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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第26話:東方砦と温泉と

「東方砦の視察に出る」

朝食の席で、アロイスが唐突に告げた。

「期間は一週間ほどだ」

エルザが顔を上げる。

「東方砦?」

「ああ、定期視察だ」

東方砦は、帝国東部の山岳地帯に築かれた重要拠点である。

国境へ続く街道を押さえる、防衛の要でもあった。

エルザは少し考え、それから父を見る。

「父上、私も同行してよろしいでしょうか」

アロイスが視線を向けた。

「理由は」

「いずれ公爵家を継ぐのであれば、領地や軍についても知っておく必要があると思います」

迷いのない答えだった。

アロイスは娘をしばらく見つめ、それから頷く。

「構わん」

それだけで許可は下りた。

ミレイユはそのやり取りを見ながら、そっと目を細めた。

少し前まで、強くなることばかりを追いかけていた娘が、自分から領地や統治へ目を向けようとしている。

その成長が、素直に嬉しかった。

その一方で。

「……姉上、いいなぁ」

ぽつりと呟いた声があった。

ディートハルトである。

本人は独り言のつもりだったらしいが、この場にいる全員にはしっかり聞こえていた。

「よし、家族で行こう」

アロイスが即答した。

あまりにも早かった。

ディートハルトが目を丸くし、ミレイユは額に手を当てる。

「あなた……公務なのですけれど」

「支障はない」

「そういう問題では……」

ミレイユは小さくため息をついたが、その口元には笑みが浮かんでいた。

結局、視察にはミレイユとディートハルトも同行することになった。

なお、テオドールは兵舎勤務があるため帝都に残る。

そのことを聞いたエルザは何も言わなかったが、ほんの少しだけ残念そうに視線を落とした。

*

帝国東部。

一行を乗せた馬車は数日をかけて山岳地帯を進み、やがて巨大な石造りの砦へとたどり着いた。

切り立った山々に囲まれた天然の要害。

長い年月、風雪に耐えてきた高い城壁は、見上げるだけでも圧迫感がある。

谷間を吹き抜ける風も冷たく、帝都とは気候そのものが違っていた。

「これが東方砦だ」

アロイスの言葉に、エルザは黙って砦を見上げる。

ここが帝国を守る最前線の一つ。

地図の上では何度も目にした場所だが、実際に立ってみると、その大きさも重みもまるで違った。

砦の内部では、兵たちが慌ただしく行き交っている。

見張り台や兵舎、武器庫、補給倉庫。

アロイスは現地の指揮官と共に一つずつ見て回りながら、兵の配置や物資の状況を確認していった。

「備蓄は」

「現在の人数であれば、三か月は維持できます」

「冬季は」

「雪で街道が塞がる可能性を考え、追加分を入れる予定です」

「予定では遅い。いつまでに運び込める」

「……二週間以内には」

「一週間で終わらせろ。天候が崩れてからでは間に合わん」

「はっ」

質問は鋭く、判断も早い。

エルザは少し後ろを歩きながら、その姿をじっと見ていた。

父が強いことは知っている。

けれど、今日ここで見ているのは、剣を握る父の姿ではなかった。

兵の食事は足りているのか。物資は何日持つのか。

雪で道が閉ざされたらどうするのか。

敵が来れば、どこで迎え撃ち、誰をどこへ配置するのか。

一つの砦を守るだけでも、考えなければならないことはいくらでもある。

剣一本で解決できることなど、その中のほんの一部に過ぎなかった。

ふと、エルザは城壁の上から谷を見下ろした。

細く曲がりくねった街道を、荷馬車がゆっくりと進んでいる。

あの荷馬車が無事に到着することも、ここで暮らす兵たちが冬を越せることも、誰かが考え、備えているからこそ成り立っている。

(……守るというのは、こういうことでもあるのか)

エルザは改めて、父の背中を見つめた。

少し離れたところでは、ディートハルトも真剣な表情で指揮官たちの話を聞いていた。

姉とは違う道を選んだとしても、公爵家の一員であることに変わりはない。

自分にできることを探すように、一つでも多くのことを学び取ろうとしている。

挿絵(By みてみん)

