第18話:仮面の夜
レオニードの声は、いつもと変わらず低く静かだった。
だが、その内容は決して軽いものではなかった。
「近々、王宮で殿下主催の夜会が催される」
レオニードの眉間には、深い皺が寄っている。
「殿下を筆頭とした先進派、およびモンフォール家を中心とした保守派、どちらも参加する」
その名を聞いた瞬間、ミレイユの指先がわずかに強張った。
衣の裾に触れていた指先に力が入り、また静かに緩む。
(モンフォール……)
その響きは、今も鮮明だった。
シルヴァンはその空気の変化を感じ取りながら、口元だけで笑う。
(面白くなりそうだ)
保守派。
先進派。
ロシュ家の娘。
モンフォール家。
誰かが動くには十分すぎる舞台だった。
「殿下が何らかの攻撃を受ける可能性がある」
静かな断言。
「だろうな」
アルベルトの返答は短い。
だが、その声には迷いがなかった。
腕を組む仕草の奥には、すでに戦場を想定している気配がある。
「お前たちは会場内を警備すると共に、貴族たちの動きを観察してくれ」
ミレイユが視線を上げた。
「具体的には」
レオニードはわずかに沈黙した。
その短い間だけで、空気が少し張り詰める。
「殿下の側は私と近衛騎士で守りを固める」
低い声が続く。
「お前たちはダンスフロアへ出ろ」
アルベルトが嫌な予感を覚えた。
「会話を拾い、情報を集める」
「あー、確かに」
シルヴァンが軽く頷く。
「男女が踊りながら交わす会話って、意外と本音が出るんだよね」
軽い調子だが、その内容は現実的だった。
ミレイユは少しだけ眉を寄せる。
「つまり……」
「ダンスフロアに紛れろ」
レオニードは即答した。
「踊って情報を集めろ」
ミレイユは視線を落とした。
「やっぱり……」
小さくため息を吐く。
その横でシルヴァンが楽しそうに笑う。
「ミレイユはアルベルトと組め」
レオニードは続ける。
「ロシュ家とモンフォール家の名を使い、注目を集めろ」
空気が一瞬止まった。
「……は?」
アルベルトが固まる。
数秒遅れて意味を理解した。
「俺が……?」
レオニードは気にも留めない。
「その間にリディアとシルヴァンは周囲を観察し、情報収集を行う」
今度はリディアの表情が変わった。
「私に殿下の側を離れろと……!?」
珍しく声が上ずる。
室内が静まり返った。
リディア本人は気付いていない。
だが、全員が気付いていた。
動揺している。
ものすごく。
「会場内だ」
レオニードが淡々と言う。
「私と近衛騎士も配置する」
「ですが――」
食い下がる。
普段のリディアならあり得ない反応だった。
「殿下に万が一のことが」
「ない」
即答。
「だが」
リディアはまだ納得していない。
本気で納得していない。
ミレイユが思わず呟いた。
「……思った以上に重症ですね……」
「だねぇ」
シルヴァンがしみじみ頷く。
「知ってたけど」
「知っていたが」
アルベルトも珍しく同意した。
「ここまでとは思わなかった」
リディアが振り返る。
「何だ」
三人が同時に視線を逸らした。
「やれるか」
レオニードが全員を見渡す。
「お前たち、ダンスの経験は」
リディアは即座に答えた。
「当然、習得しております」
そして視線を横へ向ける。
「相手に異論はありますが」
シルヴァンが肩をすくめる。
ミレイユも静かに頷いた。
「幼少期に習っていましたので、一応は」
アルベルトは顔をしかめる。
「……貴族の端くれだ、基礎くらいは」
そして視線をシルヴァンへ向けた。
「お前はどうなんだ」
「一応できるよ」
さらりと返ってくる。
「令嬢たちから誘われることも多いし」
アルベルトは絶句した。
(こいつ……モテるのか……?)
理解できない。
納得もできない。
(シルヴァンのくせに……!)
