第23話:シュタルク家の夜会
シュタルク公爵家が夜会を開く――。
その話が持ち上がった時、帝都の貴族社会は少なからずざわついた。
理由は明白だった。
これまで社交界にほとんど姿を見せなかった公爵令嬢、エルザ・シュタルク。
その正式な社交界デビューの場になるからだ。
当然ながら、公爵邸では準備が始まった。
特に大騒ぎになったのは、メイドたちである。
ダンスに立ち居振る舞い、挨拶や会話、貴族社会の常識から夜会での細かな所作まで、覚えなければならないことはいくらでもあった。
訓練所では並の騎士を圧倒するエルザも、社交の場となれば経験が圧倒的に足りない。
結果、一か月に及ぶ地獄の特訓が始まった。
「エルザ様、背筋です!」
「顎を引きすぎです!」
「もっと優雅に!」
「剣を振る時みたいな顔をしないでください!」
悲鳴を上げたのは、主に教える側のメイドたちだった。
エルザは真面目である。
そして、真面目すぎた。
教えられたことは完璧にこなそうとするため、意識すればするほど動きが硬くなる。
「違います、エルザ様!歩くだけです!敵陣へ向かっているのではありません!」
「歩いているだけだ」
「目が戦っています!」
「どうしろと」
「もっとこう……優雅に!」
「分からん」
何度教えても、そこへ戻ってくる。
途中からマルガレーテが頭を抱え、ルドルフが遠い目をし始めた。
それでも努力は無駄にはならなかった。
持ち前の真面目さもあり、繰り返すうちにエルザは少しずつ貴族令嬢らしい振る舞いを身につけていった。
そして、この特訓にはもう一人、当然のように巻き込まれた男がいる。
テオドールだった。
「エスコート役なんですから、当然です」
マルガレーテは満面の笑みで言った。
拒否権はなかった。
こうしてテオもまた、ダンスのステップから歩幅、手の取り方、視線の向け方、相手との距離まで、一か月に及ぶ猛特訓を受けることになった。
最初こそ二人ともぎこちなかった。
けれど、何度も練習するうち、不思議なくらい動きが噛み合うようになっていった。
相手が次にどちらへ動くのか。
どの程度の力で導けばいいのか。
どの瞬間に自分が動けばいいのか。
それは二人にとって、まったく未知の感覚ではなかった。
訓練所で剣を交える時と同じだ。
互いの動きを見て、読み、合わせる。
そう考えれば、ダンスも少しだけ分かりやすくなった。
そして、一か月後。
ついにその日が訪れた。
*
夜の公爵邸は、普段とはまるで違う姿を見せていた。
無数の燭台に火が灯され、巨大なシャンデリアから黄金色の光が降り注ぐ。
磨き上げられた大理石の床は鏡のように輝き、楽団の奏でる音楽が広間を満たしていた。
帝都でも屈指の格式を誇るシュタルク公爵家が主催する夜会とあって、集まった顔ぶれも華やかだった。
やがて、貴族たちの視線が階段へ集まっていく。
それまで広間を満たしていたざわめきが、次第に小さくなった。
エルザが姿を現したのだ。
身にまとっているのは、深い藍色を基調としたドレスだった。
装飾は控えめだが、その分、エルザ自身が持つ凛とした美しさを引き立てている。
丁寧に整えられた髪には小ぶりな髪飾りが添えられ、灯りを受けて淡く輝いていた。
堂々とした立ち姿には、剣を構えた時にも似た芯の強さがある。
少なくとも、周囲からはそう見えた。
(……やる)
本人には、そんな余裕はまったくなかった。
一か月、逃げ出したくなるほど繰り返してきた礼法とダンス。
ここまで来た以上、全部出し切るしかない。
エルザは階段を下り始めた。
無数の視線が自分へ向けられているのが分かる。
それでも顔を伏せず、教えられた通りに背筋を伸ばして前を見る。
その先に、テオがいた。
黒を基調とした正装に身を包み、階段の下で待っている。
普段の訓練着とはまるで違う姿だったが、不思議とよく似合っていた。
視線が合う。
テオは何も言わず、小さく頷いた。
それだけで、エルザの肩から少し力が抜けた。
階段を下りきると、テオが手を差し出す。
エルザは迷わず、その手を取った。
一か月前なら、こんなふうに自然にはできなかっただろう。
二人は並んで広間の中央へ進む。
やがて音楽が変わり、最初のダンスが始まった。
まったく緊張していないわけではない。