そんな二人の背中を、ミレイユは少し後ろから見守っていた。

幼い頃は、ただ親の背中を追いかけていた子供たち。

今はそこから、自分たちの未来に必要なものを学ぼうとしている。

そう思うと、胸の奥が静かに温かくなった。

*

その日の夜。

砦に併設された温泉施設には、冷えた身体を包み込むような湯気が立ち上っていた。

男湯の露天風呂では、アロイスとディートハルトが肩まで湯に浸かっている。

山の夜風は冷たいが、その分、温かな湯が心地いい。

頭上には、帝都ではなかなか見られないほど多くの星が瞬いていた。

「……気持ちいいですね」

ディートハルトが息を吐く。

「そうだな」

珍しく、アロイスもすぐに答えた。

ディートハルトは湯の中で少し身体を伸ばし、ほっと息をつく。

慣れない山道を馬車で揺られ、砦の中を歩き回ったせいか、思っていた以上に疲れていたらしい。

「のぼせる前に上がれよ」

「はい、父上」

そう答えながらも、ディートハルトはもう少しだけ湯に浸かっていたかった。

親子の間に会話は多くない。

それでも、沈黙が気まずいわけではなかった。

しばらく二人で夜空を眺めていたディートハルトが、やがて口を開く。

「父上」

「なんだ」

「今日の視察、僕も来てよかったです」

アロイスが息子を見る。

「姉上が公爵家を継いでも、僕にもできることはあると思うので」

「ある」

返事は短かった。

だが、迷いはなかった。

ディートハルトが顔を上げる。

「剣が使えなくとも、魔術がある。それ以外にも、お前にできることはいくらでもある」

「……はい」

ディートハルトは嬉しそうに笑った。

父は、姉と同じ道を歩けとは言わない。

自分には自分の役割があると、当然のように認めてくれている。

それが、何より嬉しかった。

アロイスはそれ以上何も言わず、再び夜空へ目を向けた。

同じ景色を眺め、同じ湯に浸かる。

今はそれだけで十分な時間だった。

*

一方、女湯。

こちらも岩造りの露天風呂である。

月明かりが湯面に映り、白い湯気の向こうで揺れていた。

エルザは肩まで湯に浸かりながら、今日見てきたものを思い返している。

「どうだった?」

隣でミレイユが尋ねた。

エルザは少し考えてから答える。

「……思っていた以上に、考えることが多かった」

「そうね。公爵というのは、強いだけでは務まらないもの」

エルザは頷いた。

兵士たちの生活も、補給も、地形も、砦そのものも、すべてが戦いに繋がっている。

そして、そのすべてを考えることが、守るということなのだろう。

今までは、強ければ守れるのだと思っていた。

けれど、それだけではない。

「……でも」

エルザは顔を上げた。

「やれるようになりたい」

迷いのない声だった。

ミレイユは微笑む。

「ええ。今すぐ全部できる必要はないわ」

「うん」

「これから覚えていけばいいのよ」

エルザはしばらく母を見つめ、それから小さく頷いた。

「……分かった」

再び湯に身体を沈める。

先ほどより、少しだけ肩の力が抜けていた。

「それにしても、いいお湯ね」

ミレイユが気持ちよさそうに目を細める。

「……うん」

「エルザも、少しは休まないとね」

「休んでいるつもりだけど」

「お風呂に入りながら、ずっと砦のことを考えていたでしょう?」

図星だった。

エルザが黙り込むと、ミレイユはくすりと笑った。

「今日はもう、公爵家の跡継ぎはお休みにしましょう」

「……分かった」

エルザもつられて笑う。

今だけは、母と娘。

二人は並んで夜空を見上げ、温かな湯に身を委ねた。

*

翌日、一行は砦近くの山間の町へ立ち寄った。

石畳の小さな通りには土産物屋や菓子店が並び、旅人や兵士たちで賑わっている。

ディートハルトは真剣な顔で店を見て回っていた。

「エドガー先生には、これがいいかもしれません」

選んだのは、この地方で作られた実用的な文具だった。

さらに別の店で足を止める。

「ルカには……これかな」

今度は少し楽しそうだ。

エルザはそんな弟を見ながら、自分も店先の商品へ視線を向ける。

そこで、木彫りの小さな装飾品が目に留まった。

派手ではないが、木目を生かして丁寧に作られている。

エルザはそれを手に取り、しばらく眺めたあと、店主へ差し出した。

「……これにする」

誰に渡すのかは言わなかった。

けれど、その横顔を見れば、ミレイユにはなんとなく察しがついた。

「素敵ね」

「……うん」

エルザは少しだけ頬を緩め、丁寧に包まれた品を受け取った。

少し離れた場所では、アロイスも土産を見ている。

「ルドルフにはこれでいいか」

「いいと思います。マルガレーテたちには、お菓子を多めに買っていきましょうか」

「ああ」

最初は公務だったはずの視察が、いつの間にか、少しだけ家族旅行のようになっていた。

*

そして数日後。

長旅を終えた馬車が公爵邸の正門前へ滑り込む。

一行が馬車から降りた、その時だった。

「団長ぉぉぉぉぉ!!!!」

遠くから爆音のような声が響いた。

見れば、ライナーが全力疾走でこちらへ向かってくる。

門番が避け、庭師が避け、使用人たちは慣れた様子で道を開ける。

誰も驚かない。

ライナーはその勢いのまま、一行の前で急停止した。

「おかえりぃぃぃぃ!!!!」

声がでかい。

アロイスが眉を寄せたが、何も言わずに歩き出す。

「待て待て待て!聞いてくれ!」

ライナーが慌てて後を追った。

「俺、この一週間めちゃくちゃ頑張ったんだぞ!?騎士団の管理もした!書類も見た!」

指を折りながら、自分の働きを必死に数え上げていく。