何となく腹が立った。
理由は自分でもよく分からない。
だが、シルヴァンは平然としている。
レオニードは小さく息を吐いた。
(提案した身で言うのも何だが……)
ほんの少しだけ頭が痛くなる。
(何だか不安になってきたな……)
*
夜会当日。
灯りがともる前の控えの間には静かな緊張が漂っていた。
まだ誰もいない空間に、衣擦れの音だけが微かに響く。
「夜会のドレスなんて久しぶりです」
ミレイユが裾を整える。
柔らかな布地が光を受けて揺れた。
幼い頃に着せられていた豪奢なドレスとは違う。
だが、どこか懐かしい。
「へぇ、いいじゃない」
シルヴァンが口笛を吹く。
隣には同じくドレス姿のリディア。
背筋を伸ばした姿は、誰が見ても名門貴族の令嬢だった。
だが、その指先だけは強く握られている。
「殿下を他の護衛に任せるなど……」
誰にも聞こえないほど小さな声。
「不安だ……」
ミレイユは苦笑した。
「お二人も素敵ですよ」
視線の先には夜会服に身を包んだ二人の男。
シルヴァンは相変わらず自然だった。
どんな服を着ても自分のものにしてしまう。
対してアルベルトは明らかに固い。
今にも戦場へ向かいそうな顔をしている。
「ほらほら」
シルヴァンが肩を叩く。
「ちゃんとお姫様をリードしなきゃ」
アルベルトは返事をしなかった。
拳を握る。
それだけで緊張が伝わってくる。
やがて時間となる。
重厚な扉が開いた。
無数のシャンデリアが天井から輝き、磨き上げられた床に光を落としている。
楽団の奏でる音楽。
華やかな衣装。
香水と酒の香り。
それらすべてが混ざり合い、夜会という一つの舞台を作り上げていた。
だが、その華やかさの下には別のものが流れている。
笑顔。
称賛。
祝福。
そのすべての裏側に、打算と牽制と探り合いが隠れている。
まるで全員が仮面を被っているようだった。
「……もう戦いは始まっていますね」
ミレイユが小さく呟く。
「俺には分からん」
アルベルトは率直だった。
だが、その視線はすでに周囲を警戒している。
「まあまあ」
シルヴァンが肩をすくめる。
「君たちは注目を集めるだけでいいんだから」
そう言いながらも、その瞳は絶えず周囲を観察していた。
誰が誰を見ているか。
誰が誰を避けているか。
その全てを拾い上げるように。
リディアの視線だけは一点に向いていた。
(殿下……)
会場の向こう。
王女エリシアの姿。
(殿下のお側にいたいのに……)
普段なら手を伸ばせば届く距離が、今はやけに遠く感じられた。
ひそひそと声が漏れる。
(あの方がロシュ家の長女……)
(体が弱いと聞いていたけれど……)
(なぜ今になって……)
(隣の騎士は誰だ……?)
視線が集まる。
それだけでレオニードの狙いは成功していた。
「……行きましょう、アルベルト」
ミレイユが静かに言う。
楽団が次の曲を奏ではじめる。
柔らかな旋律が広間を満たし、人々がゆっくりと動き出した。
ミレイユは一歩踏み出す。
自然な動きだった。
長い空白があったとは思えないほど滑らかに、身体が音楽を覚えている。
対してアルベルトは明らかに固かった。
肩に力が入っている。
表情も硬い。
周囲からは早速ひそひそと声が漏れていた。
(あれがロシュ家の長女か)
(隣は護衛騎士だろう)
(下級貴族出身だとか)
(随分と釣り合わない組み合わせね)
アルベルトはその視線を感じていた。
正直、居心地が悪い。
剣を向けられる方がよほど楽だった。
そんな彼の様子に気付いたのか、ミレイユが少しだけ距離を詰める。
「アルベルト」
静かな声。
「私を見てください」
「……ああ」
反射的に視線を向ける。
だが、それが失敗だった。
近い。
思った以上に近い。
整った顔立ち。
柔らかな微笑み。
淡く揺れる髪。
まともに見てしまったことを後悔した。
(逆に無理だろ……!)
胸の内だけで叫ぶ。
だが、その混乱とは裏腹に、足は少しずつ動き始める。
ミレイユは急がなかった。
相手の歩幅に合わせる。
呼吸に合わせる。
やがてアルベルトの肩から少しずつ力が抜けていった。
一歩、また一歩と。
ぎこちなかった動きが、少しずつ音楽へ溶け込んでいく。
「お上手です」
ミレイユが微笑む。
アルベルトは返事ができなかった。
ただ、その言葉だけが妙に胸へ残った。
*
その頃、シルヴァンとリディアもまたフロアを移動していた。
周囲から見れば優雅に踊る一組の男女。
距離も近い。
動きも自然だ。
だが。
「七時方向」
リディアが小さく言う。
「先ほどから三度こちらを見ている」
「了解」
シルヴァンは笑顔のまま答えた。
「軍務省の人間だね」
「知っているのか」
「顔だけ」
会話は淡々と続く。
その最中もリディアの視線は時折会場中央へ向いていた。
王女の姿を探している。
それを見たシルヴァンが苦笑した。
「そんなに心配?」
「当然だ」
即答だった。
迷いもない。
「今からでも戻りたい」
「そこまで?」
「そこまでだ」
シルヴァンは吹き出しそうになる。
会議のときから分かっていた。
分かっていたが、改めて聞くと本当に重症である。
その様子を少し離れた場所から見ていたミレイユも、思わず苦笑していた。
