第15話:残光
光が遠ざかり、輪郭が戻る。
体の重さが戻る。
呼吸の感覚が戻る。
胸の奥に鈍い痛みが走った。
次の瞬間、全身から力が抜ける。
「っ……」
膝が崩れ落ちそうになる。
その前に腕を掴まれた。
強い力だった。
現実の感触。
ミレイユはゆっくりと目を開く。
視界はまだぼやけており、光の残像が消えない。
まばたきを繰り返し、少しずつ焦点を合わせる。
見えたのは、白い寝台。
穏やかな寝息を立てるエリシア。
そして、自分を支えているアルベルトの姿だった。
「……あ……」
喉がひどく乾いている。
うまく声が出ない。
それでも、伝えなければならないことがあった。
「……成功……しました……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「不当な干渉を……断ち切りました……」
レオニードが目を細める。
張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
ミレイユは続ける。
「再度攻撃されない限り……当面は護符で……防げるはずです……」
「そうか」
レオニードが静かに息を吐く。
その短い言葉に、どれほどの安堵が込められているのか。
ミレイユにも分かった。
「ご苦労だった」
「やるじゃん」
シルヴァンも軽く笑う。
だが、その声にもいつもの軽薄さはなかった。
ミレイユは小さく頷く。
そして、もう一つだけ報告する。
「……干渉は……術者へ跳ね返しました……」
呼吸が浅い。
頭が重い。
それでも言葉を止めない。
「相応の反動が……返っているはずです……」
「十分だ」
レオニードが答える。
それ以上話さなくていい、と言外に告げるように。
「……もう一つ」
ミレイユが言う。
少し息を整えてから続ける。
「干渉を跳ね返した際……術式に目印を残しました」
レオニードの視線が鋭くなる。
「追跡可能か」
「はい」
ミレイユは頷く。
「ただ……私には術式解析の知識がありません」
正直な答え。
「繋がっていることは分かりますが、その先までは……」
そこでシルヴァンが口を挟む。
「専門外だもんね」
レオニードは少し考えたあと、
「魔術師団へ回す」
と即断する。
「追跡と解析は専門部署に任せる」
「……お願い、します」
その瞬間だった。
視界が揺れ、足元の感覚が消えた。
世界が傾く。
「――っ」
体が倒れかける。
アルベルトが反射的に腕を伸ばした。
細い身体を支える。
驚くほど軽かった。
「おい」
低い声。
「……すみません……」
かろうじて声だけが返る。
「ちょっと……疲れました……」
アルベルトは眉を寄せた。
ちょっと、で済む状態には見えない。
レオニードが立ち上がる。
「アルベルト」
「はい」
「部屋に連れて行って休ませろ」
短い命令だった。
アルベルトは頷く。
その様子を見ていたシルヴァンが、にやりと口元を歪めた。
「へぇ」
面白そうな声。
「ずいぶん優しいじゃないか、騎士様」
アルベルトの眉がぴくりと動く。
「……うるさい」
「いやいや、いいことだよ?」
シルヴァンは肩をすくめる。
「でもさ」
わざと声を落とす。
「手出しちゃだめだよ」
室内が一瞬だけ静かになった。
アルベルトが固まる。
意味を理解するまで数秒。
そして。
「……は?」
低い声。
「なに想像してんだてめぇ……!」
即座に睨みつける。
だがミレイユを支えている腕は離さない。
シルヴァンは楽しそうに笑った。
「そういう反応するから面白いんだよ」
「黙れ」
「はいはい」
ひらひらと手を振る。
「落とすなよ?」
最後にそう言い残し、部屋を出ていった。
アルベルトは盛大に舌打ちする。
(なんなんだ、あいつは)
毎回毎回、本当に余計なことしか言わない。
だが、今は相手をしている余裕もなかった。
「……行くぞ」
ミレイユへ声をかける。
「……はい」
返事はする。
だが力が入っていない。
王女の私室を出る。
夜の王宮は静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように消えている。
等間隔に並ぶ灯りだけが、長い廊下を照らしていた。
アルベルトは歩きながら眉をひそめる。
軽い。
本当に軽い。
こんな身体で、あれほど危険なことをしていたのか。
「……歩けるか」
短く問う。
ミレイユは目を開いた。
「……大丈夫です……」
そう言って一歩踏み出す。
だが、足がもつれる。
体が傾く。
アルベルトは即座に支え直した。