「訓練もした!サボってねぇ!」

副団長なのだから当然である。

しかし、本人にとっては偉業らしい。

「やっと業務から解放された!褒めてくれ!」

「私の方は滞りなく進めておきました」

エドガーが淡々と報告する。

「不在期間中の異常もありません」

ヴァルターも続けた。

「問題がないなら、それでいい」

アロイスが言う。

以上。

ライナーが固まった。

「……それだけ?」

アロイスはすでに屋敷へ向かっている。

「おい、団長!?俺、一週間頑張ったんだけど!?」

遠ざかっていくアロイスの背中へ、なおも食い下がる。

「書類も見たんだけど!?サボらなかったんだけど!?」

「……お疲れ様でした」

ディートハルトが振り返って頭を下げる。

ライナーの顔が輝いた。

「ディー……!」

感極まって抱きつこうとする。

しかし、その進路をエドガーが腕一本で塞いだ。

「やめてください」

「なんでだよ!?感動の再会だろ!?」

「馬鹿がうつります」

「ひどくねぇ!?」

完全に拒絶されたライナーを見て、ミレイユが笑う。

「よくやってくれたわ」

ライナーが振り返った。

「ミレイユ……!」

一週間の苦労が、たった一言で報われたらしい。

「やっぱりお前は優しいなぁぁぁぁ!!」

「うるさい」

エルザが顔をしかめる。

「ひどい!!」

いつものライナーだった。

*

その後、応接間では東方土産の配布が始まった。

山岳地帯の菓子や工芸品、薬草茶などがテーブルに並べられ、使用人たちにも土産が渡されていく。

「エドガー先生、これを」

ディートハルトから文具を渡され、エドガーが目を見開いた。

「私にですか?」

「はい。先生が使いやすそうだと思って」

「……ありがとうございます」

いつもより返事が少し遅い。

かなり嬉しいらしい。

ルカにも土産が渡された。

「これ、僕から」

「俺に?」

「うん」

「ありがとう、ディー!」

ルカは嬉しそうに受け取り、すぐに中身を覗き込んでいる。

ルドルフにも、マルガレーテにも、メイドたちにも土産が行き渡った。

そんな光景を、ライナーは機嫌よく眺めていた。

やがて、ふと気づく。

自分には何も来ていない。

「……なあ」

誰も反応しない。

「俺のは?」

土産を配っていた者たちの動きが止まった。

ライナーは嫌な予感を覚えた。

「……エルザ?」

エルザが視線を逸らす。

「……忘れていた」

「おい」

続いてライナーがディートハルトを見る。

「……ディー?」

ディートハルトも申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんなさい」

「ディーまで!?」

最後の望みを託すように、ライナーがミレイユを見る。

ミレイユは困ったように笑った。

「……ごめんなさいね」

「ミレイユぅぅぅ!!」

そして残るは、アロイスだけだった。

ライナーが恐る恐る振り返る。

「……団長」

「買っていない」

即答だった。

「なんでだよ!!」

「必要ないだろう」

「一番ひどい!!!!」

ライナーが膝から崩れ落ちた。

少し離れたところで、そのやり取りを見ていたエドガーが眼鏡を押し上げる。

「日頃の行いですね」

「お前は黙ってろ!!」

一週間真面目に働き、ようやく褒めてもらえたと思った矢先に、今度は土産を忘れられる。

先ほどまで上機嫌だったライナーは、がっくりと肩を落とした。

その時。

「親父」

ルカが呼んだ。

ライナーが顔を上げる。

ルカは自分がもらった菓子袋を開けると、中身を半分ほど取り分け、ライナーへ差し出した。

「これ、半分あげる」

ライナーが固まった。

「……いいのか?」

「うん。一緒に食おうぜ」

「……でも、それはお前がディーからもらった土産だろ?」

「だから半分。俺の分もちゃんとあるし」

ルカは何でもないことのように答えた。

「それに、親父、一週間頑張ったんだろ?」

ライナーが目を見開く。

「……ああ」

「じゃあ、ご褒美!」

そう言って、ルカはにかっと笑った。

ライナーはしばらく息子の顔を見つめていた。

つい先ほどまで、自分だけ土産がないと大騒ぎしていた。

けれど今、差し出された菓子を前にすると、不思議と言葉が出てこない。

ルカは、自分が欲しくてたまらなかったものを、何のためらいもなく分けてくれた。

しかも、父親の仕事をちゃんと認めてくれている。

「……ルカ」

「ん?」

「……ありがとな」

珍しく、静かな声だった。

ルカは少し照れくさそうに笑う。

「いいって。親子だろ?」

その一言で、ライナーの表情が崩れた。

「ルカぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

勢いよく息子を抱きしめる。

「うわっ!重い重い重い!」

「俺の息子が優しいぃぃぃぃ!!」

「分かったから離せって!」

「親父は嬉しいぞぉぉぉ!!」

「菓子が潰れるだろ!!」

口調は乱暴だが、ルカは笑っていた。

周囲からも笑い声が漏れる。

エドガーは呆れたようにため息をつき、ミレイユは微笑ましそうに親子を見つめていた。

ライナーはようやく腕を緩めると、差し出された菓子を一つ受け取った。

「……うまいな」

「だろ?」

ルカも隣で菓子を頬張る。

二人は顔を見合わせ、笑った。

結局。

誰よりも嬉しい土産をもらったのは、ライナーだったのかもしれない。

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