第15話:ディートハルト
公爵邸の正門には、王国へ向かう馬車が用意されていた。
朝の空気はまだ冷たく、吐いた息が白くほどけていく。
定期報告のため、しばらく王国へ滞在することになったミレイユを見送ろうと、家族や使用人たちが門前に集まっていた。
その中で、ひときわ堂々と胸を張っているのはエルザだった。
「母上!いってらっしゃいませ!」
九歳になった娘の声は、すっかりしっかりしている。
ミレイユは目を細め、その身体を抱きしめた。
「はい、行ってきます。エルザも、あまり無茶をしないでくださいね」
「はい!」
素直な返事に微笑み、それから隣にいる小さな男の子へ目を向ける。
シュタルク公爵家の第二子、ディートハルト。
まだ三歳の彼は、姉とは対照的に少し後ろへ下がり、小さな手をぎゅっと握りしめていた。
「……ははうえ……」
かすれた声とともに、大きな瞳へ涙が滲む。
それを見た瞬間、ミレイユの胸がきゅっと締め付けられた。
「ディートハルト」
しゃがんで両腕を広げる。
男の子は迷わず駆け寄ってきた。
そのままミレイユの胸に顔を埋め、必死に堪えていたものがとうとう崩れたように、ぎゅっとしがみつく。
「……ははうえ……」
「大丈夫ですよ。すぐに戻りますからね」
頭を撫でてやると、ディートハルトは鼻をすすりながら、小さく頷いた。
(ズギュウゥゥゥン!)
その様子を少し離れたところから見ていたエドガーは、その胸に強烈な衝撃を受けた。
(……なんですか、この存在は)
(可愛すぎるでしょう……)
表情こそいつも通りだったものの、内心では完全に撃沈していた。
(しかも、あの鉄血公爵の子息ですよ……?)
(奇跡では?)
それでも顔には一切出さない。
さすがである。
やがてミレイユが立ち上がると、その先にはアロイスがいた。
いつも通り愛想のない顔をしているが、視線だけはずっとミレイユを追っている。
「……気をつけてな」
「はい」
短いやり取りだった。
けれど、ミレイユにはそれで十分だった。
そっと抱きつくと、アロイスもすぐに腕を回してくれる。
「……早く戻れ」
耳元で言われ、ミレイユはくすりと笑った。
「努力します」
二人が離れたところで、アロイスの視線がその後方へ向いた。
そこに立つヴァルターを見て、目が細くなる。
「……なぜお前がいる」
「護衛です」
「ライナーで足りる」
「足りません」
迷いのない返答だった。
「王国側との折衝記録や、現地で確認すべき案件もあります。同行するのが最も効率的です」
理屈は通っている。
だからこそ、アロイスとしては面白くない。
二人が無言で睨み合っていると、横からライナーが豪快に割って入った。
「まあまあ!多いほうが安心だろ!」
実に雑な仲裁だった。
ミレイユは苦笑しながら馬車へ向かう。
「大丈夫ですよ。すぐ戻りますから」
その一言で、アロイスはようやく口を閉じた。
ただし、馬車が動き出すまで、ヴァルターへ向けられた視線だけは妙に鋭かった。
当のヴァルターは、最後まで平然としていた。
*
馬車が帝都を離れると、それまでの見送りの騒がしさが嘘のようだった。
窓の外を流れていく景色を眺めながら、ミレイユは息を吐く。
「……急に静かになりましたね」
「はい」
向かいに座るヴァルターが頷いた。
しばらくして、彼が何かを思い出したように口を開く。
「お土産」
「……はい?」
「たくさん買って帰らないといけませんねぇ」
あまりにも真剣な顔で言われ、ミレイユは瞬きをした。
「お土産、ですか?」
「はい。公爵も、お子様方も喜ぶものを選ぶ必要があります」
「そうですね……王国のお菓子などはどうでしょう」
「保存も利きますし、適切ですね」
ヴァルターは納得したように頷き、さらに確認する。
「甘いものは、公爵も食べますか?」
ミレイユは少し考えてから笑った。
「……どうでしょう。でも、きっと食べますよ」
「では、多めに」
完全に決定事項だった。
*
王国の王城は、久しぶりに訪れても変わらなかった。
高い天井に、大きな窓。
磨き上げられた床を歩けば、かつてここで過ごした頃の記憶が自然と蘇る。
けれど、ミレイユ自身はもう、あの頃とは違っていた。
今は帝国公爵夫人であり、二人の子どもを持つ母親でもある。
重ねた年月は、その立ち居振る舞いにも穏やかな落ち着きを与えていた。
謁見の間へ入ると、玉座のエリシアが微笑む。
「遠路、お疲れさま。久しぶりね、ミレイユ」
「ご無沙汰しております、陛下」
ミレイユが頭を下げると、エリシアは懐かしそうに彼女を見つめた。