それでも、身体は覚えていた。
テオの動きに合わせて一歩を踏み出し、曲に合わせて向きを変える。
次にどちらへ動くのかも、繰り返した練習と相手のわずかな動きから分かる。
テオは無理に引っ張らない。
けれど、エルザが迷えばきちんと導く。
エルザもそれに応じた。
剣を持ってはいない。
戦うわけでもない。
それでも、相手の動きを読み、自分の動きを合わせるという意味では、訓練所で向かい合う時とどこか似ていた。
そう思った途端、身体から余計な力が抜けた。
「……エルザ」
テオが小さく呼ぶ。
「何だ」
「今の方がいい」
「そうか」
それだけで十分だった。
曲が終わり、二人が最後の所作までやり切る。
次の瞬間、広間に大きな拍手が広がった。
儀礼だけではない。
確かな賞賛が混じっている。
その音を聞いて初めて、エルザは自分がやり遂げたのだと実感した。
*
拍手が収まり、貴族たちがそれぞれの輪へ戻ってからも、エルザとその隣に立つテオへ向けられる視線は消えなかった。
好意的なものもあれば、単なる興味もある。
当然、面白く思わない者もいた。
「……あれがシュタルクの嫡女か」
年嵩の貴族がワイングラスを傾ける。
「思ったよりは様になっているな」
「ですが、やはり少々硬いのではなくて?」
隣にいた婦人が、扇で口元を隠して笑った。
「幼い頃から社交界に出ていれば違ったのでしょうけれど。聞けば、剣ばかり振っていたそうですわ」
「公爵令嬢らしくはありませんな」
少し離れた場所では、別の者たちがテオを話題にしていた。
「それよりも、隣の青年だ。騎士見習いだったか?」
「家柄も大したことはないらしい」
「シュタルク家も人材不足か」
本人たちには聞こえないと思っているのだろう。
声量こそ抑えているものの、そこに含まれた悪意まで隠す気はないらしい。
「嫡男は剣の才に恵まれず、嫡女は剣術に入れ込みすぎている。公爵家の将来は大丈夫なのかね」
「婿の来手もなさそうだ。今のうちに縁談でも探した方がいいのでは?」
近くでワインを口にしていたミレイユの笑顔が止まった。
もっとも、ほんの一瞬のことだった。
すぐに誰もが見惚れるような、公爵夫人らしい優雅な微笑みに戻る。
(……あら)
その笑顔のまま、ミレイユは思った。
(皆さま、幻覚で三日三晩ほど地獄を見てみます?)
非常に危険だった。
何より、本当にできるところが危険だった。
しかし、公爵夫人は理性的である。
たぶん。
きっと。
おそらく。
ミレイユは微笑みを崩さないまま、会話の輪へ歩み寄った。
「シュタルク家は少々特殊でして」
その声に、話していた者たちが振り返る。
「我が家では、肩書きよりも本人の意思を大切にしておりますの」
柔らかな口調だった。
それでも、聞いていた者たちは自然と口を閉ざした。
「何を選び、どう生きるか。それを他者が決めることはございません」
ミレイユは美しく微笑む。
「ですから、世間の評価よりも、本人たちが選んだものの価値を信じておりますの」
誰も反論しなかった。
公爵夫人の言葉としては、どこまでも柔らかい。
だが、意味は明確だった。
――余計なお世話ですわ。
そう言われたも同然である。
しかし、シュタルク家の過保護勢はそれで終わらなかった。
少し離れた場所では、アロイスがグラスを持ったまま、その一団を見ていた。
「……今一度、この家を血の海にしてやろうか」
冗談に聞こえないのが恐ろしい。
隣にいたエドガーは、顔色一つ変えなかった。
「後始末でしたらお任せください」
「ディートハルト様を侮辱した者も含めて処理しましょう」
こちらも止める気がない。
そして、ライナーはもっと単純だった。
陰口を叩いていた貴族たちを睨みながら、拳を握りしめる。
「……俺の嫁を馬鹿にするやつには、鉄拳かましてやる……」
声は抑えている。
さすがにここがエルザのデビュー夜会だということくらいは分かっているらしい。
ヴァルターが横から訂正する。
「嫁ではありません」
少し考えてから、
「まだ」
と付け加えた。
エドガーがそちらを見る。
「そこでもありません。勝手に話を進めないでください」
「じゃあ婿だ」
「あなたも話を進めないでください」
「なんでだよ」
「皆さま」
