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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第18話:はじめての拮抗

公爵家の訓練所には、乾いた風が吹いていた。

踏み固められた地面には木柵が並び、訓練用の剣が打ち合う音が絶え間なく響いている。

いつもと変わらない光景だった。

ただ、今日ばかりは多くの騎士が、訓練場の中央へ意識を向けていた。

そこに立っているのは、十六歳になったエルザ。

シュタルク公爵家の長女にして、次代を担うと目される少女である。

その正面には、一人の少年がいた。

黒髪に、落ち着いた瞳。

余計な力の入っていない立ち姿をしており、年齢もエルザとそう変わらない。

地方から王都へ上がってきた騎士見習いで、名をテオドールという。

最近になって頭角を現し始めた有望株で、その噂はすでにシュタルク家にも届いていた。

だからこそ、エルザは興味を持った。

どれほどのものなのか。

自分の目で確かめてみたかった。

エルザは剣を肩に担いだまま、目の前の少年へ声をかける。

「お前がテオドールか」

「はい」

簡潔な返事だった。

「話は耳にしている」

エルザの口元がわずかに上がる。

「手合わせしろ」

テオドールは少しだけ目を瞬いたものの、すぐに姿勢を正して剣を構えた。

「……はい」

そのやり取りを見守っていた騎士たちが、息を呑む。

誰もがエルザの強さを知っている。

同世代どころか、大人の騎士でさえ相手にならないほどの実力だ。

結果は最初から決まっている。

誰もがそう思っていた。

少なくとも、この瞬間までは。

開始の合図と同時に、エルザが踏み込んだ。

瞬く間に間合いを詰め、鋭い斬撃を一直線に叩き込む。

甲高い金属音が響いた。

受け止めたのは、テオドールだった。

しかも、ただ力で止めたわけではない。

エルザの剣を正確に受け流し、最小限の動きで衝撃を逃がしている。

エルザの目が細くなった。

(……止めた?)

