第16話:剣の在り処
レオニードの執務室には、まだ先日の余韻が残っていた。
目に見えるものではない。
ただ、空気のどこかに緊張の名残が沈んでいる。
「先日の殿下への精神攻撃についてだが」
レオニードは書類から視線を上げることなく言った。
「ミレイユのつけた『糸』を追っているところだ」
淡々とした声音だったが、その言葉の重みは軽くない。
「へえ」
シルヴァンが椅子にもたれながら口を開く。
「あれだけの精神攻撃を仕掛けて、しかも跳ね返されたんですからね」
それだけ、強い精神攻撃だった。
「反動で気が狂ってるか、死んじゃっててもおかしくない」
軽い口調とは裏腹に、その内容は笑い事ではなかった。
ミレイユは少しだけ目を伏せる。
「……何かしらの痕跡が残っているかもしれません」
静かな声だった。自分の放った魔力が、まだどこかへ繋がっている感覚は確かに残っている。
レオニードは小さく頷いた。
「特定するまで時間を要する、それまでミレイユは回復に専念しろ」
命令というより決定事項だった。
「ちゃんと守ってあげてね、護衛騎士さん」
シルヴァンが横目でアルベルトを見る。
「お前は黙ってろ」
短く切り捨てるような返答に迷いはない。
そのやり取りを横目に、ミレイユは静かに息を整えた。
まだ完全には戻りきっていない感覚が身体の奥に残っている。
それでも立っている。
それで十分だった。
*
王女宮の庭は穏やかな光に包まれていた。
整えられた草木。風に揺れる葉の音。外界の喧騒から切り離された静かな空間。
「本日のご公務、お疲れさまでした」
侍女姿のリディアが茶を注ぐ。
無駄のない所作は流れるようで、その一つ一つが美しく整えられている。
「ありがとう、リディア」
エリシアが柔らかく微笑む。
リディアの手が一瞬だけ止まった。
「……殿下ともあろうお方が、下々の者に簡単に礼を言ってはなりません」
淡々とした口調だった。
けれど、その奥にはほんのわずかな揺らぎがある。
――でも。
少しだけ。
――嬉しい。
その感情は決して表には出ない。
「ふふ」
エリシアは小さく笑った。
「公務中じゃないのだから、気楽にしてちょうだい」
その言葉に、空気が少しだけ和らぐ。
少し離れた場所で、その様子を見守っていた三人のうち、ミレイユが小さく呟いた。
「強い信頼関係ですね」
「異常なくらいだな」
アルベルトが腕を組んだまま言う。
「まあね」
シルヴァンが目を細める。
「あの子、立ち居振る舞いだけ見てたら貴族の令嬢にしか見えないんだよね」
「違うのか?」
アルベルトが眉をひそめる。
「違うだろうね」
シルヴァンは肩をすくめた。
「あれは生粋の貴族じゃない、後天的に身につけたものだ」
ミレイユはわずかに首を傾げる。
「なぜそう思うんです?」
「何となく、かな」
軽く答えるが、その目は笑っていない。
「礼の仕方も歩き方も完璧なんだよ」
シルヴァンは庭の向こうのリディアへ視線を向けた。
「たぶん、誰よりも努力したんだろうね」
「ああいうのは、生まれた時から身についてる人間の動きじゃない」
ミレイユはわずかに首を傾げる。
「違いが分かるものなのですか」
「分かるよ」
シルヴァンは頬杖をついた。
「貴族の子女って、意外と雑なところがあるんだ」
「だって失敗しても許されるからね」
少しだけ笑う。
「でも、後から身につけた人間は違う」
「一つでも間違えたら駄目だと思ってる」
「だから完璧にしようとするんだよ」
その視線は鋭い。
「だから逆に分かるんだよね」
ミレイユは少し考える。
「……努力の跡が見える、ということですか」
「そんな感じ」
シルヴァンは肩をすくめた。
「いろんな人間を見てると、少しの違いが目につくようになる」
そして、くすりと笑う。
「他人を観察するの、好きなんだよね」
ミレイユは少しだけ考えてから答えた。
「……あまりいい趣味ではありませんね」
