第21話:届かなかった距離
朝。
公爵邸、エルザの部屋。
エルザは鏡の前に立ち、珍しく落ち着かない様子で自分の姿を眺めていた。
今日は鎧ではない。
動きやすさを残しながらも、いつもの訓練着より柔らかな印象の街歩き用の服。
髪もきちんと整えられ、控えめな飾りまでつけられている。
つまり、いつもとは少し違う自分だった。
そして、その周囲をメイドたちが取り囲んでいる。
「完璧です!!」
「全力で可愛いです!!」
「シュタルク家の家宝です!!」
口々に絶賛され、エルザは眉を寄せた。
「……大げさだ」
そう言いながらも、鏡に映る自分を気にしている。
「似合わないとか言ってきたら……」
ぽつりと呟くと、メイドの一人が即答した。
「暗殺者を雇います」
「……」
エルザが黙り込む。
その横で、ルドルフが疲れたように呟いた。
「……公爵家はどこへ」
誰も答えなかった。
*
玄関前では、テオが待っていた。
こちらも鎧ではなく、簡素ながらきちんと整えられた服装をしている。
やがてエルザが姿を現すと、テオの視線が止まった。
ほんのわずかな変化だった。
だが、エルザは見逃さなかった。
心臓が跳ねる。
「……おかしくないか」
確かめるように尋ねる。
「似合ってる」
返事はすぐに返ってきた。
エルザは固まった。
「……そうか」
それだけ返すのが精一杯だった。
耳が熱い。
一方のテオも、なぜかすぐには歩き出さなかった。
だが、その理由を口にすることはなく、
「行くか」
「ああ」
二人は並んで歩き出した。
*
昼前の街は、多くの人で賑わっていた。
焼き菓子を売る屋台から甘い香りが漂い、行き交う人々の話し声が絶えない。
二人はそんな通りを並んで歩いていた。
そして、その手は自然に繋がれている。
前回とは違う。
偶然触れたからではない。
どちらからともなく手を伸ばし、今度は互いに分かっていて繋いだ。
エルザの指に少し力が入る。
テオも、それに応えるように握り返した。
言葉はなかった。
それでも、今はそれでよかった。
しばらく歩いたところで、エルザが思い出したように言う。
「……ディーに土産を買ってやりたい」
「菓子か?」
「そうだ」
もちろん、弟への土産だ。
それ以外の理由などない。
――たぶん。
テオは頷き、焼き菓子の屋台へ向かった。
*
その少し離れた物陰。
三人の男が、完全に不審者と化していた。
「……あいつ」
ライナーが眉間に皺を寄せる。
「俺の嫁と手ぇつなぐとか、二十年早ぇ!」
今にも飛び出しそうな勢いだった。
「地獄の訓練かましてやる……」
「嫁ではありません」
エドガーが訂正する。
「婿でもありません。あと、職権乱用です」
冷静な三連撃だった。
その隣では、ヴァルターが二人の様子を眺めながら頷いている。
「順調ですねぇ」
「どこがだ!」
「初回に比べれば、ずいぶん自然になりましたねぇ」
ライナーが勢いよく振り向いた。
「なんで知ってんだよ!?」
「見ていましたので」
「お前もかよ!!」
エドガーが眼鏡の位置を直す。
「今さらでしょう」
「お前ら何なんだよ!!」
ヴァルターは気にした様子もない。
「しかし、想定より進展が早いですねぇ」
「早すぎる!親を見習え!」
「両親は、むしろ進展が遅すぎました」
エドガーの返答は容赦がなかった。
*
やがて二人は賑やかな通りを離れ、人通りの少ない裏道へ入った。
石畳を踏む足音が響く中、前方から複数の男たちが近づいてくる。
左右からも、後ろからも。
逃げ道を塞ぐように現れた男たちは、着崩れた服に濁った目をしていた。
「いい格好してるじゃねぇか」
一人が下卑た笑みを浮かべる。
「少しくらい恵んでくれてもいいんじゃねぇか?」
エルザの表情が変わった。
反射的に前へ出ようとして、今日が丸腰であることを思い出す。
帯剣していない。
護身用の短剣もない。
その瞬間、テオが前へ出た。
「下がってろ」
視線は男たちから外さない。
一人が踏み込んでくる。
拳が迫るより早く、テオはその手首を流し、体勢を崩した。
そのまま地面へ叩きつける。
続いて二人目。
蹴りをかわし、腹へ一撃を叩き込む。
男が呻きながら崩れ落ちた。
だが、数が多い。
正面へ意識を向けた瞬間、別の男が横からエルザへ腕を伸ばした。
テオが振り向く。
間に合わない。
あと半歩。
その距離が、届かない。
だがエルザも、黙って掴まれるような人間ではなかった。
伸びてきた腕を払い、身体を捻る。
そのまま相手の懐へ踏み込もうとした、その時。
「誰の女に手ぇ出してやがる!!」
爆音のような怒声が路地に響いた。
次の瞬間、男が横から吹き飛んだ。
「……」
エルザが止まる。
ライナーだった。
完全にキレている。
殴る。
倒す。
さらに殴ろうとする。
「ライナー!!」
エルザが叫んだ。
「やめろ!ここは戦場じゃない!殺すな!!」
「……チッ」
振り上げられた拳が止まる。
どう見ても、あと一発は入れるつもりだった。
そこへエドガーが歩み寄った。
「はいはい。そこまでです」
ライナーを男から引き離しながら、淡々と付け加える。
