
その隣には、小さな少女が立っていた。
リリアナ。
自分とほとんど同じ年頃の異母妹。
彼女はただ不安そうに母親の後ろへ隠れていただけだった。
何も言わなかった。
何もしていない。
ただ、そこにいただけだった。
けれど、それでもミレイユは理解してしまった。
母が築いてきたものが、少しずつ別の誰かのものになっていくのだと。
家庭教師がいなくなった後、乳母も去った。
泣きながら何度も頭を下げていた姿を覚えている。
「申し訳ありません、お嬢様」
何度も何度も謝っていた。
けれど、幼いミレイユには分かっていた。
乳母は悪くない。
決めたのは別の誰かだ。
優しかった侍女たちも次々と姿を消していった。
気づけば、母がいた頃から仕えていた使用人はほとんど残っていなかった。
味方と呼べる人は、誰もいなくなった。
そして、別邸に住んでいたセラフィーヌとリリアナが本邸へ移ってきた。
広い屋敷の空気が変わる。
廊下を歩く使用人たちの表情が変わる。
食卓の雰囲気が変わる。
誰も何も言わない。
だが、確かに変わっていた。
母の不在を埋めるように。
いや、上書きするように。
少しずつ。
確実に。
*
茶会への招待状が届かなくなったのは、その頃からだった。
最初は偶然だと思った。
一度。
二度。
三度。
だが続く。
同年代の令嬢たちが集まったという話を耳にしても、自分のもとには何も来ない。
ある日、廊下で使用人が抱えている封筒の束を見かけた。
そこには確かに自分の名前が書かれていた。
見間違えるはずもない。
ロシュ伯爵家長女、ミレイユ・ロシュ。
けれど、その招待状が渡されることはなかった。
後日、偶然耳にした。
「体調が優れないため欠席いたします」
そんな返事が送られていたことを。
ミレイユ自身の知らないところで、勝手に。
ミレイユは健康だった。
病気でもなかった。
それでも、いつの間にか社交界では
『ロシュ家の長女は身体が弱い』
という話になっていた。
誰も疑わない。
確認もしない。
姿を見ない人間のことなど、人は驚くほど簡単に忘れる。
その一方で、セラフィーヌとリリアナの周囲は、日に日に華やかになっていった。
新しいドレスが届く。
宝石が届く。
招待状が届く。
使用人たちが慌ただしく動く。
笑い声が増える。
ミレイユだけが、その輪の外に置かれていた。
リリアナは別に意地悪な子ではなかった。
新しいドレスが届けば嬉しそうに笑ったし、茶会から帰れば楽しそうにその話をした。
年相応の少女だった。
だからこそ苦しかった。
「お姉様も来ればよかったのに」
ある日、リリアナがそう言った。
悪意はなかった。
本当に。
ただ純粋にそう思っただけなのだろう。
けれど、ミレイユは招待されていない。
行きたくても行けない。
その事実を言葉にできず、曖昧に笑うことしかできなかった。
リリアナは気づかなかった。
二人の間に横たわるものの大きさに。
気づけるはずもなかった。
やがて父も、ますます家に寄り付かなくなった。
いや、正確には違う。
ミレイユのところへ来なくなった。
父の姿は見かける。
だが、その視線はいつも別の場所へ向いていた。
セラフィーヌ。
そしてリリアナ。
母が生きていた頃から、そうだった。
母が亡くなってからは、なおさらだった。
葬儀が終わって間もない頃、父は何事もなかったかのようにセラフィーヌを正妻に迎えた。
宝石を贈り。
ドレスを贈り。
幸せそうに笑っていた。
ミレイユはそれを遠くから見ていた。
母には、一度も見せなかった笑顔だった。
*
ある日、ミレイユは父を待っていた。
誕生日だった。
母が生きていた頃は、小さな食事会を開いてくれていた。
大げさなものではない。
それでも嬉しかった。
だから、その日も待っていた。
朝。
昼。
夕方。
そして夜。
けれど父は来なかった。
誰も来なかった。
おめでとうと言う人もいなかった。
後から知った。
その日、父はリリアナの茶会に付き添っていた。
ミレイユの誕生日を忘れたまま。
その夜、自室へ戻り、窓辺に腰を下ろす。
王都の灯りが遠くに見えた。
楽しそうな声が風に乗って聞こえる。
そこでようやく思い出した。
今日は自分の誕生日だったのだと。
誰にも祝われなかった。
誰にも覚えられていなかった。
不思議と涙は出なかった。
もう慣れ始めていたからだ。
母がいなくなってから続いている毎日に。
少しずつ自分が消えていく感覚に。
冷たい窓硝子へ額を預ける。
外には春の気配があった。
けれど、その暖かさが届くことはなかった。
ただ静かな夜だけが、幼いミレイユを包み込んでいた。
*
春が過ぎ、夏が訪れた。
けれど、ミレイユにとって季節はもはや意味を持たなくなり始めていた。
暖かくなろうと、花が咲こうと、青空が広がろうと。
自分のいる場所だけは変わらない。
ある日。
「使用人が足りないわね」
セラフィーヌが何気なくそう言った。
本当に、それだけだった。
翌日からミレイユは洗濯をするようになった。
最初は少しだけ。
そのはずだった。
だが、一度始まれば際限はなかった。
洗濯。
掃除。
台所仕事。
庭の手入れ。
気づけば、伯爵令嬢としての時間よりも、使用人として働く時間の方が長くなっていた。
誰も疑問に思わない。
父も何も言わない。
使用人たちも視線を逸らす。
幼い主人が雑巾を手に廊下を磨いていても、まるで見えていないかのようだった。
夏の日差しは容赦がなかった。
庭仕事をしていれば肌は焼ける。
