第22話:評価の更新
公爵家訓練所。
昼の陽光が石畳を照らし、乾いた風がゆるやかに吹き抜ける中、あちこちから木剣の打ち合う音と騎士たちの掛け声が響いていた。
いつもと変わらない訓練風景の中で、エルザはふと動きを止めた。
視線の先にいたのはライナーだった。
別の騎士を相手に手合わせをしているが、本人にとっては軽い稽古なのだろう。
それでも、踏み込みの鋭さも間合いの取り方も、並の騎士とは明らかに違う。
対峙している騎士は必死に食らいついているものの、実質的には一方的だった。
攻撃を受ければ体勢を崩され、どうにか立て直したところへ次の一手が来る。
それでも倒れずにいられるのは、ライナーが寸前で力を抜き、相手に立て直す余地を与えているからだ。
本気なら、とっくに勝負は終わっている。
エルザはしばらくその様子を眺めていた。
そして、不意に数日前の出来事を思い出す。
裏路地で自分へ伸びた不埒な手と、それを遮るように飛び込んできたライナー。
あの時もそうだった。
普段の騒がしさなど微塵も感じさせない、迷いのない判断。
圧倒的な力を振るいながら、相手を殺さない程度に抑えるだけの技量。
ライナーが強いことなど、昔から知っていた。
騎士団の副団長を務め、幾度も実戦を潜り抜けてきた男だ。
弱いはずがない。
ただ、その強さを改めて考えたことはなかった。
声が大きく、うるさく、何かあれば考えるより先に身体が動く。
エルザにとってのライナーは、ずっとそんな男だった。
けれど、こうしてちゃんと見れば分かる。
あの強さは、勢いだけで成り立っているものではない。
長年積み重ねてきた鍛錬と実戦、その中で培われた経験や勘、そして自分の力を自在に制御する技術。
そのすべてがあるからこそ、ライナーは強いのだ。
(……やっぱり、強いんだな)
思ったことが、そのまま口から零れた。
「……ライナーは、強いんだな」
独り言のつもりだった。
ところが、不幸なことに。
聞こえてしまった。
本人に。
ライナーの動きがぴたりと止まった。
その瞬間、周囲にいた騎士たちが揃って嫌な予感を覚えた。
ゆっくりと振り返ったライナーの顔に、満面の笑みが広がっていく。
「おおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
爆音だった。
近くの木に止まっていた鳥が一斉に飛び立ち、騎士たちが反射的に耳を塞ぐ。
そして次の瞬間には、ライナーはもうエルザの目の前にいた。
「やっと気づいたかエルザァァァァァ!!!!!!」
近い。
圧倒的に近い。
思わず半歩下がったエルザにも構わず、ライナーは胸を張った。
「そうだろうそうだろう!!!俺は強ぇんだ!!!」
「……うるさい」
「ついに俺の魅力が分かったか!!!!!」
誰もそこまでは言っていない。
しかしライナーは止まらなかった。むしろ勢いを増し、これでもかと胸を張る。
「よし!!!!!」
その一言で、訓練所にいる全員が次に何が来るのかを察した。
「嫁に来い!!!!!!」
誰も何も言わなかった。
風だけが訓練所を吹き抜けていく。
騎士たちは揃って目を閉じた。
――やっぱりか。
そして次の瞬間。
「「「違う!!!!!!」」」
四方八方から総ツッコミが炸裂した。
エドガーが額を押さえる。
「論点が崩壊しています」
その横から、ヴァルターが淡々と補足した。
「婿です」
「そこではありません」
エドガーが訂正すると、ディートハルトも呆れたようにため息を吐いた。
「根本的に違います」
「なんでだよ!エルザが俺の強さに気づいたんだぞ!?」
「強いと言っただけだ」
エルザ本人から無慈悲な事実を突きつけられる。
「ひどくねぇか!?」
「事実です」
エドガーが追撃した。
ライナーが何か言い返そうとした、その直後だった。
彼の身体が横へ吹き飛んだ。
「副団長、歳を考えろ!!」
「お嬢様を娶ろうなどと、身の程を知れ!!」
「いい加減にしろ、この馬鹿副団長!!」
四方八方から罵声が飛んだ。
誰かに蹴られ、起き上がろうとしたところを殴られ、最後にはそのまま引きずられていく。
完全なる制裁である。
「理不尽だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
絶叫だけが訓練所の空へ響いた。
*
嵐が過ぎ去ると、訓練所にはようやくいつもの調子が戻った。
騎士たちも苦笑しながらそれぞれの訓練へ戻っていく。
そんな中、ルドルフが前へ出た。
地面に転がっているライナー、無言で腕を組むエドガー、なぜか少し離れた位置にいるヴァルター。
そして呆れた顔をしているエルザとテオ。
一同を見渡したルドルフは、小さく息を吐いた。
「……鉄血公爵も、戦闘狂も、どこへ行ったのでしょうねぇ」
誰も答えなかった。
「ここにいるわぁぁぁぁ!!!!」
地面からライナーが全力で主張したが、誰も拾わない。
エドガーだけがそちらを見て、
「黙っていてください」
と容赦なく切り捨てた。
「理不尽!!!!!!」
本日何度目か分からない絶叫が響く。
エルザは地面に転がるライナーから視線を逸らし、ぼそりと呟いた。
「……確かに、どこへ行ったんだろうな」
隣にいたテオも真顔で頷く。
「戻ってくる見込みは薄い」
「ひどくねぇか!!!!」
もはや完全敗北だった。
エルザは思わずテオを見る。
テオもこちらを見ていた。
