第14話:高貴なる女たちの選択
王城の謁見の間には、厳かな緊張が満ちていた。
赤い絨毯が玉座へ真っ直ぐ伸び、その左右には王国の重臣たちが並んでいる。
さらに後方には貴族たちも列席していたが、誰一人として無駄な動きを見せない。
玉座に座るのは、エリシア女王。
若くして王位を継ぎ、幾度もの困難を乗り越えてきた王である。
その正面には、隣国から訪れた使節団が控えていた。
先頭に立つのは第三王子。
背筋を伸ばし、落ち着いた眼差しで玉座を見据えている。
王族らしい気品を備えながら、相手を見下すような傲慢さはない。
だからこそ、多くの者が彼を見ていた。
この男が、未来の王配となるかもしれないのだから。
「このたびは、正式に申し入れに参りました」
よく通る声が広間に響いた。
無理に威厳を作っているわけではない。
それでも、自然と人の耳を傾けさせる力がある。
「貴国との結びつきを、より強固なものとするため――」
第三王子は言葉を区切り、エリシアを真っ直ぐに見た。
「私との婚姻を、お受けいただきたい」
広間のあちこちで、息を呑む気配がした。
国家同士の婚姻。
同盟の強化、交易路の安定、軍事的な抑止。
この婚姻がもたらすものを、ここにいる者たちは誰もが理解している。
だからこそ、軽々しく答えられるものではなかった。
これは恋愛の告白ではない。
一国の未来を左右する申し出なのだ。
エリシアは目を閉じた。
即位の日。
初めて玉座へ座った日のこと。
失敗した政策も、成功した改革も、国民の笑顔も、流した涙も。
これまで自分が王として選び、背負ってきたものを思い返す。
やがて目を開いた。
その瞳に迷いはなかった。
「……承知しております」
穏やかでありながら、よく通る声だった。
「この婚姻が持つ意味も、背負う責任も」
第三王子が頷く。
「私も同様です」
そして彼は、あえて言葉にした。
「これは政略です」
列席者の間に、かすかなざわめきが走る。
言わずとも分かっていることだった。
それでも、彼は綺麗事で飾ろうとはしなかった。
「ですが、それでも互いを尊重し、理解していくことは可能だと考えています」
政略だからといって、人として向き合えないわけではない。
与えられた関係の中で、何を築いていくかは自分たちで選ぶことができる。
エリシアは彼の言葉を受け止め、やがて微笑んだ。
「……同意いたします」
その一言で、すべてが決まった。
列席していた貴族たちが一斉に頭を垂れ、重臣たちからは安堵の息が漏れる。
王国と隣国。
二つの国の未来が、新たな形で結ばれた瞬間だった。
*
謁見を終えた控えの間には、先ほどまでとは打って変わって、穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む午後の日差しが室内を照らし、卓上には香り高い茶が用意されている。
ようやく肩の力を抜いたエリシアが、小さく息を吐いた。
少し離れた場所からその姿を見ていたミレイユが、彼女のもとへ歩み寄る。
「……素敵でした」
心からの言葉だった。
「とても」
エリシアは振り返り、少し照れくさそうに笑う。
「ありがとう」
それから、どこか懐かしむような表情を浮かべた。
「あなたも、そうだったのかしら」
問いの意味は、すぐに分かった。
帝国へ渡ったこと。
アロイスと結婚したこと。
そして、今の暮らし。
ミレイユは少し考えてから、苦笑した。
「……どうでしょう」
最初から幸せだったわけではない。
むしろ、不安ばかりだった。
鉄血公爵と呼ばれ、誰からも恐れられている男。
冷たい噂ばかりが先行する異国の貴族。
自分にとって馴染みのない土地と人々。
何度も戸惑い、泣いた。
逃げ出したくなったことだって、一度や二度ではない。
「最初から、上手くいったわけではありません」
ミレイユは笑った。
「たくさん失敗しました」
エリシアもつられるように笑う。
その様子が、なんとなく想像できたのだろう。
「でも」
ミレイユは窓の外へ目を向けた。
その向こうにある帝国と、そこに残してきた家族を思い浮かべる。
「大切にしたいと思える相手に出会えたことは、幸運だったと思います」
夫として。
家族として。
そして、父親として。
今のアロイスを知っているからこそ、そう言えた。
エリシアは頷く。
「そうね」
それから、少しだけ笑った。
「私も、そうなれるといいわ」
それは王としてではなく、一人の女性としての願いだった。
*
一方その頃。
王城の別室では、まったく別方向の会話が繰り広げられていた。
シルヴァンが腕を組み、リディアを見る。
「いいの?」
軽い口調だったが、何について尋ねているのかは明白だった。
未来の王配についてである。
リディアは迷わず答えた。
「問題を起こすようであれば、即刻処分する」
シルヴァンが顔を引きつらせる。
「いや、婚姻の話なんだけど」
「同じことだ」
「同じじゃないよ?」
リディアは真顔のまま続けた。
「陛下を泣かせたら――」
立ち上がる。
「死ぬより辛い地獄を見せてやる」
断定だった。
しかも、本気である。
シルヴァンは彼女を見つめ、それから真顔で言った。
「……国際問題になるよ」
至極もっともな意見だった。
だが、リディアは眉一つ動かさない。
「関係ない」
「あるよ!?」
遠くに控えていた騎士たちも、心の中では全力で同意した。
もちろん、口には出さない。
リディアは腕を組み直した。
「陛下は、ようやく自分の幸せを考えられるようになった」
先ほどまでとは違う響きが、その声に混じる。
「だから、失敗は許さん」
