第13話:残り香
翌日。
王女宮の空気は、昨日と変わらず静かだった。
だが、その静けさの質は違う。
穏やかな静寂ではない。
何かを警戒し、気を張り詰めた静けさだった。
ミレイユは侍女姿のまま廊下を歩いている。
隣には護衛として付き従うアルベルト。
二人の足音だけが規則正しく石床へ響いていた。
「……で」
不意にアルベルトが口を開く。
「何から調べる」
短い問いだった。
無駄がない。
ミレイユは前を向いたまま答える。
「共通点です」
「昨日、体調不良を訴えていた方々の生活や習慣、接触したものを調べます」
「生活までか」
「はい」
ミレイユは頷いた。
「原因が精神干渉なら、どこかに痕跡があります」
少し考え、
「精神干渉でなくても、何かしらの共通項は残るはずです」
アルベルトは腕を組んだ。
「地道だな」
「ですが確実です」
即答だった。
アルベルトは小さく息を吐く。
「お前らしい」
ミレイユは意味が分からず首を傾げたが、アルベルトはそれ以上説明しなかった。
*
最初に訪れたのは、昨日茶会で体調を崩した令嬢の私室だった。
案内された部屋は上品に整えられている。
華美すぎない調度品。
清潔な室内。
だが扉を開けた瞬間、ミレイユはわずかに目を細めた。
(……同じ)
香りだ。
昨日の茶会で漂っていたものと酷似している。
甘く柔らかい。
そして少しだけ重い。
令嬢が申し訳なさそうに頭を下げた。
「昨日はお見苦しいところを……」
顔色は戻っている。
だが目元には疲労が残っていた。
「体調はいかがですか」
ミレイユは穏やかに問いかける。
「今は落ち着いております」
令嬢は微笑んだ。
しかし、その笑みはどこか弱々しい。
「ですが最近は、どうしても眠りが浅くて……」
「夢をご覧になるのですか」
「ええ」
令嬢の表情が曇る。
「内容ははっきり覚えていないのですが、とても嫌な夢なのです」
「目が覚めても不安だけが残っていて……」
ミレイユは静かに頷いた。
そして視線を室内へ巡らせる。
机。
本棚。
化粧台。
寝台。
そのときだった。
卓上の小さな瓶へ目が留まる。
繊細な装飾が施された香水瓶。
淡い桃色の液体が入っていた。
「こちらは」
ミレイユが尋ねる。
令嬢の表情が少し明るくなった。
「ああ、それですか」
瓶を手に取る。
「最近流行っている香水です」
「皆さま使っていらっしゃるんですよ」
アルベルトが怪訝そうな顔をした。
「香水?」
「はい」
令嬢は嬉しそうに微笑む。
「とても良い香りでしょう?」
ミレイユは瓶を見つめた。
手は伸ばさない。
触れない。
ただ意識を向ける。
その瞬間だった。
視界の端が揺れる。
ほんの一瞬、空気の輪郭が歪んだように見えた。
(……)
ミレイユはすぐに意識を引く。
深追いはしない。
だが一つだけ確信する。
(影響がある)
「毎日お使いですか」
「ええ」
令嬢は頷いた。
「外出する日は必ず」
ミレイユはそれ以上追及しなかった。
だが記憶には刻み込む。
香水。
一つ目の共通点。
その後も調査は続いた。
*
別の令嬢の私室を訪れる。
彼女はまだ若い。
だが、顔色は明らかに悪かった。
「最近、人の視線が怖いのです」
令嬢は震える声で言った。
「皆さまが私を笑っているような気がして」
指先を強く握り締める。
「そんなはずないと分かっているのです」
「なのに」
目が揺れる。
「誰かと話すたびに」
「嫌われているのではないかと思ってしまうのです」
ミレイユは静かに話を聞く。
そこに悪意はない。
ただ恐怖だけがある。
必要以上に膨らんだ不安。
それが彼女を蝕んでいた。
*
さらに別の令嬢の部屋。
今度の令嬢は鏡の前に立ったまま動かなかった。
「鏡を見るのが嫌なの」
ぽつりと言う。
「自分の顔なのに」
鏡へ視線を向ける。
「自分じゃないみたいで」
その声は掠れていた。
「昨日より醜くなった気がする」
「今日より明日はもっと醜くなる気がする」
「そんなはずないのに」
苦しそうに笑う。
「止まらないの」
ミレイユは胸の奥が重くなるのを感じた。
どれも人が元々抱えていた不安だ。
だが、それが異常なほど増幅されている。
まるで傷口を何度も抉るように。
*
その後も二人は、複数の令嬢のもとを訪れる。
夢を見る者。
眠れなくなった者。
理由のない不安に苦しむ者。
軽い幻覚を訴える者。
症状には差がある。
だが共通するものもあった。
そして、その全員の部屋で同じものを見つける。
小さな香水瓶。
形は違う。
装飾も違う。
だが香りは同じだった。
調査を終えた帰り道。
アルベルトが口を開く。
「どう思う」
ミレイユは少しだけ考えた。
「共通しています」
「香り、使用状況、症状」
アルベルトは腕を組む。
「原因か」
「可能性は高いです」
だが、ミレイユは首を横に振った。
「断定するには、まだ足りません」
慎重な口調だった。
「香水そのものなのか、別のものと組み合わされているのか、意図的なのか」
