第13話:エルザ
公爵邸の朝は、いつもと様子が違っていた。
廊下を行き交うメイドたちは足音を忍ばせ、ミレイユが通れば、さりげなく道を空ける。
何か特別なものでも運んでいるような扱いに、本人だけが首を傾げていた。
「……なんだか、今日は皆さん、変じゃありませんか?」
隣を歩くアロイスに尋ねると、彼はいつもの無表情で答えた。
「問題ない」
「……そうでしょうか」
どう考えても、問題がない人間への扱いではない。
そう思いながら階段へ向かい、一段目に足をかけようとしたときだった。
「待て」
アロイスの手が伸びる。
「……はい?」
「段差がある」
「ありますね」
「念のためだ」
当然のように手を添えられ、ミレイユは困ったように笑った。
「……過保護です」
「当然だ」
迷いのない返事だった。
その後も同じだった。
食事は以前より優しい味付けになり、少し庭へ出ようとすればアロイスが当然のようについてくる。
ほんの少し疲れた様子を見せただけで、すぐに休むよう勧められた。
「本当に、そこまでしなくても大丈夫ですよ」
「必要だ」
「……そうですか」
あまりに真剣なので、ミレイユはとうとう笑ってしまった。
「鉄血公爵は、どこへ行ってしまったんでしょうね」
その言葉を、少し離れた物陰から聞いていたライナーが拾う。
「それ、俺も聞きたい」
「重症ですね」
エドガーが淡々と答えると、ヴァルターも頷いた。
「完全に変化していますねぇ」
「聞こえてますよ!」
ミレイユが振り返る。
物陰にいた三人と、その後ろで微笑んでいたメイドたちが、一斉に視線を逸らした。
「……やめてください」
頬を赤くするミレイユの手を、アロイスが何事もなかったように取る。
「行くぞ」
「……はい」
そのあまりに自然な仕草を見て、ライナーが頭を抱えた。
「もう駄目だ。完全に旦那様だ……」
マルガレーテが嬉しそうに微笑む。
「ええ。とてもよろしいことですわ」
*
昼下がり。
騎士団詰所の一室には、なぜか普段より多くの人間が集まっていた。
長机を囲んでいるのは、ライナー、エドガー、ヴァルター。
そして、その奥には深くフードを被った二人の男がいる。
どう見ても怪しい。
しかし、誰も追い出そうとはしなかった。
ライナーが勢いよく机を叩く。
「よし!名前を決めるぞ!」
「なぜ我々が決めるのですか」
ヴァルターがもっともな疑問を口にしたが、誰も答えない。
エドガーはすでに紙を広げている。
「時期尚早ではありますが、候補を考えておくこと自体は合理的でしょう」
「男児名からだな!」
ライナーが張り切る。
そのとき、フードの一人が顔を上げた。
「血統に相応しい名がいい」
「……殿下」
ヴァルターが額を押さえた。
フードが外され、第一皇子が姿を現す。
隣の男も悪びれもせずフードを取った。
第二皇子である。
「なぜ皇子殿下がここにいるのですか」
「視察だ」
第一皇子が平然と答える。
「何の視察ですか」
「……公爵家の動向だ」
「完全に私的な視察ですよね」
第二皇子が笑う。
「まあ、細かいことはいいじゃないか」
「よくありません」
ヴァルターは即答した。
しかし、二人とも帰る気はないらしい。
しばらく皇子二人を見ていたヴァルターは、やがて諦めたように息を吐いた。
「……では、続けます」
「続けるんだな」
ライナーが笑う。
「追い出せない以上、仕方ありません」
こうして、皇子二人まで加わった名付け会議が始まった。
「まずはレオン!」
「無難ですね」
エドガーが評する。
「却下」
第一皇子が答えた。
「早いだろ!」
「ではクラウス」
「硬い」
今度は第二皇子が首を振る。
「却下」
「だから早ぇって!」
次々と候補が挙げられては、誰かに却下されていく。
「強そうなのがいい!」
「品位も必要ですわね」
いつの間に現れたのか、アンネリーゼまで優雅に席についていた。
「アンネリーゼ様まで……」
ヴァルターが呟く。
「もちろんですわ。こういう大切なことに参加しない理由がありませんもの」
完全に楽しんでいる。
男児名の候補がいくつか挙げられたところで、ライナーが言った。
「じゃあ、女の子なら――」
「可憐で、芯のある名前がよろしいですわね」
アンネリーゼがすぐに応じる。
「強さも必要だろう」
第二皇子が続けた。
「品位は外せない」
第一皇子も譲らない。
「発音のしやすさも重要ですね」
エドガーまで加わる。
「短いほうが扱いやすいですねぇ」
ヴァルターも口を挟んだ。
結局、誰一人として譲らない。
候補を書いた紙は増え続け、机の上には名前の一覧が積み上がっていった。
その途中で、ライナーが何気なく口にする。
「アルベ――」
途中で言葉が止まった。
誰も続きを言わない。
ライナーはわずかに目を伏せ、それから咳払いをした。
「……それは、やめとこう」
誰も反対しなかった。
少しの間、皆の口が閉じる。
だが、ライナーはすぐに両手を叩いた。
「よし!次!」
「切り替えが早すぎます」
エドガーが言う。
「止まってても仕方ねぇだろ」
ライナーは笑った。
「せっかくの子どもなんだから、楽しく決めようぜ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
*
その頃、本邸では。
ミレイユが窓の外を眺めながら首を傾げていた。