「元気そうで安心したわ。ところで、お子さんたちは?」
その問いに、ミレイユの表情がぱっと柔らかくなる。
「はい、二人とも元気です。エルザはもう九歳になりましたし、ディートハルトもすっかり大きくなって……」
嬉しそうに話すミレイユを見て、エリシアも笑った。
「そう。私も早く会いたいわね」
「はい。次に来るときには、ぜひ」
「ええ、約束よ」
そしてエリシアは、少しいたずらっぽく目を細める。
「でも、その前に――あなたが子どもたちに会いたくて仕方ないでしょう?」
「……はい」
ミレイユは素直に頷いた。
「正直に言うと、もう会いたいです」
「ふふ。やっぱりね」
エリシアは楽しそうに笑う。
「では、あまり引き止めないほうがよさそうね」
「お気遣いありがとうございます」
かつての主従を思わせる、穏やかな時間だった。
ミレイユは改めて思う。
ここも、自分にとって大切な場所なのだ。
けれど今は、帝国にも帰りを待ってくれる家族がいる。
そのことが嬉しかった。
*
謁見を終えて廊下へ出ると、そこにはレオニードが待っていた。
腕を組んだ彼は、ミレイユの後ろにいるヴァルターを見るなり、深いため息をつく。
「……また来たのか」
ヴァルターは気にした様子もなく一礼した。
「今回もよろしくお願いします」
そして、持っていた箱を差し出す。
「帝国からのお土産です。羊羹という菓子でございます」
レオニードが受け取った箱には、ずっしりとした重みがあった。
「東の島国から取り寄せた豆と砂糖をふんだんに使っております」
その説明を聞いたリディアの視線が、箱へ吸い寄せられた。
本人は隠しているつもりらしい。
だが、ミレイユにははっきり分かった。
(……食べたいんだ)
*
業務を終えた後、用意された一室には温かな茶が並び、その中央には先ほどの羊羹が切り分けられていた。
艶やかな深い色をした菓子へ、誰からともなく手が伸びる。
一口食べたところで、皆の動きが止まった。
最初に口を開いたのはレオニードだった。
「……息災で何よりだ」
実に落ち着いた声だった。
ただし、内心は別である。
(これ、うまいな)
その隣では、リディアが無言で二口目へ進んでいる。
(……美味しいな)
こちらも顔には出ていない。
クロウレイがそんな二人を眺めながら、しみじみと言った。
「ミレイユがお母さんになるとはねぇ。僕も老けるわけだ」
「見た目は全然変わってないですけどね」
シルヴァンが羊羹を口へ運ぶ。
「これ、うまいね」
話の主題が早くも羊羹へ移っている。
リディアがふと顔を上げた。
「クロウレイ殿は、レオニード様と同年代だと聞きましたが」
そう言いながらも、視線は皿から離れない。
(もう一個食べたい)
ヴァルターはその視線を正確に読み取り、残っていた羊羹を皿ごと差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
リディアはためらいなく受け取った。
シルヴァンが目を丸くする。
「五十は過ぎてるはずですよね……?」
「ああ」
レオニードが答えた。
「私と同じくらいだ」
「なのに、全然変わらないんですよねぇ」
クロウレイが笑う。
「僕の時間は、止まってたからね」
その言葉とともに、クロウレイの笑みがわずかに薄れた。
五十を過ぎた今も、彼の姿は二十代の終わり頃とほとんど変わらない。
彼の時間が止まったのは、エレオノーラを失った日ではない。
もっと前だった。
彼女の輿入れが決まり、自分ではない誰かのもとへ嫁ぐことを知った日。
そのときから、クロウレイの中にある何かは、ずっと同じ場所に留まり続けていた。
やがてエレオノーラは家庭を持ち、娘を産んだ。
そして、その娘を残して逝った。
ミレイユが笑うようになり、一人で立てるようになり、愛する人と出会い、家庭を築いて。
今では、自分の子どもたちを抱く母になった。
クロウレイはミレイユを見る。
(エレオノーラ。君の娘は、君と同じ歳になったよ)
胸の内で告げる。
長い年月を経て、ようやく届けられた報告だった。
もう、自分まであの日に留まり続けなくてもいい。
ようやく、そう思えた。
クロウレイは息を吐き、いつもの笑顔へ戻る。
「これからはもう、老ける一方だけどね」
「え、やっと?」
シルヴァンが目を丸くする。
「やっとだねぇ」
クロウレイは楽しそうに笑い、何事もなかったように羊羹をもう一切れ口へ運ぶ。
「……これ、うまいね」
過去に留まっていた時間が、ようやく先へ進み始める。
そのことを、クロウレイ自身が一番よく分かっていた。