柔らかな言葉だったが、きっぱり否定している。
その会話は風に紛れて消えるはずだった。
だが。
――聞こえている。
リディアの指先が、ほんのわずかに止まる。
彼女の感覚は鋭い。
音の重なりの中から必要なものだけを拾い上げることができる。
(常に殿下のお側にいるためなら、この程度のことが出来て当然だ)
それは誇りであり、当たり前のことでもあった。
だが。
――後天的。
その言葉が、記憶の奥を引いた。
視界がゆっくりと揺らぐ。
*
幼い頃。
暗い路地。
湿った空気。
鼻につく腐臭。
十歳ほどの少女がそこにいた。
リディア。
その名前すら意味を持たなかった頃の話だ。
スラムの犯罪組織に育てられた子ども。
暗殺者。
小さな身体は警戒を解くための道具だった。
疑われず、近づける。
だから使いやすい。
教えられたのはただ一つ。
――使われること。
それがすべてだった。
ある夜、突然周囲が騒がしくなった。
怒号。
足音。
金属音。
治安隊による、組織の摘発だった。
組織はあっけなく崩壊した。
逃げる価値すらない駒として、リディアは置き去りにされた。
捕縛されるのは早かった。
抵抗もしなかった。
する理由がなかった。
――自分には何もない。
その事実だけが静かに沈んでいた。
地下牢は静かだった。
冷たい石壁。
湿った空気。
天井近くの小さな鉄格子から差し込む光は弱く、昼なのか夜なのかも分からない。
ぽたり、と水滴が落ちる音だけが響いている。
膝を抱えたまま、リディアは壁際に座り込んでいた。
どれほどそうしていたのかも覚えていない。
空腹はとうに通り過ぎた。
寒さにも慣れた。
傷の痛みさえ、今では遠い。
何も感じない。
感じる必要がなかった。
生きる理由もない。
死ぬ理由もない。
ただ時間だけが過ぎていく。
それだけだった。
かつては、生きたいと思ったこともあった。
逃げたいと思ったこともあった。
だが、そのたびに現実はそれを踏みにじった。
期待するだけ無駄だと知った。
願うだけ苦しくなると知った。
だから、もう考えない。
何も望まない。
そうしていれば、傷つかずに済む。
そのはずだった。
そのときだった。
足音が聞こえた。
地下牢には似つかわしくない軽い足音。
規則正しく近づいてくる。
リディアは顔を上げない。
興味がなかった。
誰が来ても同じだ。
尋問官でも。
処刑人でも。
あるいは、新しい主人でも。
結末は変わらない。
「殿下、このような場所は――」
衛兵の声が聞こえた。
だが、途中で止まる。
静かな制止。
重い鉄扉が開き、軋む音が地下牢に響く。
差し込んだ光に、リディアは思わず目を細めた。
逆光の中に、一人の少女が立っていた。
思わず目を疑う。
この場所には、あまりにも不釣り合いだった。
汚れた石壁。
錆びた鉄格子。
湿った空気。
そのすべてと隔絶されたような存在。
少女は静かにこちらを見ていた。
怯えもない。
嫌悪もない。
憐れみさえない。
ただ、まっすぐに。
「あなたは、このまま死ぬつもりなの」
穏やかな声だった。
だが、その声は不思議なほどはっきりと届く。
逃がさない。
そう言われた気がした。
リディアはゆっくりと顔を上げる。
視線が合う。
澄んだ瞳だった。
そこには軽蔑も侮蔑もなかった。
だからこそ、理解できない。
「……殺すなら、さっさと殺せ」
かすれた声が漏れる。
それしか言えなかった。
期待したくなかった。
何かを差し出されたところで、どうせ失う。
そう知っている。
少女――エリシアは少しだけ首を傾げた。
「あなたはそれでいいの?」
静かな問い。
責めるでもなく、同情するでもなく。
ただ答えを求めている。
リディアは目を伏せた。
「……私には、何もない」
絞り出すような声。
「もう、何も」
言葉が続かない。
家も。
居場所も。
名前を呼んでくれる人も。
何も残っていない。
エリシアは迷うことなく一歩近づいた。