「無茶しやがって」
呆れた声。
ミレイユは少し驚いたように目を瞬く。
「……すみません」
「謝るな」
即答だった。
ミレイユがきょとんとする。
アルベルトは視線を逸らした。
「……時間の無駄だ」
苦しい言い訳だった。
だが、それ以上は何も言わない。
ミレイユも何も言わなかった。
ただ、少しだけ体を預ける。
二人は静かな廊下を歩いた。
一定の歩幅。
安定した足取り。
そのリズムに合わせるうちに、ミレイユの呼吸も落ち着いていく。
ふと、暖かいと思った。
先ほど触れた光とは違う。
もっと粗くて、もっと現実的で。
だからこそ安心できる暖かさ。
(……戻ってきた)
ようやく実感する。
「……ありがとうございます」
ぽつりと呟く。
アルベルトは答えない。
だが歩く速度がほんの少しだけ緩んだ。
*
寝台に腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けた。
緊張が解けたのだろう。
急激な疲労が押し寄せる。
アルベルトは少し離れた位置へ立った。
だが、いつでも支えられる距離は保っている。
「……ありがとうございます」
もう一度、今度ははっきりと言った。
アルベルトは短く息を吐く。
「礼はいい」
ぶっきらぼうな返事だった。
だが帰ろうとはしない。
ミレイユは少しだけ視線を落とした。
「……本当は」
言葉を探す。
「怖かったんです」
アルベルトが黙る。
ミレイユは自分の手を見る。
まだ少し震えていた。
「殿下を傷つけてしまったらどうしようって」
正直な言葉だった。
精神へ触れる、それは決して安全な行為ではない。
少し間違えれば、取り返しのつかない傷を残す。
「だから……怖かったんです」
小さな声。
アルベルトはしばらく黙っていた。
やがて口を開く。
「……でも」
短い言葉。
「助けただろ」
それだけだった。
慰めでもない。
励ましでもない。
ただの事実。
だが、ミレイユには十分だった。
目を見開く。
それから、ゆっくり頷いた。
「……そうですね」
安堵が胸に広がる。
「良かった……」
本心だった。
アルベルトは壁へ背を預ける。
腕を組む。
剣では守れないものがある。
そんなこと、考えたこともなかった。
精神。
心。
見えない場所。
そこを守ったのはミレイユだった。
「……とにかく休め」
少しだけ声が柔らかくなる。
「レオニード様もそう言う」
ミレイユは小さく笑った。
「お優しいですね」
「違う」
即座に否定。
だがミレイユは笑っている。
その様子に、アルベルトはますます不機嫌そうな顔になった。
「……おやすみなさい」
瞼が落ちる。
数秒後には呼吸が規則正しくなった。
眠ったのだ。
アルベルトはしばらくその姿を見ていた。
動かずに。
静かに。
(……別に優しくねぇよ)
心の中だけで呟く。
だが、その場を離れるまで少し時間がかかった。
*
翌朝。
窓から柔らかな朝日が差し込んでいた。
控えめなノックが響く。
「……入るぞ」
返事を待たずに扉が開く。
入ってきたのはリディアだった。
いつもと変わらない姿。
だが、その目はどこか柔らかい。
ミレイユは慌てて起き上がる。
「おはようございます」
「昨夜はご苦労だった」
短い言葉。
けれど重みがあった。
ミレイユは頭を下げる。
「いえ、お役に立てたなら……」
リディアは少しだけ言葉を探した。
珍しいことだった。
そして。
「……礼を言う」
真っ直ぐにミレイユを見る。
「殿下を助けてくれてありがとう」
そこで少しだけ息を吐く。
「……ミレイユ」
名前を呼んだ。
はっきりと。
ミレイユは目を見開く。
そして嬉しそうに微笑んだ。
「……名前で呼んでくださったのですね」
その反応に、リディアはわずかに視線を逸らす。
「……私も」
少しだけ言いづらそうに。
「様はいらない」
そして言い切る。
「そのまま呼べ」
命令口調だった。
だが、その声音はどこか柔らかい。
ミレイユは静かに頷いた。
「……わかりました」
微笑む。
「リディア」
その呼び方に、リディアの目がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だけ。
だが確かに。
「……ああ」
短く答える。
それ以上は何も言わない。
けれど部屋を出ていく足取りは、昨日までより少しだけ軽かった。
王女宮の朝は穏やかだった。
そして、その穏やかさを取り戻したのは、一人の少女が太陽へ手を伸ばした結果だった。