目が合った途端、どちらからともなく口元が緩んだ。
*
公爵邸、執務室。
机の上には、領地運営や騎士団関連、貴族との折衝など、処理すべき書類が山のように積まれていた。
にもかかわらず、シュタルク公爵アロイスのペンは先ほどからほとんど動いていない。
肘をつき、深々とため息を吐く。
(……集中できん)
原因は分かっていた。
むしろ、分かりすぎるほど分かっている。
エルザだ。
最近、娘が明らかに変わった。
髪を以前より丁寧に整えるようになり、服装にも少し気を遣うようになった。
表情も柔らかくなり、笑う回数まで増えている。
そして何より。
(……可愛くなっている)
昔から整った顔立ちではあった。
それがここにきて、父親として非常に落ち着かない方向へ磨きがかかっている。
娘の成長は嬉しい。
もちろん嬉しいのだが、それだけでは済まない何かが胸の奥に引っかかっていた。
例えるなら、丹精込めて育ててきた宝剣に、ある日突然「そろそろ持ち主が現れました」と告げられたような感覚だ。
理屈では理解できる。
感情がまったく納得しない。
アロイスはとうとうペンを置いた。
完全に仕事が止まった、その時だった。
ノックもなく執務室の扉が開く。
「団長ぉぉぉぉ!!」
ライナーだった。
顔を見た瞬間、アロイスの眉間に深い皺が寄った。
帰れ。
まだ何も聞いていないのに、そう思った。
「聞いたか!?」
今日もライナーは無駄に元気だった。
「何をだ」
「エルザがどんどん嫁らしくなって――」
「……誰の」
最後まで言わせてもらえなかった。
アロイスのこめかみがわずかに動く。
それを見て、さすがのライナーもようやく危険を察したらしい。
「え、いや、その、だから俺の――」
机が軋んだ。
アロイスが立ち上がる。
それだけで、ライナーがじりじりと後退した。
「貴様」
「待て団長。話せば分かる」
「いつからそんな錯覚をしている」
「いや、エルザ本人が婿に来いって言ったんだぞ!?」
「エドガー」
ライナーの訴えを完全に無視して名を呼ぶと、扉の横からエドガーが姿を現した。
いつからいたのかは分からない。
「はい」
「処分しろ」
「理不尽!!!!!!」
エドガーは叫ぶライナーにも動じず、真顔で尋ねる。
「社会的にですか?物理的にですか?」
「どっちも嫌だ!!!!」
そこへ、今度はヴァルターまで顔を出した。
「婿なのに嫁と言うからです」
アロイスとエドガーが同時にそちらを見る。
「違う」
「違います」
「そこじゃねぇ!!!!」
ライナーが頭を抱えて崩れ落ちた。
*
その頃、公爵家訓練所では、訓練を終えたエルザとテオが並んで歩いていた。
二人の距離は近い。
肩が触れそうで触れない程度だが、以前なら考えられなかった距離だった。
それを今では、本人たちがほとんど意識していない。
むしろ気にしているのは周囲だった。
騎士見習いたちが、先ほどからちらちらと二人を見ている。
「……見られているな」
エルザが呟くと、テオも周囲へ目をやった。
「分かる」
その直後、近くにいた見習いたちのひそひそ声が耳に入った。
「やっぱり付き合ってるよな……」
「完全にそうだろ……」
「この前、普通に手繋いでたし……」
「もう隠す気なくね……?」
エルザの足が止まった。
振り返った途端、見習いたちの背筋が一斉に伸びる。
「何か問題があるか」
真顔で尋ねただけなのだが、完全に尋問だった。
「「「ありません!!!!」」」
反射的な返事が重なる。
エルザは満足そうに頷いた。
「そうか」
隣でテオがため息を吐く。
「……その対応はやめろ」
「事実確認だ」
「そういうところだ」
「何がだ?」
エルザには本当に分かっていない。
見習いたちは心の中で、テオの言葉に全力で同意していた。
少し離れた場所では、ディートハルトが腕を組んで二人を眺めていた。
隣にはエドガー。
さらに後方には、いつの間にかヴァルターまでいる。
もはや完全に観察班だった。
「……やはり、進展しましたね」
ディートハルトが言うと、エドガーも頷く。
「ええ。予定よりやや早いですが、許容範囲でしょう」
「誤差範囲ですねぇ」
ヴァルターまで加わり、完全に研究報告の様相を呈していた。
三人の視線の先では、そんなことなど知らないエルザとテオが、相変わらず近い距離で並んで歩いている。
*
執務室では、ライナーがまだ生きていた。
奇跡的に。
アロイスはすでに椅子へ戻っていたが、相変わらずペンを握る気配はない。
(……可愛くなっている)
結局、また同じところへ思考が戻ってくる。
娘が成長していることなど分かっている。
いつまでも幼いままではないことも、そのうち自分たちの手を離れていくことも、頭では理解していた。
だが、理解と納得は別物だった。
「……気が散る」
アロイスが机を指先で軽く叩く。
エドガーが冷静に告げた。
「職務に支障が出ています」
「分かっている」
「分かっていて改善しないのが一番問題です」
容赦がない。
その横で、懲りない男がまた口を開いた。
「だから嫁に出――」
「黙れ」
最後まで言わせてもらえなかった。
ライナーは反射的に飛び退く。
「理不尽だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
絶叫が執務室中に響き渡った。
その日、公爵家で最も仕事が進まなかったのは。
間違いなく、公爵本人だった。




