第19話:呼び名の温度
数日後。
公爵家の訓練所には、いつもと変わらない乾いた風が吹いていた。
踏み固められた地面を風が撫で、木剣の打ち合う音や騎士たちの掛け声が響いている。
その中央で、エルザは剣を構えていた。
正面にはテオドールがいる。
互いに言葉はない。
けれど二人の様子を見た周囲の騎士たちは、いつしか邪魔にならないよう距離を取っていた。
エルザは柄を握る手に力を込める。
(……逃げるな)
自分自身に言い聞かせる。
(逃げたままでは終われない)
顔を上げた。
「……来い」
テオドールが頷く。
次の瞬間、二人が同時に踏み込んだ。
鋭い剣戟が訓練場に響き渡る。
エルザの剣は速い。
だが、以前とはどこか違っていた。
鋭さの中に、わずかな迷いがある。
テオドールはそれを見逃さない。
受ける。
流す。
そして返す。
どの動きも最小限で、正確だった。
「……なぜ迷うのですか」
剣を交えながら、テオドールが問う。
エルザの眉が寄った。
「迷ってなどいない!」
強く言い返した、その瞬間。
踏み込みがわずかに浅くなる。
テオドールの剣が先を取り、エルザの肩口を掠めた。
「……避けている」
「何をだ」
「それは、私には分かりません」
淡々と返され、エルザは奥歯を噛んだ。
地面を蹴り、深く踏み込む。
全身の力を乗せた一撃を、テオドールは真正面から受け止めた。
衝撃が互いの腕を伝う。
それでも、テオドールは崩れない。
受け止めた勢いを利用し、押し返してくる。
「あなたは変わっていません」
エルザの目が揺れた。
「変わったのは――」
テオドールが半歩踏み出す。
「あなた自身の見方です」
その言葉に、エルザの動きが止まった。
その隙を逃さず、テオドールの剣が喉元で止まる。
勝負はついていた。
エルザは俯いたまま動かなかった。
やがて、掠れた声が漏れる。
「……違う」
それでも顔を上げた。
「私は……弱くなってなんかいない」
「はい」
テオドールは迷わず答えた。
「弱いとは思っていません」
エルザが目を見開く。
テオドールはまっすぐ彼女を見ていた。
「一度も」
胸の奥が、また揺れた。
「では、なぜ――」
言いかけて、その先が続かなかった。
自分でも分からない。
どうしてテオドールの前に立つと、こんなにも調子が狂うのか。
どうして、彼の言葉一つで心が乱れるのか。
答えは出ない。
テオドールも、それ以上は尋ねなかった。
剣を収める。
「今日は、ここまでにしましょう」
エルザはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……ああ」
*
それから数日。
エルザは変わらず訓練に参加し、テオドールと剣を交える機会も増えていた。
まだ以前のように思いきり踏み込めないことはある。
それでも、逃げることはやめた。
何度も剣を合わせるうちに、相手の癖も少しずつ分かってくる。
テオドールがどの瞬間に踏み込み、どの角度から剣を返すのか。
逆に、彼もエルザの動きを読んでいる。
その時間が、少しずつ心地よいものになっていた。
そんなある日の昼下がり。
訓練所の端が妙に騒がしい。
エルザが目を向けると、数人の騎士見習いが集まっていた。
その中心にいるのはテオドールだ。
「へぇ、お前が最近噂の奴か」
一人の見習いが笑う。
「地方から来て、いきなり公爵家の訓練所に出入りとは大したもんだな」
軽い口調だったが、明らかに好意的ではない。
テオドールは表情を変えなかった。
「運が良かっただけです」
「なんだよ、つまらねぇな」
相手が肩を小突く。
あまりにも子供じみた挑発だった。
そして、エルザはこういうものが嫌いだった。
「……やめろ」
声に、全員が振り向く。
エルザが立っていた。
「なんだよ。関係ないだろ」
男が肩をすくめる。
エルザは一歩近づいた。
「関係ある」
「は?」
「そんな性根の腐った人間は、シュタルクには要らん」
見習いたちの顔から笑みが消えた。
冗談で言っているのではないと分かったのだ。
そのときだった。
「……構いません」
エルザが振り返る。
テオドールが前へ出ていた。
「エルザ様」
「だが――」
「問題ありません」
落ち着いた声でそう告げると、テオドールは絡んできた見習いを見る。
「実力で示します」
男が眉を上げた。
「……へぇ。言うじゃねぇか」
木剣を肩から下ろす。
「なら、やってみろよ」
自然と周囲に人が集まった。
二人が向かい合う。
開始の合図と同時に、男が踏み込んだ。
速い。
だが、テオドールは慌てない。
一撃目で剣を弾く。
二撃目で体勢を崩す。
そして相手が踏ん張るより先に、三撃目が喉元で止まった。
終わりだった。
あまりにも早い決着に、周囲からざわめきが起こる。
テオドールは剣を下ろし、一礼した。
「失礼しました」
勝ち誇るでもなく、相手を見下すでもない。
ただ、自分の実力を示しただけだった。
それ以上、誰も何も言えなかった。