*
夜会は続く。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
楽団の奏でる音楽。
華やかな空気。
だがその奥に、ほんの僅かな異物が混じった。
ミレイユの表情が変わる。
何かが引っかかった。
空気が軋む。
見えない何かが流れ込んでくる感覚。
精神へ触れる者だけが分かる違和感。
ミレイユの瞳が細められた。
(……来る)
視線が自然と王女へ向く。
壇上。
完璧な微笑み。
優雅な立ち姿。
誰が見ても非の打ち所がない。
だが、ミレイユには見えた。
光を蝕もうとする歪み。
「アルベルト」
声は小さい。
だが確信があった。
「殿下が」
アルベルトも即座に理解する。
「……わかった」
ちょうど曲が終わる。
間髪入れず、数人の貴族が近づいてきた。
「ぜひ次の曲を――」
「見違えましたな」
「ご一緒させていただければ――」
ミレイユは柔らかく微笑む。
完璧な令嬢の仮面。
「ありがとうございます」
優雅に礼をする。
「ですが、少し疲れてしまいまして」
穏やかな拒絶。
誰の顔も潰さない。
「ということだ」
アルベルトが一歩前へ出た。
「今回は引いてくれ」
護衛騎士らしい無愛想さだったが、それで十分だった。
二人は人波を抜ける。
王女へ近づく。
近づくほど、歪みは強くなる。
「精神攻撃か」
「はい」
ミレイユが頷く。
「前回と同じ種類です」
「遠距離から仕掛けています」
呼吸を整える。
「私もここから干渉します」
アルベルトは頷いた。
「任せろ」
短い言葉。
だが十分だった。
「支える」
ミレイユは少しだけ笑う。
「ありがとうございます」
そして目を閉じた。
*
王女の内側。
そこには変わらず光があった。
広大で、強く、揺るがない。
太陽のような精神。
その輝きを見た瞬間、胸が熱くなる。
だが今回は見惚れない。
飲まれない。
前回の失敗を繰り返すつもりはなかった。
ミレイユは慎重に意識を進める。
やがて見つけた。
太陽へ絡みつく異物。
黒い靄。
歪んだ感情。
恐怖。
不安。
疑念。
それらを無理やり流し込もうとする何か。
(還れ)
静かに念じる。
押し返す。
一つずつ、丁寧に異物を剥がしていく。
相手の精神を傷つけないように。
王女の光を曇らせないように。
やがて、最後の一片が弾き飛ばされた。
その瞬間、光が強く輝く。
ミレイユは思わず目を細めた。
*
ミレイユの身体が僅かに揺れる。
アルベルトが即座に支えた。
「成功しました」
息が少し荒い。
「不当な干渉は断ち切れました」
アルベルトが小さく息を吐く。
「そうか」
ミレイユは額に浮かんだ汗を拭う。
「……ですが…今回は遠隔からの干渉でしたので…『糸』は付けられませんでした」
悔しそうに目を伏せた。
「……面目ありません」
アルベルトは数秒黙った。
そして。
「気にするな」
短く言う。
「殿下を守ったんだろ」
ミレイユが目を瞬かせる。
「……はい」
「なら十分だ」
*
壇上のエリシアは微笑みを崩さない。
誰も気付かない。
今しがた精神への攻撃を受けていたことなど。
(攻撃が止んだ……)
理解する。
(ミレイユね)
ほんの少しだけ安堵する。
そして優雅に一礼した。
「少々疲れましたので、私は先に失礼いたします」
穏やかな声。
「皆様方は、どうぞ楽しんでいらしてください」
完璧だった。
最後まで、王女として。
誰も異変に気付かない。
レオニードが静かに頭を下げる。
「……後は頼んだわ」
「御意に」
短いやり取り。
その背を、リディアが即座に追う。
ようやく。
ようやく王女の側へ戻れる。
その足取りは、先ほどまでより明らかに速かった。
「私は殿下のもとへ行く」
振り返りもせず言う。
「お前は適当に踊って情報を集めろ」
「つれないね」
シルヴァンが肩をすくめた。
だが、その一瞬だけ。
「……楽しかったよ」
軽く笑う。
「また踊ろう」
リディアは振り返らない。
「命令があれば、な」
その背は遠ざかっていく。
シルヴァンは小さく笑った。
そして再び夜会の中心へ戻る。
笑顔の仮面を被ったまま。
誰にも本音を見せないまま。
誰よりも多くを見ながら。
*
王女宮。
扉が閉まった、その瞬間だった。
エリシアの身体が崩れ落ちる。
「殿下!」
リディアが駆け寄る。
強く抱き留める。
大切なものを守るように。
エリシアはようやく息を吐いた。
夜会の間ずっと張り詰めていた緊張が解けていく。
「……リディア」
弱々しい声。
王女ではない、一人の少女の声だった。
「私……ちゃんと出来ていたかしら……?」
リディアは迷わなかった。
抱き寄せる腕に力が入る。
「ご立派でございました」
まっすぐに言う。
誇りを込めて、心の底から。
「誰よりも」
エリシアは目を見開く。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「ふふ……良かった……」
安堵したように目を閉じる。
その表情は、夜会で浮かべていた完璧な王女の微笑みではなかった。
ただ、十九歳の少女が見せる安堵の笑みだった。