そこまで言って、ミレイユは小さく息を吐いた。
「そこまでは分かりません」
そのとき。
「へえ」
背後から声がした。
振り返る。
シルヴァンだった。
いつの間に現れたのか分からない。
「ちゃんと見てるね」
ミレイユは軽く一礼した。
「状況の整理です」
「で?」
シルヴァンは香水瓶を一つ持ち上げる。
「これが怪しい、と」
「影響は確認できます」
ミレイユは慎重に答えた。
「ただし、精神干渉と同一とは言い切れません」
シルヴァンの目が細くなる。
「似せている可能性もあるか」
「……はい」
その言葉に沈黙が落ちた。
もし精神干渉ではないのなら。
もし精神干渉に似た症状を人工的に作り出しているのなら。
それは極めて厄介だった。
*
数日後、回収された香水は王宮の一室へ集められていた。
卓上に並ぶ小瓶。
装飾は違う。
だが香りはほぼ同一だった。
甘く、重たい花の香り。
今回の事件の共通点。
シルヴァンはそれを眺めながら、ふと呟いた。
「これさ」
全員の視線が向く。
「犯人、女社会をよく分かってるよね」
アルベルトが眉をひそめた。
「どういう意味だ」
シルヴァンは肩をすくめる。
「貴族の令嬢が流行り物を断れると思う?」
沈黙。
誰もすぐには答えない。
「皆が使ってる」
「だから使う」
「皆が褒める」
「だから欲しくなる」
資料を指先で叩く。
「しかも相手は貴族だ」
「自分だけ持ってないなんて言えない」
シルヴァンは苦笑した。
「強制してないのに広がる」
「一番面倒なやつだよ」
アルベルトが低く唸る。
「趣味が悪いな」
「でしょ?」
シルヴァンは笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「で、ここからどう辿る?」
シルヴァンが瓶を指先で転がす。
「流通経路を確認します」
ミレイユは即答した。
「どこから入り、誰を経由し、誰へ渡ったのか」
「収束するか分散するかで意図が見えます」
アルベルトが眉をひそめた。
「回りくどいな」
「ですが確実です」
同じ返答だった。
それから数刻後。
机の上には仕入れ記録や商会の資料が積み上がっていた。
シルヴァンが資料へ目を通しながら呟く。
「……なるほど」
指先が紙をなぞる。
「一本じゃない」
「何がだ」
アルベルトが尋ねる。
「経路」
シルヴァンは資料を広げる。
「複数の商会を経由してる」
「そのたびに別の業者を挟んでる」
アルベルトの表情が険しくなる。
「追跡避けか」
「そういうこと」
シルヴァンは肩をすくめた。
「偶然じゃない」
ミレイユは資料を見つめる。
経路は複雑だ。
だが届いている先には偏りがある。
「……使用者が偏っています」
全員の視線が集まる。
「王女派の令嬢に集中しています」
リディアの目が鋭くなった。
「間違いないか」
「はい」
ミレイユは頷く。
「他派閥にはほとんど流れていません」
アルベルトが低く息を吐いた。
「露骨だな」
「いや」
シルヴァンが首を振る。
「露骨に見えないようにしてる」
資料を軽く叩く。
「経路はバラバラ、供給元も複数、でも結果だけ見ると偏ってる」
そして笑う。
「つまり、狙ってるけど証拠は残さないやり方」
室内が静まり返る。
エリシアは黙って話を聞いていた。
その沈黙は重い。
やがて小さく息を吐く。
「……こちらを狙ったものと考えるべきでしょうね」
誰も否定しない。
アルベルトがぽつりと呟く。
「保守派か」
その瞬間、空気が張り詰めた。
誰もが考えていた可能性。
だが証拠はない。
シルヴァンが肩をすくめる。
「可能性は高い」
「でも証拠はない」
それが現実だった。
経路は切られている。
意図は見える。
だが誰がやったのかまでは届かない。
リディアが腕を組む。
「結局、推測か」
「はい」
ミレイユは静かに答えた。
「現時点では」
アルベルトが舌打ちする。
「気に入らねぇな」
「そういうものだよ」
シルヴァンは苦笑した。
「表に出るのはいつだって切り捨てられる部分だけ」
「本体は見えないところにいる」
エリシアがゆっくり頷く。
「では今回の件は、原因は特定、発信源は不明という扱いにしましょう」
誰も異論を唱えない。
「香水の回収と使用停止を通達します」
「承知しました」
リディアが答える。
ミレイユも小さく頷いた。
これで被害は止まる。
だが問題は終わっていない。
アルベルトが窓の外を見ながら呟く。
「……水面下、か」
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
見えない場所で争いがある。
正面から剣を交えるわけではない。
証拠も残さない。
だが確実に相手を削る。
それが王宮の戦いだった。
ミレイユは指先をわずかに握る。
香りはやがて消える。
だが、その裏にある悪意は消えない。
静かに、確実に、次の一手を待っている。
そして彼女たちもまた、その気配を感じ始めていた。