胸の奥が弾む。

面白い。

そう思ったときには、もう次の一撃を繰り出していた。

二撃、三撃と角度を変えて斬り込み、さらに速度を上げていく。

だが、テオドールはすべてを捌いた。

剣を受け、流し、ときにはわずかに身を引いて避ける。

その動きには無駄がない。

観戦していた騎士たちも、次第にざわつき始めた。

「おい……」

「初めてじゃねぇか」

「エルザ様と、ここまでやり合う奴……」

誰も目を離せなくなっていた。

その中で、エルザの口元には少しずつ笑みが浮かんでいく。

楽しい。

純粋に、そう思った。

こんな相手は初めてだった。

さらに深く踏み込み、全身の力を乗せた一撃を叩き込む。

テオドールはそれを受けた。

だが、そこで終わらない。

受け流した勢いを利用し、そのまま反撃へ転じる。

鋭く、速い。

エルザは紙一重で躱した。

剣先が頬のすぐ脇を抜け、風が肌を撫でる。

危なかった。

本当に危ない一撃だった。

だからこそ、笑みが深くなる。

距離を取り、息を整えた。

胸が高鳴っている。

これまで何度も剣を振ってきた。

けれど、押し切れない相手と戦ったのは初めてだった。

力だけではねじ伏せられない。

互いに剣を交え、どちらも退かず、対等に立っている。

その事実が、たまらなく嬉しかった。

やがて勝負が終盤へ差しかかる。

エルザは腰を低く落とし、深く構えた。

テオドールも剣を構え直す。

次で決まる。

互いに、それを理解していた。

エルザが地を蹴った。

迷いのない、全力の一撃。

テオドールが正面から受け止める。

受け切る。

そう見えた。

だが、ほんのわずかに体勢が崩れた。

ほとんど見落としてしまいそうな隙だった。

エルザは見逃さない。

次の瞬間には、剣の切っ先がテオドールの喉元で止まっていた。

勝負あり。

しばらく誰も声を上げなかった。

エルザは剣を下ろす。

「……驚いた」

心からの言葉だった。

テオドールも剣を収め、一礼する。

「光栄です」

誇るでもなく、必要以上にへりくだるでもない。

ただ結果を受け止めている。

その姿勢も、エルザには好ましかった。

「すげぇじゃねぇか!!」

ライナーの声が響いた。

「いい戦力になりそうだな!!」

完全に上機嫌である。

その隣で、ヴァルターも頷いた。

「これは、面白いことになりそうですねぇ」

妙に意味深だった。

そして、その予想は思ったより早く当たることになる。

*

手合わせを終えたエルザは、まだ少し速い鼓動を落ち着かせながら息を整えていた。

向かいでは、テオドールも剣を収めている。

二人とも、多くを語る性格ではない。

それでも気まずさはなかった。

先ほどまで激しく剣を交えていたというのに、こうして同じ場所に立っていることが、なぜか心地よかった。

そのとき、手の甲に小さな違和感を覚える。

見ると、皮膚が薄く裂けていた。

血がわずかに滲んでいるだけで、放っておいても治る程度の傷だ。

「……手」

声に顔を上げると、テオドールが一歩近づいていた。

視線はエルザの手元へ向けられている。

「気にするほどではない」

いつも通り短く返す。

それで終わるはずだった。

だが、テオドールは懐から清潔な布を取り出し、差し出した。

「……あなたは強い」

エルザが彼を見る。

「ですが」

テオドールは傷へ目を落とした。

「……綺麗な手ですから」

「傷は残さないほうがいい」

エルザの思考が止まった。

綺麗な手。

その言葉だけが、妙にはっきりと耳に残る。

これまで、そんなことを言われたことはなかった。

剣を握る手は、戦うためのものだ。

評価されるのは剣技であり、速さであり、力であり、判断力だった。

手そのものを褒められたことなど、一度もない。

(……綺麗?)

思わず自分の手を見る。

剣だこもある。

細かな傷だってある。

自分にとっては見慣れた、いつもの手だ。

これが、そんなふうに見えるのだろうか。

何か返さなくてはと思う。

けれど、言葉が出てこない。

挿絵(By みてみん)

テオドールは急かすこともなく、布を差し出したまま待っていた。

その何でもない態度が、余計にエルザを困らせる。

「……あ、いや、その……」

自分でも驚くほど、まともな言葉が出てこない。

結局、布を受け取った。

「……そうか」

それだけだった。

それが限界だった。

テオドールは小さく頷く。

「ええ」

会話は終わった。

――はずなのに、エルザの中ではまるで終わっていなかった。

布で傷口を押さえながら、先ほどの言葉が何度も頭を巡る。

綺麗な手。

戦っているときの高揚とは違う。

理由も分からないまま、胸の奥が落ち着かない。

視線を上げると、テオドールはもう次の訓練の準備を始めていた。

まるで何事もなかったかのようだった。

(……なんだ、今のは)

エルザには分からなかった。

ただ、先ほどまでとは何かが変わってしまったことだけは分かった。

*

翌日。

エルザはいつも通り剣を握り、いつもの場所に立っていた。

ところが、いざ打ち合いが始まると、踏み込みがわずかに遅れる。

剣を受ける角度も甘い。

テオドールの剣を受けた瞬間には重心が崩れ、本来なら流せるはずの力を真正面から受けてしまった。

距離を取り、息を整える。

身体は動く。

それなのに、噛み合わない。

(……違う)