靴音が静かに響く。
「ならば」
その声に揺らぎはない。
「選びなさい」
リディアの目が揺れた。
選ぶ。
その言葉が理解できなかった。
今までの人生で、自分が何かを選べたことなど一度もない。
選ばれることもなかった。
利用されることはあった。
使われることもあった。
捨てられることもあった。
だが、選ばせられたことは、一度もなかった。
「このまま使い捨てにされたまま死ぬか」
リディアは息を止める。
それが自分の結末だと思っていた。
誰にも必要とされず、誰にも惜しまれず、忘れられたまま消える。
それだけの人生。
「それとも――」
エリシアは真っ直ぐにリディアを見据える。
「私の剣となるか」
思考が止まった。
剣。
その言葉だけが頭の中で反響する。
使われるのではない。
捨てられるのでもない。
選ばれる。
必要だと言われる。
その違いを、リディアは初めて知った。
震える指を握りしめる。
何もなかった。
何もないまま終わるはずだった。
だが今、目の前には選択肢がある。
それは奇跡に近かった。
長いようで短い沈黙の末、リディアは口を開く。
「……なる」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
「あなたの……剣に」
リディアがそう答えても、エリシアはすぐには頷かなかった。
ただ静かに見つめていた。
試すわけでも、値踏みするわけでもなく、その言葉の重さを確かめるように。
やがて小さく息を吐く。
「……そう」
短い言葉だった。
だが、その声にはわずかな安堵が混じっていた。
リディアは気づく。
この少女は、自分を必要としている。
その事実が胸の奥に落ちた。
だが次の言葉は予想外だった。
「でも、私はあなたに命令しない」
リディアの呼吸が止まる。
「え……」
理解が追いつかない。
「あなたは選んだのよね」
静かな確認。
「なら、その選択はあなたのものよ」
逃げ場のない言葉だった。
「私のために生きるのも、やめるのも」
さらに一歩近づく。
地下牢の冷たい空気の中で、その一歩だけが温度を持っていた。
「あなたが決めなさい」
まっすぐな視線。
押し付けない。
だが逸らさない。
リディアの中で何かが軋んだ。
命令と従属しか知らなかった人生。
その少女は、それを与えない。
代わりに差し出してきた。
――選択を。
重い。
あまりにも重い。
だが不思議と恐ろしくはなかった。
初めて、自分の中に何かがあると認められた気がした。
リディアはゆっくり顔を上げる。
今度は自分から視線を合わせた。
「……それでも」
声は震えていた。
それでも止まらない。
「私は……あなたの剣になります」
選ばされるのではない。
自分で選ぶ。
その瞬間、エリシアはほんのわずかに目を見開き、そして柔らかく笑った。
完璧な王女の微笑みではない。
もっと小さく、もっと個人的な笑顔。
「……ありがとう」
その一言が深く静かに刺さる。
誰かに礼を言われたことはあったかもしれない。
だが、存在そのものに向けられた言葉は初めてだった。
リディアの中で何かが定まる。
揺らがない芯。
この人のために。
ただ、それだけでいい。
それだけで十分だった。
*
それ以降の時間は、すべてそのために使われた。
所作。
言葉遣い。
知識。
立ち方。
歩き方。
呼吸の仕方まで。
死に物狂いで覚えた。
スラムでの生活に比べれば、どれも苦ではなかった。
むしろ与えられたこと自体に意味があった。
――ここにいていい理由。
それを掴んだのだから。
*
意識が現在へ戻る。
リディアは変わらぬ所作で茶を差し出す。
揺らぎはない。
乱れもない。
ただ、そこに在る。
エリシアの傍らに。
それが当然であるかのように。
王女のためなら、自分の命など微塵も惜しくない。
自分の存在を、すべて捧げる。
それが、彼女が自ら選び取った生き方だった。




