第16話:遺伝
数日後。
公爵邸の正門へ、一台の馬車が近づいてきた。
車輪が砂を踏みしめる音が次第に大きくなり、やがて門前で止まる。
扉が開き、ミレイユが降り立った。
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、ほっと息を吐く。
帰ってきた。
そう実感した瞬間だった。
「母上!!」
元気な声とともに、エルザが駆けてくる。
まっすぐ飛びついてきた娘を、ミレイユは笑顔で受け止め、そのままぎゅっと抱きしめた。
「ただいま」
「おかえりなさいませ!」
きちんとした口調で答えてはいるものの、回された腕には隠しきれない嬉しさが滲んでいる。
その後ろから、今度は小さな足音が聞こえてきた。
ディートハルトだった。
三歳になった少年は、姉より少し遅れてミレイユの前までやってくると、その場で立ち止まった。
小さな手を握りしめ、少しだけ迷うように母を見上げる。
「……ははうえ……」
かすかな声とともに、大きな瞳に涙が滲んだ。
ミレイユの表情がすぐに柔らかくなる。
しゃがみ込み、息子と目線を合わせた。
「ただいま」
それまで必死に我慢していたディートハルトの顔が、くしゃりと崩れる。
「……ははうえぇ……」
とてとてと駆け寄り、ミレイユへぎゅっとしがみついた。
ミレイユはその小さな身体を抱き上げ、髪を撫でる。
「いい子にしていましたか?」
ディートハルトは母の肩に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「……してた」
その光景を少し離れたところから見ていたエドガーは、無表情のまま固まっていた。
そして次の瞬間。
(ズギュウゥゥゥン!)
再び、胸を撃ち抜かれた。
前回の見送りですでに、この小さな公爵子息の破壊力は理解していた。
理解していたはずだった。
エドガーは悟る。
(……無理ですね)
耐性など、まったくついていなかった。
それでも顔には一切出さない。
さすがである。
*
その後、馬車から次々と荷物が運び出された。
大小さまざまな箱が並んでいくのを見て、エルザが首を傾げる。
「それは?」
「お土産ですよ」
ミレイユが楽しそうに答え、箱の一つを開ける。
中には、王国で流行している絵本が何冊も入っていた。
そのほかにも焼き菓子や小さな包みが並び、蓋を開けると甘い香りがふわりと広がる。
ディートハルトの目が輝いた。
「……あまい?」
「そうですよ」
ミレイユは笑いながら焼き菓子を一つ取り、息子へ差し出した。
ディートハルトは宝物でも受け取るように、両手でそっと包み込む。
「ありがとう、ははうえ」
嬉しそうな声だった。
隣では、エルザも一つ手に取っている。
しばらく眺めてから口へ運び、一口食べると、わずかに目を見開いた。
「……うまい」
飾り気のない感想だった。
だが、それだけで十分だった。
後ろで聞いていたライナーが、待ってましたとばかりに声を上げる。
「だろ!!王国の菓子もいけるぞ!!」
なぜか誇らしげである。
まるで自分が作ったかのような顔をしていた。
エルザはそんなライナーを呆れたように見たが、何も言わない。
実際、美味しかったからだ。
ディートハルトも恐る恐る一口かじる。
すると、みるみる表情が明るくなった。
「……おいしい」
その顔を見て、ミレイユも笑う。
長旅の疲れが、少し軽くなった気がした。
その隣では、アロイスが腕を組んだまま立っている。
視線はずっとミレイユへ向けられていた。
やがて、ようやく口を開く。
「……無事か」
「はい」
ミレイユは微笑んだ。
それだけで十分だった。
――はずだった。
アロイスはライナーへ視線を移す。
「……おい」
「ん?」
軽い返事だった。
「護衛は問題なかったか」
ライナーは少しだけ目を泳がせた。
そして、満面の笑みで答える。
「王国の菓子もいけるぞ!!」
逃げた。
アロイスは無言になった。
明らかに機嫌が悪くなっている。
エドガーが冷静に指摘する。
「回答になっていませんね」
「問題ありませんでした」
横からヴァルターが答えた。
アロイスがゆっくり顔を向ける。
「……なぜまだいる」
「報告完了まで滞在します」
あまりにも当然の口調だった。
「……帰れ」
「まだ報告が――」
「帰れ」
二度言った。
ミレイユは思わず苦笑した。
*
その後、食堂では少し遅い朝食が始まっていた。
大きな窓から差し込む陽光が、白いテーブルクロスと銀食器を照らしている。
食卓には焼きたてのパンに香ばしいベーコン、温かなスープ、彩り豊かな野菜、絶妙な火加減で仕上げられた卵料理が並んでいた。
ミレイユはスープを一口飲み、表情を緩める。
「やはり……シュタルク家の食事が一番ですね」
心からの言葉だった。