汗が流れる。
母が丁寧に手入れしてくれていた髪も、次第に艶を失っていった。
鏡を見ることもなくなった。
見る理由がなかった。
誰のために綺麗でいる必要があるのか、もう分からなかったからだ。
少しずつ。
少しずつ。
感情が擦り減っていく。
そんなある日、ふと母の部屋を訪れた。
母が生きていた頃は好きだった場所だ。
優しい香りがしていた。
穏やかな笑い声があった。
本を読む母の姿があった。
けれど、部屋へ入った瞬間、違和感を覚えた。
花瓶がなくなっている。
窓辺に置かれていたお気に入りの花がない。
次に訪れたときには、本棚がなくなっていた。
その次には机が消えた。
さらに次には椅子がなくなった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
部屋が空っぽになっていく。
母の痕跡が削られていく。
まるで最初から存在しなかったかのように。
何度も足を運んだ。
何か一つでも残っていないかと思って。
母を思い出せるものが。
母がここにいた証が。
けれど、残っていたものも、やがて消えていった。
最後に残ったのは肖像画だった。
母が穏やかに微笑んでいる肖像画。
幼いミレイユが一番好きだったもの。
それだけは残ると思っていた。
残してくれると思っていた。
だがある日。
中庭で火が焚かれていた。
使用人たちが何かを運んでいる。
その中に見覚えのある額縁があった。
ミレイユは立ち止まる。
理解する。
何が起きるのか。
何をしようとしているのか。
肖像画が火の前へ運ばれる。
燃やされる。
母が、消される。
「やめて……」
かすれた声が漏れた。
誰も聞かない。
肖像画が炎へ投げ込まれる。
「やめて……!」
走った。
生まれて初めて必死に走った。
伸ばした手は届かない。
炎が額縁を包み込む。
絵の具が焼ける。
黒く変色する。
母の顔が歪む。
崩れる。
消えていく。
「やめてっ……!」
喉が裂けそうになる。
涙が溢れる。
止まらない。
「お母さま……!」
叫ぶ。
泣く。
狂ったように。
生まれて初めて感情を爆発させた。
母が死んだときよりも。
乳母と別れたときよりも。
ずっと激しく泣いた。
泣いて。
泣いて。
泣いて。
そして。
その日を境に、何かが終わった。
それ以降、ミレイユは泣かなくなった。
笑わなくなった。
期待しなくなった。
感情を閉ざした。
何も感じなければ傷つかない。
何も望まなければ失わない。
幼い心は、そうやって自分を守ることを覚えてしまった。
秋が来る。
母が亡くなった季節だった。
冷たい風が吹く。
木々の葉が落ちる。
同じ季節。
けれど、去年とは何もかもが違った。
母はいない。
味方もいない。
思い出もない。
残っているものは何もない。
そして冬が来る。
井戸水は凍るように冷たかった。
小さな手はすぐに荒れた。
あかぎれが裂ける。
血が滲む。
痛かった。
けれど、痛いと口にしたことはなかった。
言っても何も変わらないと知っていたからだ。
ある夕暮れ。
仕事を終えたミレイユは、与えられた小さな部屋に座り込んでいた。
ただ、そこにいるだけ。
生きているだけ。
「……お母さま……」
かすれた声が零れる。
「会いたい……」
返事はない。
当然だ。
もういないのだから。
それでも、言わずにはいられなかった。
「会いたい……」
ぽつりと呟く。
もう、どうでもよかった。
未来も。
家も。
自分自身も。
全部。
そのときだった。
不意に、扉が開く。
廊下の光が、細い線になって差し込んだ。
眩しさに、思わず目を細める。
そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
ぼさぼさの茶色い髪。
頼りない体つき。
けれど、その目だけは不思議なほど真っ直ぐだった。
「遅くなってごめん」
優しい声だった。
ミレイユは瞬きをする。
意味が分からない。
男は少しだけ困ったように笑った。
「迎えに来たよ」
迎え。
その言葉が頭の中で反響する。
迎えに来た。
誰を。
なぜ。
どうして。
理解できない。
ただ、その言葉だけが何度も繰り返される。
「一緒に来る?」
男が手を差し出した。
躊躇う。
怖かった。
知らない人だった。
信じていいのか分からない。
今まで信じたものは全部なくなった。
だから怖い。
それでも、その手は温かそうだった。
「……行って、いいの……?」
震える声で尋ねる。
男――クロウレイは何も言わなかった。
ただ、そっとミレイユの手を握った。
引っ張るためではない。
捕まえるためでもない。
支えるための手だった。
温かかった。
忘れていた温もりだった。
その瞬間、凍りついていた心の奥で、何かが小さく軋んだ。
涙が出そうになる。
けれど出ない。
泣き方を忘れてしまっていた。
「大丈夫」
クロウレイが静かに言う。
「もう終わりだ」
その言葉が、初めて届いた。
一年以上誰にも届かなかった心へ。
まっすぐに。
ミレイユは小さく頷く。
それは人生で初めて、自分自身で選んだ選択だった。
与えられたものではない。
命じられたものでもない。
自分で決めた。
クロウレイの手を取ると、世界が少しだけ動き出した気がした。
ここではない場所へ。
新しい場所へ。
失ったものは戻らない。
けれど。
それでも。
生きていけるかもしれない。
そんな希望を、ほんの少しだけ抱けた。
その日から、ミレイユの新しい人生が、静かに始まった。