「……今日は、なんだか騒がしいですね」
「そうか?」
アロイスは執務机に向かったまま、書類から目を離さない。
「はい。何かあったんでしょうか」
「知らん」
本当に知らないらしい。
ミレイユは小さく笑った。
「……そうですか」
まさか自分たちの子どもの名前を決めるために、皇子二人まで巻き込んだ会議が開かれているとは、思いもしなかった。
*
詰所では、いまだに議論が続いていた。
紙は増え続け、候補は一向に絞られない。
「よし、そろそろ決めるぞ!」
ライナーが宣言すると、エドガーが答えた。
「不可能です」
「同意です」
ヴァルターも頷く。
「なんでだよ!」
「候補が多すぎます」
「そりゃお前らが全部書くからだろ!」
「記録担当ですので」
「開き直んな!」
そこへ扉が開き、ルドルフが入ってきた。
騒然とした室内を見回し、長机いっぱいに広げられた紙を見る。
さらに、第一皇子。
第二皇子。
アンネリーゼ。
ライナー。
エドガー。
ヴァルター。
もう一度、机の上を見る。
ルドルフは深く息を吐いた。
「……何をしているのですか」
ライナーが胸を張る。
「名前決めてる!」
「……そうですか」
ルドルフは目を閉じた。
そして、ふと机の上の候補一覧を見る。
「ところで――」
一同が顔を上げる。
「男女、どちらなのでしょうねぇ?」
誰も答えなかった。
第一皇子も、第二皇子も、アンネリーゼも、エドガーも、ヴァルターも。
そしてライナーさえも、固まっている。
やがてアンネリーゼがくすりと笑った。
「それも含めて、楽しみに待ちましょう」
誰も反論できなかった。
*
その後、ミレイユは無事に女の子を出産した。
名前は、エルザ。
そして三年後――。
公爵邸の朝は、以前とはすっかり様変わりしていた。
門の警備は厳重になり、敷地内の巡回も増えている。
以前の三倍どころではない警戒態勢だった。
理由は単純だ。
守るべきものが増えたのである。
執務室には今日も大量の書類が積み上がっていた。
しかし、その山に手をつけるべき人物は、まったく仕事をする気配を見せていない。
アロイスは執務机に座っていた。
その膝の上には、小さな少女がいる。
三歳になったエルザは父親の腕の中ですっかりくつろぎ、アロイスも当然のように娘を抱いている。
離す気配はない。
扉の前に立ったルドルフは、その光景を見て言葉を失っていた。
「……閣下」
ようやく口を開く。
「どうか、公務をお願いいたします」
切実な願いだった。
しかしアロイスは、娘の頭を撫でながら答える。
「後でやる」
「先ほどもそうおっしゃいました」
「……」
「その前にも伺いました」
アロイスは答えない。
ルドルフは目を閉じた。
「……公爵家はいったい、どこへ向かっているのでしょうねぇ」
「ポンコツに、さらに磨きがかかりましたね」
エドガーが評する。
「発育は順調のようですねぇ」
ヴァルターも頷いた。
何年経っても公爵邸にいることについては、もう誰も突っ込まない。
一方、ライナーは腹を抱えて笑っていた。
「あっはっはっは!鉄血公爵が育児公爵になってら!」
遠慮という言葉を知らない。
「最高だな、これ!」
その声に、エルザがぱちりと瞬きをした。
小さな顔を上げ、ライナーを見る。
「ライナー」
「お、なになに?」
嬉しそうに身を乗り出すライナーへ、エルザは告げた。
「うるさい」
ライナーが固まった。
数秒後、頭を下げる。
「……すいませんでした」
謝罪が早い。
エドガーが頷いた。
「適切な指摘ですね」
「非常に有効です」
ヴァルターも評価する。
満足したのか、エルザは再び父親の胸元へ寄りかかった。
アロイスは何も言わず、その小さな頭を撫でる。
その手つきは優しく、慎重で、かつて戦場で敵を震え上がらせた男とは思えないほどだった。
ライナーがしみじみと呟く。
「……あれが、あの公爵かよ」
「同一人物です」
エドガーが答える。
「確認済みですねぇ」
ヴァルターも保証した。
その頃、廊下を歩いていたミレイユは、執務室の前で足を止めていた。
中から聞こえる騒がしい声に、嫌な予感しかしない。
ため息をついて扉を開ける。
「……あなた」
室内の全員が振り向いた。
ミレイユの視線が、積み上がった書類へ向かう。
次に、騒いでいるライナーたちへ。
そして最後に、膝の上のエルザを抱えたまま動こうとしないアロイスへ。
状況を理解するのに時間はかからなかった。
「仕事してください」
アロイスがわずかに視線を逸らす。
「……後で」
「今です」
「……」
「あなた?」
完全に逃げ道を塞がれたアロイスは、膝の上の娘を見る。
そして、苦渋の決断でもするように告げた。
「……少しだけ離れる」
「やだ」
エルザが即答した。
アロイスが固まる。
完全敗北である。
ライナーが吹き出した。
「ダメだこりゃ!」
「統制不能ですね」
エドガーが報告する。
「公務再開の見込みは薄そうですねぇ」
ヴァルターも結論を出した。
ミレイユは呆れたように息を吐く。
けれど、その光景があまりにも微笑ましくて、最後には小さく笑ってしまった。
鉄血公爵は、もうどこにもいない。
少なくとも、この小さな娘の前では。
そして、それを誰より嬉しく思っているのは――たぶん、ミレイユ自身だった。