原因は分かっている。

分かっているのに、どうにもできない。

ふと、テオドールと目が合った。

――綺麗な手。

また、あの言葉が蘇る。

ほんのわずかな迷い。

けれど剣士にとって、それは十分すぎる隙だった。

気づけば、テオドールの剣先が目の前で止まっている。

負けだ。

周囲がざわついた。

「……最近、調子悪くないか?」

「どうしたんだろうな」

ライナーも腕を組み、心配そうにエルザを見る。

「おいおい、らしくねぇぞ」

エルザは答えなかった。

答えられなかった。

そこへ、テオドールが近づいてくる。

「……大丈夫ですか」

ただの気遣いだった。

それなのに、胸が苦しくなる。

心配されている。

弱いと思われたような気がした。

情けないと思われたような気がした。

そんな意味ではないと分かっているのに、苛立ちが込み上げる。

「……問題ない」

短く返した。

だが、テオドールはもう一度エルザを見る。

「今日は少し休んだほうが――」

「問題ないと言っている」

思わず言葉を被せた。

思った以上に冷たい声が出た。

テオドールが口を閉ざす。

エルザはそのまま背を向けた。

分かっている。

今のは違う。

そんなことを言いたかったわけではない。

心配してくれたことが嫌だったわけでもない。

それなのに、止められなかった。

*

部屋へ戻ったエルザは、扉を閉めるなりベッドへ腰を下ろした。

力が抜けた。

頭の中では、自分が口にした言葉が何度も繰り返されている。

拒絶するような声。

突き放すような態度。

あれは本心ではない。

それなのに、確かに自分が言った。

「……違うのに」

呟いた途端、涙が零れた。

どうして泣いているのか、自分でもよく分からない。

ただ、苦しかった。

こんな感情は初めてだった。

*

その日の夜、ミレイユはエルザの部屋を訪れた。

扉を開けると、エルザはベッドの端に腰を下ろしたまま俯いている。

泣き腫らした目。

赤くなった頬。

普段の彼女なら、誰にも見せたくない顔だった。

ミレイユは何があったのか尋ねなかった。

娘の隣へ腰を下ろし、そっと頭に手を置く。

指先で髪を撫でると、エルザの肩が小さく震えた。

「……母上」

かすれた声だった。

「はい」

それだけを返す。

問い詰めることも、急かすこともしない。

ただ、隣にいる。

今のエルザには、それがありがたかった。

しばらくして、エルザが小さく息を吐いた。

「……どうして」

声が震える。

「どうして……弱くなっちゃったのかな」

挿絵(By みてみん)

ミレイユは髪を撫で続けた。

「エルザは、弱くなってなんかいないよ」

迷いのない声だった。

エルザが顔を上げる。

「でも……」

「剣がうまく振れなくなったから?」

エルザは答えられなかった。

それだけではない。

自分でも分からない何かが、胸の中にある。

テオドールの言葉を思い出せば苦しくなり、目が合えば動揺する。

心配されれば、嬉しいはずなのに腹が立つ。

自分が自分ではなくなったようだった。

「……わからない」

ようやく出た声は、とても小さかった。

「私、どうしちゃったんだろう」

ミレイユは娘を見つめた。

その顔に、少しだけ懐かしむような笑みが浮かぶ。

「大丈夫」

「……何が?」

「今は、分からなくてもいいの」

エルザは黙って母を見る。

「人は、強くなることだけで大人になるわけじゃないから」

エルザの目がわずかに見開かれた。

「今まで知らなかった気持ちを知ったり、自分でもどうしたらいいのか分からないことに出会ったりするのも、きっとその一つなんだと思う」

エルザは何も言わない。

ただ、母の言葉を聞いていた。

「だから、焦らなくていいよ」

「……」

「いつか、自分で分かる時が来るから」

エルザの目から、また一粒だけ涙が落ちた。

けれど今度は、先ほどまでのような苦しさだけではなかった。

「……母上」

「うん?」

「私……強い?」

ミレイユは笑った。

「もちろん」

迷いのない返事だった。

「私の娘だもの」

その言葉を聞いた瞬間、エルザは母の肩へ顔を埋めた。

「……はい」

ミレイユは何も言わず、その身体を抱きしめる。

エルザの中にあるものは、まだ何一つ解決していない。

テオドールの言葉も、胸の高鳴りも、明日顔を合わせたらどうすればいいのかという不安も、そのままだ。

それでも今は、母の腕の中にいてもいいと思えた。

*

一方その頃。

アロイスは執務室で書類を前にしていた。

一枚も進んでいない。

ペンを握ったまま、先ほどから同じ場所を見つめている。

そんな主をしばらく眺めていたエドガーが、淡々と言った。

「ポンコツ公爵」

「……黙れ」

返事だけは早かった。

しかし、その声にはいつもの余裕がまったくなかった。

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