それが彼女の本音だった。
シルヴァンは肩をすくめる。
「第三王子殿下も大変だなぁ」
その場にいた全員が、密かに同意した。
未来の王配へ向けて。
心の底から。
頑張れ、と。
*
後日。
公爵邸の応接間には、午後の陽光が差し込んでいた。
窓の外では庭師たちが手入れを続け、遠くから鳥の声が聞こえてくる。
戦場とも政争とも無縁の、穏やかな午後だった。
その中心に座っているのは、アンネリーゼ。
かつてと変わらぬ美貌。
整った姿勢。
凛とした佇まい。
けれど、以前とはどこか違っていた。
侯爵家を継ぎ、多くの決断を下してきた者だけが持つ重みが、今の彼女にはある。
誰かに守られる立場ではなく、誰かを守り、導く立場になった者のそれだった。
そして、その隣には一人の男性が座っている。
アンネリーゼの夫である。
第一印象は、とにかく目立たない。
背格好は平均的で、顔立ちも整ってはいるが、人目を引くほどではない。
服装にも派手さはなく、表情も穏やかだった。
大勢の貴族の中に紛れれば、記憶から抜け落ちてしまいそうな人物である。
けれど、不思議と軽くは見えない。
そこにいるだけで場に馴染み、周囲を落ち着かせるような安定感があった。
向かいには、シュタルク家の面々が座っている。
ミレイユ、アロイス、ライナー、エドガー。
そして、なぜかヴァルター。
それぞれが客人を眺める中、最初に沈黙を破ったのは、やはりライナーだった。
「……普通だな!!!」
遠慮がなかった。
驚くほどなかった。
エドガーがすぐに反応する。
「失礼です」
まったくもって正論だった。
しかし、誰も完全には否定できない。
実際、第一印象だけなら普通なのである。
アンネリーゼは小さく笑った。
「ええ」
あっさりと認める。
「凡庸よ」
その一言に、逆に全員が少し驚いた。
だが、本人はまったく気にしていないらしい。
ヴァルターが口を開く。
「アンネリーゼ嬢……失礼」
呼び方を改める。
「今は、アダルベルト侯爵でしたね」
「構わないわ」
アンネリーゼは肩をすくめた。
「侯爵が結婚相手を決めたときは、相当な騒ぎでしたねぇ」
「社交界では半年ほど話題が続いたと記憶しています」
すると、隣に座る夫が口を挟んだ。
「一年です」
少しだけ遠い目をしている。
ヴァルターが夫を見る。
「一年でしたか」
「ええ」
彼はため息をついた。
「どこへ行っても言われました。『なぜ君なんだ』『どうやって口説いた』『脅迫でもしたのか』『実は隠し子がいたのか』と」
そこで言葉を切り、真顔で付け加える。
「最後のは、いまだに意味が分かりません」
ライナーが盛大に吹き出した。
「ははははは!!いや、それは言われるだろ!!」
「あなたは少し黙っていなさい」
アンネリーゼは呆れたように言ったが、口元には笑みがある。
彼女が侯爵家を継ぐ以前から、その名は社交界に知れ渡っていた。
美貌、才覚、家柄。
どれを取っても一流で、求婚者など数え切れないほどいた。
そんな彼女が最後に選んだのが、誰も予想していなかった男だった。
社交界が騒然となったのも、無理はない。
「高嶺の花でしたからね」
夫は苦笑する。
「今でも、どうして私だったのか不思議ですよ」
「まあ、それはそうだな!」
ライナーが素直に同意した。
「ライナー様」
「はい」
アンネリーゼに名前を呼ばれただけで、返事が早い。
そんな彼を放っておき、アンネリーゼは隣の夫へ視線を向けた。
「凡庸に見えるけれど、だからこそ面白いのよ」
夫が困ったように笑う。
「褒められている気がしませんね」
「褒めているわ」
アンネリーゼは言い切った。
「優秀な人間ほど、自分にとっての『当たり前』を疑わなくなることがあるの」
皆が彼女を見る。
「できる者は、できない者がどこで躓くのか分からない。恵まれている者は、そうでない者が何を不便に感じるのか見落とす」
そこで、隣の夫を見る。
「でも、この人は違う」
夫は何か言おうとしたが、アンネリーゼはそのまま続けた。
「自分を特別だと思っていないから、他人が困っていることを『そんなこともできないのか』で終わらせない」
夫が苦笑する。
「それは単に、私自身がよく失敗してきただけですよ」
「そこがいいのよ」
アンネリーゼはすぐに返した。
「失敗した人間にしか分からないこともあるでしょう?」
彼は返す言葉に困ったようだった。
アンネリーゼは微笑む。
「私には見えないものを、この人は見ている」
ミレイユは夫を改めて見た。
「……なるほど」
アロイスも何も言わず、わずかに目を細める。
先ほどまでとは、見る目が変わっていた。
この男は、華やかではない。
突出した才覚を誇るわけでもない。
けれど、それは価値がないという意味ではなかった。
一方、ライナーだけは首を傾げている。
「つまり、どういうことだ!?」
エドガーが答えた。
「理解しなくて結構です」
「理不尽!!!!」
即座に切り捨てられ、ライナーが叫ぶ。
夫まで苦笑していた。
そんな彼らを眺めながら、アンネリーゼは隣にいる男へ視線を戻した。
才ある者は眩しい。
強い者は頼もしい。
けれど、それだけで国が成り立つわけではない。
目立たなくても、自分の役割を果たす人間がいる。
人の困りごとに気づき、当たり前の仕事を当たり前に積み重ねていく者がいる。
彼は、そういう人だった。
だから、自分はこの人を選んだ。
その選択を、一度も後悔したことはない。
アンネリーゼは夫を見つめ、微笑んだ。
侯爵として誰かに求められた選択ではない。
一人の女として、自分で決めたことだった。