「それと、ライナーの女ではありません」
「そこじゃねぇだろ!!」
「重要です」
「重要じゃねぇ!!」
少し遅れて、ヴァルターも姿を現した。
倒れた男たちを見回し、平然と言う。
「全員生きていますね。結構です」
「お前は何しに来たんだよ!」
「状況確認です」
「戦え!!」
「あなたが全部倒したでしょう」
「理不尽!!」
エルザは額を押さえた。
テオだけが、何も言わなかった。
*
騒ぎが収まったあとも、テオは自分の拳を握りしめていた。
エルザは無事だった。
そもそも、あの程度の相手ならエルザ自身でも対処できただろう。
分かっている。
それでも、頭から離れない。
あと半歩。
自分の手は、届かなかった。
(……守れなかった)
その事実だけが残った。
エルザは、そんなテオの変化には気づいていなかった。
彼女にとって大切なのは、誰も大きな怪我をしなかったことだった。
だがテオの中には、悔しさが残った。
そして、それは数日経っても消えなかった。
*
夜明け前の公爵家訓練所では、まだ誰もいない場内に、乾いた打撃音だけが響いていた。
テオは剣を持たず、素手で間合いを詰めては打ち、崩し、引き、再び踏み込む動きを繰り返している。
普段から無駄の少ない動きをする男だったが、今日はいつも以上に速度と精度を意識していた。
脳裏から離れないのは、数日前の裏通りでの出来事だった。
エルザへ伸びた男の手。
それを止めようとして、自分には届かなかった、あと半歩。
(……遅い)
もう一度踏み込む。
さっきより速く。
さらにもう一度。
呼吸が荒くなっても、テオは動きを止めなかった。
エルザは無事だったし、あの程度の相手なら、彼女自身でも十分に対処できただろう。
それくらいは分かっている。
それでも、自分が間に合わなかったという事実だけは消えなかった。
次は届きたい。
そのために、今の自分に足りないものを埋める。
ただ、それだけを考えながら、テオは何度も同じ動きを繰り返した。
*
数日後。
エルザは訓練場の端から、テオの姿を見ていた。
最近のテオは、以前より早く訓練所へ来るようになっていた。
訓練量も明らかに増えている。
それだけなら、特に気にすることでもなかった。
問題は、そのあとだった。
訓練を終えるとすぐにその場を離れ、以前ほどエルザと言葉を交わそうとしない。
避けられている。
そう感じるには十分だった。
(……何だ)
理由に心当たりがないわけではない。
おそらく、あの日のことだ。
けれど、それだけではどうしても納得できなかった。
気づけば、エルザはテオのもとへ歩いていた。
「テオ」
声をかけると、テオが振り向く。
「……何だ」
返事はいつも通りだった。
それでも、やはりどこか距離がある。
エルザはまっすぐ彼を見る。
「最近、様子がおかしい」
あまりにも直接的な言い方だったが、遠回しに尋ねるつもりはなかった。
テオはしばらく黙ったあと、わずかに視線を逸らした。
「……問題ない」
「問題あるだろう」
エルザは一歩近づいた。
「避けている」
その言葉に、テオの動きが止まる。
すぐには答えなかった。
何かを言おうとして、やめる。
もう一度口を開きかけ、結局また黙る。
やがて諦めたように息を吐いた。
「……守れなかった」
エルザの表情が変わる。
「お前を。あの時、俺は間に合わなかった」
テオは視線を落としたまま、拳を握った。
「結局、ライナー副団長が先に間に入った」
「テオ」
「もっと強ければ、俺が届いた」
そこでようやく、エルザにはこの数日、テオが何を考えていたのかが分かった。
そして同時に、少し腹が立った。
「……私は弱くない」
テオが顔を上げる。
「守られるだけの存在じゃない」
「分かってる」
「分かってない」
エルザはさらに一歩近づき、正面から彼を見た。
「お前は今、自分一人で私を守れなかったことを悔しがっている。でも、私はお前の後ろに隠してもらいたいわけじゃない」
テオは何も言わなかった。
「私も戦えるし、お前も戦える。だったら、それでいいだろう」
「……」
「どちらか一人が全部やる必要なんてない」
そう言ってから、エルザは少しだけ声を和らげた。
「お前が隣にいるなら、それでいい」
テオの瞳がわずかに揺れた。
すぐには返事がない。
けれど今度の沈黙は、逃げるためのものではなかった。
テオはエルザの言葉を、自分の中へ落とし込むように考えていた。
守るか、守られるか。
どちらか一方だけが前に立つ必要はない。
二人とも戦えるのなら、並んで立てばいい。
少し前、エルザがテオを見てようやく知ったその強さに、今度はテオが辿り着こうとしていた。
やがてテオは、肩から力を抜くように息を吐いた。
「……そうか」
「ああ」
「なら、次は」
テオはエルザの隣へ移動した。
「一緒に対処する」
エルザの口元が、ほんの少し緩む。
「当然だ」
二人はそのまま並んで立った。
前に出る者と、後ろで守られる者ではない。
互いに自分の足で立ち、必要な時には支え合う。
それでいいのだと、ようやく二人とも分かり始めていた。




