第14話:太陽に触れる
レオニードの執務室は静まり返っていた。
窓から差し込む昼の光が机の上を照らしている。
整然と積まれた書類も、いつもと変わらない。
だが、部屋に漂う空気だけは重かった。
レオニードは椅子に腰掛けたまま口を開く。
「王女殿下は、最近になって悪夢にうなされているようだ」
淡々とした声音だった。
「それだけではない]
その奥には押し殺した焦りが滲んでいる。
「日中も気を抜くと混乱しそうになることがあるとのことだ」
言葉が落ちる。
室内に沈黙が広がった。
軽く聞き流せる話ではない。
王女エリシアの不調は、そのまま国政にも影響する。
ミレイユは静かに視線を伏せた。
「……精神干渉、ですか」
問いというより確認だった。
レオニードは頷く。
「その可能性が高い」
そして続ける。
「だが、不可解だ」
その言葉に、シルヴァンも珍しく真面目な顔をした。
レオニードは机の上で指を組む。
「王女殿下は類まれなる精神力の持ち主だ」
断言だった。
「でなければ、あの若さで陛下に代わり政治を取り仕切ることなどできまい」
誰も異論はない。
エリシアが背負っているものを知っているからだ。
「大抵の精神干渉であれば、ご自身で弾くだろう」
「確かにそうですよね」
シルヴァンが肩をすくめる。
「王女殿下の胆力は規格外だ」
軽い口調だったが、否定はしていない。
ミレイユは少しだけ目を伏せる。
感じていたものを言葉にするか迷うように。
やがて顔を上げた。
「……それだけではなく」
静かな声。
「王女殿下を守護する何かを感じます」
その瞬間、レオニードの視線が鋭くなった。
「気付いたか」
小さく息を吐く。
「殿下は精神干渉を阻む護符を常に身につけておられる」
「護符?」
アルベルトが眉をひそめる。
「王宮魔術師たちが長い年月をかけて編み上げたものだ」
レオニードは続けた。
「殿下自身の精神力に加え、その護符がある」
つまり二重の防御。
普通なら突破できるはずがない。
「そんな防御を抜いて精神へ干渉するなど、本来ありえない」
部屋が静かになる。
だからこそ異常だった。
シルヴァンが口元に手を当てた。
「つまり、相当やばい相手ってことですか」
「そういうことだ」
レオニードは頷いた。
そして、ミレイユへ視線を向ける。
「……お前ならともかく」
その言葉にアルベルトの眉がぴくりと動く。
ミレイユは静かに受け止めた。
「私を疑っておられますか」
「いや」
レオニードは即座に否定した。
「お前が精神干渉しているなら気付く」
迷いのない声だった。
「長期間の精神干渉は術者自身を蝕む」
ミレイユを見れば分かる。
少なくとも、そうした兆候はない。
ミレイユは小さく息を吐いた。
「……私の役目は」
レオニードは頷く。
「まず、王女殿下にかけられた干渉を解除する」
そして。
「原因を突き止め、可能な限り排除する」
明確な指示だった。
ミレイユは深く頭を下げる。
「承知いたしました」
そして続けた。
「ただ、そのためには王女殿下の精神へ干渉する必要があります」
室内の空気がわずかに張り詰める。
「危険はないのか」
レオニードが問う。
ミレイユは正直に答えた。
「……断言はできません」
少しだけ視線を落とす。
「精神干渉は、私自身も完全に理解できているとは言えません」
シルヴァンが苦笑した。
「怖いこと言うね」
「事実です」
ミレイユは淡々と答える。
レオニードはしばらく黙り込んだ。
やがて、静かに口を開く。
「……それでも、お前に賭ける」
重い言葉だった。
「殿下のご様態は日に日に悪化している」
もう猶予はない。
「今夜にでも頼む」
命令ではなかった。
願いだった。
シルヴァンはそれを聞いて目を細める。
(焦ってるな)
レオニードが誰かに頼み事をする。
それだけで事態の深刻さが分かる。
*
夜。
王女の私室には静かな灯りが落ちていた。
エリシアは寝台の上で穏やかに微笑む。
「お願いね」
柔らかな声。
「ミレイユ、あなたを信じているわ」
その笑顔はいつも通り完璧だった。
だが、ミレイユには見える。
疲労が積み重なっている。
無理を重ね続けている。
だからこそ。
「……お任せください」
静かに答えると、エリシアはわずかに目を細めた。
「ありがとう」
その微笑みは、いつもと変わらず柔らかい。
王女として、誰かを安心させるための笑顔。
けれど今は、その奥に隠された疲労も見えてしまう。
昼も夜もなく政務に追われ、誰よりも多くの人の期待を背負い続けている人だ。
本来なら、誰かに弱音を吐いても許されるはずなのに。
この人は、それをしない。
できないのかもしれない。
「今夜は、何も考えずにお休みください」
ミレイユがそう告げると、エリシアは少しだけ驚いたように目を瞬いた。
そして、くすりと小さく笑う。
「そうね」
その声は、いつもより少しだけ力が抜けていた。