少し離れた場所で給仕をしていた料理長が、誰にも気づかれないよう拳を握った。
これ以上ない賛辞である。
完全勝利だった。
その隣では、ヴァルターが当然のように頷いた。
「同意です」
エドガーがちらりと見る。
「もはや、いることに誰も疑問を持たなくなりましたね」
誰とは言わない。
だが全員が分かっている。
ヴァルターである。
シュタルク家の人間でもないというのに、毎日のように屋敷にいる。
しかも、いつの間にか誰より自然に馴染んでいた。
アロイスが言った。
「家賃を払わせろ」
至極もっともな意見だった。
ヴァルターは少し考える。
「検討します」
検討するな。
ライナーが吹き出した。
「完全に居座る気じゃねぇか!」
そんなやり取りが続く中、エルザがフォークを置いた。
隣に座る弟へ目を向ける。
「ディー」
呼ばれたディートハルトが、びくりと肩を揺らした。
「……なに?」
声が小さい。
しかも、妙に視線が泳いでいる。
エルザはすぐに理由へ気づいた。
ディートハルトの皿に、一つだけ手つかずのものが残っている。
「好き嫌いしないで食べないと、強くなれないぞ」
姉として、実に正しい指摘だった。
ディートハルトは困ったように唸り、皿と姉の顔を交互に見る。
「……うー……」
助けを求めるように周囲を見回すが、誰も手を差し伸べない。
やがてアロイスが眉をひそめた。
「何がそんなに嫌なんだ」
ディートハルトは少し迷った。
けれど、結局は正直に白状する。
小さな指が、皿の上の緑色を指した。
「……これ」
そこに残されていたのは――ブロッコリーだった。
全員の動きが止まった。
アロイスが口を開く。
「……料理長を呼べ」
判断が早い。
ライナーのツッコミが飛んだ。
「おいこら!」
アロイスは真顔のまま続ける。
「今後、食卓にブロッコリーを出すな」
ディートハルトの目が輝いた。
まるで救世主を見るような顔だった。
しかし、エドガーは容赦なく切り捨てる。
「似なくていいところを受け継ぎましたね」
ヴァルターも続けた。
「遺伝的傾向が強力ですねぇ」
適当な分析だった。
ライナーが肩を震わせる。
「そんなとこだけ親子かよ……」
ディートハルトは少し傷ついたような顔をし、アロイスは何が悪いのか分からないという顔をしている。
そんな父子を前に、ミレイユが口を開いた。
「あなた……」
たった一言だった。
アロイスの動きが止まった。
その周囲では、メイドたちの内心が大変なことになっている。
(きゃーーーー!!)
(今の聞いた!?)
(あなたって言った!!)
(奥様、自然に「あなた」って!!)
(奥様も、やるぅ~!!)
もちろん、表情には出さない。
さすがプロである。
一方のアロイス本人は、珍しく言葉に詰まっていた。
ミレイユはそんな反応には気づかず、息子の皿を見る。
そこへ、マルガレーテが前へ出た。
「旦那様」
非常に嫌な予感のする声だった。
「手本にならなくて、どうするんですか」
怒っている。
完全に怒っている。
もはや使用人というより、母親そのものだった。
アロイスは黙り込む。
反論できない。
ライナーが小声で呟いた。
「終わったな……」
「完全包囲です」
エドガーが頷く。
「逃走経路なしですねぇ」
ヴァルターまで加わった。
なぜか軍事報告になっている。
ミレイユは息を吐き、ディートハルトの皿へ目を落とした。
問題のブロッコリーが、ぽつんと残っている。
「一口だけ、食べてみましょうか」
責めるのではなく、優しく促す。
ディートハルトは皿を見つめ、それから母の顔を見る。
しばらく迷った末、小さく頷いた。
「……うん」
フォークを手に取り、ブロッコリーを刺す。
覚悟を決めるように口へ運び、もぐもぐと咀嚼する。
やがて、顔が少しだけ歪んだ。
やはり美味しくはない。
それでも、きちんと飲み込んだ。
「……たべた」
小さな声だった。
けれど、それは立派な勝利だった。
ミレイユは息子の頭を撫でる。
「えらいですね」
ディートハルトは照れながらも、嬉しそうに笑った。
エルザも満足そうに頷く。
「それでいい」
短い言葉だったが、姉からの承認は弟にとって十分だった。
その様子を見ていたアロイスが口を開く。
「……嫌なら残していい」
心配している。
とても心配している。
だからこその言葉だった。
その瞬間、食卓の全員がアロイスを見る。
「「「それがダメなんだ」」」
見事な総ツッコミだった。
アロイスは黙った。
納得していない顔だったが、味方は誰もいない。
その一方で、ディートハルトは少し嬉しそうに父を見ていた。
父が自分の味方をしてくれたことだけは、ちゃんと分かっているらしい。
エルザは弟と父を見比べ、確信した。
(やっぱり似ているな)
主に、ブロッコリーの部分が。
その日の朝食は、いつも以上に賑やかだった。