ルドルフが疲れた顔で口を挟んだ。
「鉄拳をかます相談をする場所でもございません」
「まだやってねぇだろ」
「今後もおやめください」
ライナーは不満そうだったが、それ以上は騒がなかった。
一応、副団長である。
*
その頃、騒ぎの中心となっている二人は、驚くほど平和だった。
エルザは窓際に立ち、夜の庭園を眺めている。
煌めく灯りも、遠くから聞こえる音楽も、貴族たちのざわめきも、そこに立っていると少しだけ遠く感じられた。
隣にはテオがいる。
それだけで、不思議と落ち着く。
エルザは小さく息を吐いた。
「……聞こえたか」
「ああ」
テオにはそれだけで通じた。
陰口も、値踏みするような声も、侮るような視線も、すべて気づいていた。
エルザはしばらく庭園を眺めていたが、やがて小さく笑った。
「……どうでもいいな」
拍子抜けするほど、あっさりした言葉だった。
テオもわずかに口元を緩める。
「同意する」
自分たちが何者なのか。
何を積み重ねてきたのか。
それは、自分たちが一番よく知っている。
ならば、他人が勝手につける評価など気にする必要はない。
エルザが手を差し出すと、テオは何も言わずに取った。
もう、その程度のことで迷う二人ではなかった。
広間では、楽団が次の曲を奏で始めている。
「行くか」
「ああ」
二人は再び広間の中央へ向かった。
今度は最初の時よりもずっと自然に。
周囲からどれだけ視線を向けられても、もう気にならなかった。
*
夜会も半ばを過ぎた頃、一人の壮年の貴族が二人へ近づいてきた。
仕立ての良い正装の胸元には、由緒ある伯爵家の紋章がある。
周囲の様子からして、それなりの有力者なのだろう。
男はまずエルザへ一礼した。
「エルザ様」
「伯爵。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
エルザも教えられた通りに応じる。
一か月前なら怪しかったところだが、今の所作には公爵令嬢として不足はない。
少し離れた場所で見守っていたメイドたちが、感動のあまり目元を押さえていた。
エルザ本人は気づいていない。
「本日はお見事でした。実に堂々としておられた」
「ありがとうございます」
褒め言葉を受けたあと、伯爵の視線がテオへ移る。
「そして、そちらが」
悪意があるわけではない。
だが、明らかに値踏みする目だった。
テオは動じることなく、一礼する。
「テオドール・ヘルダーです」
「ほう。聞いております。近頃、シュタルク家で最も注目されている若者だと」
伯爵は興味深そうに目を細めた。
「平民出身だとか」
「はい」
「貴族社会には慣れましたかな」
「まだ学ぶことばかりです」
卑屈になるでもなく、かといって虚勢を張るわけでもない。
その答えを聞いて、伯爵の目がわずかに変わった。
「なるほど」
そこから、いくつかの問いが続いた。
これまで受けてきた教育や、騎士としてどのような道を歩むつもりなのか。
明らかに試されている。
それでもテオは、知らないことを知っているふりはせず、自分の考えを飾ることもなく、一つずつ答えていった。
いつの間にか、周囲にも人が集まっていた。
最初は単なる好奇心だった視線が、やがて興味へ変わっていく。
伯爵は最後まで聞くと、満足そうに笑った。
「なるほど。噂以上ですな」
テオは黙って次の言葉を待つ。
「失礼ながら、少々見誤っておりました」
率直な言葉だった。
「恐縮です」
テオが頭を下げる。
そのやり取りを隣で見ていたエルザは、なぜか少しだけ胸を張っていた。
もちろん、本人にその自覚はなかった。
*
少し離れた場所では、アロイスが腕を組んでその様子を見ていた。
隣にはエドガーがいる。
しばらく何も言わなかったアロイスが、やがてぽつりと呟いた。
「……悪くない」
エドガーがわずかに目を見開いた。
アロイスの口から出る言葉としては、かなり珍しい。
「それは、褒め言葉と理解してよろしいのですか」
「違う」
返答だけは早かった。
「まだ早い」
エドガーは小さく笑う。
「十分だと思いますが」
アロイスは何も返さなかった。
ただ、再びテオへ目を向ける。
娘の隣に立つ男を見るその眼差しは、以前よりもほんの少しだけ柔らかくなっていた。