そのときだった。
ずっと黙っていたアルベルトが、ミレイユをじっと見る。
そして、何気ない調子で口を開いた。
「……少し太ったか?」
全員の動きが止まった。
「デリカシー!!!」
シルヴァンが叫ぶ。
「今それ言う!?」
「事実を言っただけだが」
アルベルトは本気で分かっていない。
「ミレイユも立派な母ちゃんだからな!」
ライナーまで余計な追撃を加え、何事もなかったかのように羊羹を一切れ取る。
「これ、うまいな!」
完全に追い打ちだった。
ミレイユの目が据わる。
「……ライナー?」
「はい」
返事だけは異様に早かった。
リディアが口を開く。
「娘と息子は元気か」
「はい、元気ですよ」
ミレイユは笑った。
「エルザは九歳で、ディートハルトは三歳です。大きくなったら、連れてきますね」
シルヴァンが嬉しそうに身を乗り出す。
「いいなぁ。絶対かわいいじゃん!」
「僕も会ってみたいねぇ」
クロウレイも頷いた。
ミレイユは少しだけ目を細める。
「私も、王子殿下と王女殿下にお会いしたかったです」
エリシアの双子の子どもたちのことを思い浮かべる。
レオニードが答えた。
「今は王都を離れた離宮で、乳母や教育係とともに過ごしている。もう少し大きくなれば、こちらで過ごす時間も増えるだろう」
「そうなんですね」
「次に来たとき、時期が合えば会えるかもしれんな」
「楽しみにしています」
ミレイユが頷くと、シルヴァンが羊羹を眺めながら呟いた。
「それにしても、帝国のお菓子って美味しいねぇ」
以前帝国に滞在したときには、羊羹は食べていなかった。
「もう一回、帝国に出張とかないですかね?」
「ない」
レオニードの返答は早かった。
「ちぇっ」
シルヴァンは残念そうに頬を膨らませる。
「シュタルク家の子どもたち、見てみたかったのになぁ」
「次に来たときには、ぜひ」
ミレイユが笑う。
するとシルヴァンは、何かを思い出したように彼女を見た。
「そうだ、ミレイユ」
「はい?」
「僕もそろそろお嫁さん欲しいなぁ」
ちらり、とリディアを見る。
「ねぇ、リディア?」
リディアはシルヴァンを見た。
それから、残っている羊羹へ視線を戻す。
「もう一個食べていいですか?」
「無視!!」
シルヴァンが叫び、クロウレイが楽しそうに笑う。
ライナーはそんな騒ぎを気にも留めず、出された菓子を頬張っていた。
「王国の菓子もうまいな!」
「比較対象が増えていますね」
ヴァルターが手元の紙へ何かを書き込む。
「帝国銘菓との比較評価も必要でしょう」
「そこまでしなくていいです!」
ミレイユが吹き出した。
昔と変わらない人たちだった。
騒がしくて、遠慮がなくて、それでも自分を温かく迎えてくれる。
けれど、そんな彼らの前にいる自分は、もう昔の少女ではない。
夫がいて、子どもがいて、帰る場所がある。
「ミレイユもすっかりお母さんかぁ……」
クロウレイが懐かしむように言った。
「さしずめ、僕はおじいちゃんってことかな」
「年齢に見合う品格を身につけてから物を言え」
レオニードが眉間に皺を寄せる。
するとクロウレイが、何かを思い出したように彼へ視線を向けた。
「そういえば、レオニードも来月おじいちゃんになるんだよね」
「……え?」
ミレイユが固まる。
「来月?」
シルヴァンが何でもないことのように頷いた。
「そうそう」
「レオニード様、ご結婚されていたんですか!?」
ミレイユの驚きの声が響く。
「聞いていませんよ!」
「ワーカホリックだもんね」
シルヴァンは羊羹を頬張りながら、悪びれもせず続ける。
「家に帰らなさすぎて、離婚寸前になったこともあったらしいよ」
「奥さんに土下座したんだよねぇ」
クロウレイが楽しそうに追撃した。
「ブフォッ!」
リディアとアルベルトが同時に吹き出す。
レオニードは無言だった。
ただ、耳だけがわずかに赤い。
ヴァルターは手元の記録へ視線を落とした。
「……レオニード様」
ミレイユが恐る恐る尋ねる。
「本当なんですか?」
「……仕事の話をしよう」
「逃げた!」
シルヴァンが笑い、再び部屋に笑い声が広がる。
羊羹は、いつの間にか半分以上なくなっていた。
ミレイユはそんな光景を眺めながら笑った。
帝国にも、王国にも、自分を待ってくれる人たちがいる。
昔とは違う。
けれど、今だからこそ分かる。
自分はもう、どこか一つの場所だけに属しているわけではない。
大切な人たちとの繋がりを抱えながら、これからも歩いていく。
王国も。
帝国も。
どちらも、自分が選んだ大切な場所だった。