「そうさせてもらうわ」
寝台へ身を預ける。
長い金髪が白い枕へ流れ落ちる。
透き通るような白い肌。
整った横顔。
閉じられた瞳の下には、うっすらと疲労の影が落ちていた。
誰も気づかないほど僅かなものだ。
だが、ミレイユには分かる。
無理をしている人の気配は、嫌でも伝わってくる。
エリシアはゆっくりと目を閉じた。
呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
肩の力が抜ける。
王女としての仮面が、眠りとともに薄れていく。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
レオニード。
シルヴァン。
リディア。
アルベルト。
全員が部屋に残っている。
誰も声を発しない。
ミレイユは寝台の傍らへ膝をついた。
そっと目を閉じる。
呼吸を整える。
意識を沈める。
精神へ触れるとき。
それは覗くことではない。
境界が薄くなる感覚だった。
相手へ触れる代わりに、自分も晒される。
だから怖い。
他人の内側へ踏み込むということは、自分の内側も差し出すということだから。
ミレイユは小さく息を吐いた。
「……始めます」
意識を滑り込ませる。
ゆっくりと。
慎重に。
傷つけないように。
その瞬間。
圧が来た。
「……っ」
思わず息を呑む。
強い。
あまりにも強い。
深く。
広く。
そして揺るがない。
まるで巨大な大樹のような精神だった。
ミレイユは目を見開く。
(……なんて強い精神力)
圧倒される。
これほどのものを見たことがない。
(殿下……)
胸が少しだけ痛んだ。
(ずっと一人で耐えていらしたのですね)
さらに奥へ進む。
そこで見つけた。
異物。
絡みつく違和感。
黒い靄のようなもの。
精神を蝕む不快な歪み。
ミレイユは静かに手を伸ばした。
(王女殿下を蝕ませはしない)
包み込む。
優しく。
傷つけないように。
そして押し返す。
静かに。
確実に。
絡みついていた異物がほどけていく。
崩れていく。
消えていく。
そのとき、ミレイユは、ふと違和感を覚えた。
(……繋がっている)
完全に切れていない。
異物の奥。
見えない先へ。
細い糸のようなものが伸びている。
術者。
攻撃元。
精神干渉は無から発生しない。
必ず誰かがいる。
ミレイユは一瞬だけ迷った。
だが。
(……今だけ)
指先ほどの魔力を伸ばす。
攻撃を押し返す流れに紛れ込ませるように。
ほんの僅か。
気づかれない程度に。
自分の魔力を絡ませる。
細い糸。
蜘蛛の糸よりも細く。
だが決して切れない目印。
(見つけます)
静かな決意。
(必ず)
そして、干渉を押し返した。
その瞬間だった。
光が広がった。
どこまでも果てしなく。
暖かな光。
眩しい光。
すべてを包み込むような光。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
誰よりも強く、誰よりも眩しい。
その輝きは圧倒的だった。
「まるで、太陽のよう……」
暖かい。
優しい。
強い。
だからこそ、守られているような気がした。
包まれているような気がした。
(……ここにいたい)
ふと、そんな感情が生まれる。
もっと近くに。
もっと深く、この光の中に。
境界が薄くなる。
自分と相手の区別が曖昧になっていく。
心地いい。
暖かい。
離れたくない。
意識が溶けていく。
*
「……ミレイユ?」
レオニードが眉をひそめた。
反応がない。
ミレイユは目を閉じたまま微動だにしない。
違和感。
嫌な予感。
レオニードの顔色が変わる。
「まずい」
その声で全員が顔を上げた。
「ミレイユの精神が引きずられている」
空気が一変する。
「何だって?」
アルベルトが顔をしかめる。
レオニードは低く言った。
「自我の境界が消えれば戻れなくなる」
シルヴァンの表情も消える。
「そんな危険だったんですか!?」
誰も答えない。
ミレイユは動かない。
まるで眠っているようだった。
リディアは唇を引き結ぶ。
アルベルトが一歩前へ出た。
「おい」
反応はない。
「おい!」
返事はない。
焦りが胸を焼く。
何故なのかは分からない。
だが、このままでは駄目だと思った。
アルベルトは思わず叫ぶ。
「戻れ!」
それでも反応はない。
そして。
「ミレイユ!!」
光の中で、その声が響いた。
遠くから、確かに届いた。
ミレイユの意識が揺れる。
(……呼ばれている?)
振り返る。
光の向こうに現実が見えた。
(……戻る)
そう思った瞬間、光が遠ざかる。
暖かさが離れていく。
どこまでも優しく、どこまでも穏やかな輝きだった。
離れたくないと思った。
もう少しだけ、この光の中にいたいとも思った。
だが、それは自分の居場所ではない。
ミレイユは意識を引き戻す。
光が薄れる。
そして――
意識が現実へ引き戻された。