少し離れた場所で、エルザはその姿を見ていた。
数日前まで、自分が前に出なければならないと思っていた。
強い者が守る。
弱い者を庇う。
ずっと、それが当然だった。
けれど、テオドールは違う。
自分で立てる。
自分で戦える。
自分のことを、自分で守れる。
(……任せられる)
その言葉が胸に浮かんだ。
初めてだった。
誰かを守らなければ、ではなく。
この人なら任せてもいいと、そう思えたのは。
不思議と、嬉しかった。
*
騒ぎが収まり、見習いたちは気まずそうに散っていった。
周囲の騎士たちも、それぞれの訓練へ戻っていく。
けれどエルザは、その場に残っていた。
テオドールは何事もなかったように木剣を片付けている。
(……任せられる)
もう一度、その言葉が浮かぶ。
これまでエルザは、自分が前に立つことを疑ったことがなかった。
それが自分の役目だと思っていた。
けれど、隣に立つ人間まで守られる側である必要はない。
同じように立てる者もいる。
そのことに気づいた途端、テオドールが以前とは少し違って見えた。
気づけば、足が動いていた。
テオドールが顔を上げる。
「……何か?」
エルザは言葉に詰まった。
大したことを言うつもりではない。
それなのに、妙に喉が重い。
「……その」
視線を逸らし、どうにか口を開く。
「名前でいい」
テオドールが首を傾げた。
「名前?」
「ああ」
エルザは腕を組んだ。
「“様”はいらない」
そこまで言ってから、付け足す。
「呼びにくい」
完全に言い訳だった。
「敬語もいらない」
テオドールは少し考え、頷いた。
「分かった」
そして、あまりにも自然に呼ぶ。
「エルザ」
肩がわずかに跳ねた。
胸の奥で、何かが大きく鳴る。
それでも顔を上げられない。
「……うん」
短く返すので精一杯だった。
テオドールは、少なくとも表面上は何も気づいていない。
「それなら、俺のことも好きに呼んでくれ」
エルザがようやく顔を上げる。
「……何?」
「テオでいい」
あっさり告げられ、今度はエルザが固まった。
(テオ)
頭の中で、その呼び名を転がす。
短い。
呼びやすい。
なのに――妙に近い。
「……テオ」
確かめるように口にした。
テオドール――テオは頷く。
「ああ」
それだけだった。
たったそれだけなのに、昨日までとは何かが違っていた。
*
翌日の訓練所。
いつも通り、エルザとテオは剣を交えていた。
「テオ、右だ」
「分かった」
テオが動く。
「エルザ、左が空いてる」
「了解だ」
二人の動きが噛み合う。
言葉は少ない。
それでも互いの動きが見えているから、長い指示は必要なかった。
そんな二人を、周囲の騎士たちがなんとなく眺めている。
やがて。
「……今」
誰かが呟いた。
「聞いたか?」
「聞いた」
「俺も聞いた」
周囲がざわつき始める。
エルザは気づいていない。
テオも気づいていない。
だが、周囲は気づいていた。
シュタルク公爵家の長女が。
あの鉄血の令嬢が。
一人の少年を、愛称で呼んでいる。
そしてその少年も、彼女を敬称なしで呼んでいる。
事件だった。
*
少し離れた場所では、ライナーが腕を組んで満足そうに頷いていた。
「いい連携だな!!」
本当に、それしか見えていない。
エドガーが息を吐いた。
「……見るところが違います」
「ん?」
ライナーは首を傾げる。
本当に分かっていなかった。
その横で、ヴァルターが告げる。
「進展していますねぇ」
「何がだ?」
「関係性です」
「誰と誰の?」
「エルザ様とテオドールの」
ライナーが止まった。
しばらく動かない。
エドガーは目を閉じた。
来る。
「……は?」
ようやく声が出た。
そして。
「……はぁぁぁぁあ!?」
案の定、爆発した。
「エルザの結婚相手は俺じゃなかったのか!?」
絶叫が訓練所中に響き渡る。
全員が振り返った。
エルザも。
テオも。
ディートハルトも。
そして。
「違う」
見事に声が揃った。
「ひどい!!!!」
ライナーが膝をつく。
誰も慰めなかった。
*
その日の帰り道。
エルザは一人、夕日に染まる石畳を歩いていた。
頭に浮かぶのは、昼間のライナーの絶叫。
馬鹿げている。
意味不明だ。
そもそも、十四歳の頃に自分が言ったことを、なぜ本人だけが真に受けているのか。
そう思っているうちに、別の言葉が蘇る。
――弱いとは思っていません。
――一度も。
胸の奥が、また少し熱くなった。
そして今度は、今日聞いた声まで思い出す。
――エルザ。
たった名前を呼ばれただけ。
それなのに、その響きが耳に残って離れない。
自分も呼んだ。
――テオ。
思い出した途端、妙に顔が熱くなった。
訓練の高揚とも、勝利の興奮とも違う。
けれど、その正体はまだ分からない。
エルザは足を止め、夕焼け空を見上げた。
「……なんなんだ」
当然、答えは返ってこない。
それでもその顔は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。




