第12話:新婚さん
結婚式から三日後。
公爵邸の食堂には、早くもいつもの空気が戻っていた。
テーブルには朝食が並び、その中央には――やはり、赤飯が山のように盛られている。
席についたミレイユは、しばらく無言でそれを見つめた。
やがて隣へ視線を向ける。
ライナーも、まったく同じ顔で赤飯を見ていた。
「……さすがに飽きた」
真顔だった。
エドガーは何事もないように食事を続けている。
「継続的な供給が必要なのでしょう」
「何の供給だよ……」
ライナーがぼやく横で、ヴァルターが当然のように頷いた。
「慶事ですから」
「結婚式、もう終わっただろ」
「慶事ですから」
「二回言うな」
そんなやり取りを聞きながら、ミレイユはふと赤飯を見つめ直した。
「……これ、どこのお料理なんですか?」
エドガーが答える。
「大陸の東にある、小さな島国の料理だそうです」
「そうなんですね」
ミレイユの目が、少しだけ輝いた。
「素敵ですね。いつか行ってみたいです」
すると隣から、アロイスが何でもないことのように言った。
「行くか?」
「……え?」
ミレイユが振り向く。
食堂にいた全員の動きが止まった。
ヴァルターが口を挟む。
「新婚旅行ですか」
「お前、朝から何でいるんだよ」
ライナーが呆れたように言う。
ヴァルターはまるで気にしていない。
エドガーが少し考えてから続けた。
「距離を考えると、長期の旅行は難しいでしょうね。閣下もミレイユ様も、それぞれ仕事がありますから」
「長期離脱は難しいですねぇ」
ヴァルターも頷く。
アロイスは眉を寄せた。
「……では、どうしろと」
「知らねぇよ!」
ライナーが突っ込む。
ミレイユは思わず吹き出した。
「ふふ……お気持ちだけで十分です」
「ああ」
アロイスはそれ以上何も言わなかった。
けれど、ミレイユの隣に座る距離は、以前よりずっと近い。
ミレイユは赤飯を一口食べて、目を細めた。
「……美味しいです」
「俺はもういい……」
ライナーが遠い目をする。
「まだありますよ」
エドガーが告げる。
「あるのかよ!」
その騒ぎの中、マルガレーテが嬉しそうに二人へ声をかけた。
「旦那様、奥様。どうぞ遠慮なさらずにお召し上がりくださいね」
その呼び方に、ミレイユの手が止まる。
周囲のメイドたちが、わずかに身を震わせた。
(旦那様……!)
(奥様……!)
(ついに、この呼び方が……!)
声には出していない。
けれど、全員の顔に書いてある。
ミレイユはそんな様子を見て、頬を緩めた。
結婚式を終えた翌日も、赤飯は山盛りで、使用人たちは騒がしく、ライナーは朝から文句を言っている。
何も変わっていないように見える。
それでも、確かに変わったものがあった。
隣を見ると、アロイスと目が合う。
彼はいつものように、わずかに頷いた。
それだけで、ミレイユは自然と笑った。
(……居心地、いいな)
騒がしい朝も、変わらない日常も、その中にある以前とは違う「隣」も。
すべてが少しずつ、自分の暮らしになっていた。
*
皇立魔術研究所。
三日ぶりに研究所へ戻れば、いつもの日常に戻れる。
ミレイユは、そう思っていた。
「ミレイユさん!」
声がした瞬間、嫌な予感がした。
振り返るより早く、女性研究員たちが駆け寄ってくる。
「新婚生活、どうなんですか!?」
「ぜひ報告してください!」
「結婚によって精神干渉能力の発現条件に変化はありましたか!?」
「……はい?」
ミレイユが固まる。
「夫婦関係が術式構築に与える影響について、ぜひ論文化を!」
「しません」
即答した。
「継続的観測は可能ですか?」
「しません!」
「再現性は?」
「ありません!」
「では口頭報告だけでも!」
「しません!」
珍しく声を張ったミレイユに、研究員たちが黙る。
だが、すぐに別の研究員が手を挙げた。
「では、私的な興味として――」
「それも嫌です!」
ミレイユはとうとう両手で顔を覆った。
「……もう、やめてください……!」
結婚しても、どうやらこの研究所だけは何も変わらないらしい。
*
同じ頃。
帝国軍の軍事会議室では、将官たちが長机を囲んでいた。
アロイスもその一人として席についている。
議題は国境情勢、兵站、今後の軍備計画。
いつも通りの軍事会議だった。
――少なくとも、最初は。
一通りの報告が終わったところで、一人の将官が何気なく口を開いた。
「ところで、公爵家の進捗は?」
アロイスの手が止まる。
「……何の話だ」
別の将官が真顔で答えた。
「新婚生活です」
沈黙。
「国家の安定にも関わる重要事項でしょう」
「士気にも影響します」
「帝国民にとっても明るい話題です」
理由がどんどん雑になっていく。
アロイスは無言で全員を見た。
「……関係ない」
「いや、あります」
即答された。
アロイスの眉が動く。
「問題ない」
「つまり?」
「順調だ」
その瞬間、将官たちが一斉に頷いた。
「よし」
「安心した」
「引き続き頼む」
「……何をだ」
会議は何事もなかったかのように次の議題へ進んだ。
アロイスだけが、しばらく黙っていた。
(……なぜ軍事会議で、こんな報告をする必要がある)
答えは誰にも分からなかった。
*
夕方。
先に帰っていたミレイユは、公爵邸の廊下でアロイスを待っていた。
やがて玄関のほうから足音が聞こえ、アロイスが姿を現す。
目が合った。
「……どこに行っても同じでした」
「ああ」
それだけで、だいたいの事情が通じた。
ミレイユは苦笑する。
「研究所でも、結婚生活について聞かれました」
「軍でもだ」
「……そうなんですね」
「どこへ行っても同じらしい」
二人で小さく息を吐く。
そして、自然に並んで歩き始めた。
肩が触れる。
それだけで、少し落ち着く。
結婚したことは、もう二人だけの問題ではないらしい。
帝国にも、王国にも、周囲の人々にも祝福され、からかわれ、ときには勝手に観測される。
それでも、こうして二人で帰ってくれば、いつもの場所がある。
ここはもう、二人の家だった。
*
それから三か月後。
アロイスは国境へ向かうことになった。
新婚だからといって、公爵としての仕事が減るわけではない。
国境付近では、ここ数週間にわたって小規模な衝突が繰り返されていた。
大規模な戦闘には至っていないものの、相手側が兵を退く気配はなく、帝国側も警戒を解くことができない。
その両軍が対峙する国境の最前線に、アロイスは立っていた。
剣を抜くこともなく、ただ相手の隊列を見据えた。
「……退け」
それだけで、相手側に動揺が走る。
後方にいたライナーが小声で呟いた。
「出たよ、いつもの」
エドガーは相手側の動きを確認しながら答える。
「戦闘というより、威圧ですね」
アロイスが一歩踏み出す。
結局、その日は剣を交えることなく相手を退かせることができた。
だが、国境の緊張が完全に解けたわけではない。
アロイスたちは引き続き現地に留まり、警戒にあたることになった。
鉄血公爵。
戦場に立つ彼は、やはりその名にふさわしかった。
*
その夜。
野営地には焚き火の音が響いていた。
兵たちが休む中、アロイスは火のそばに座り、懐から小さな布を取り出す。
ミレイユから贈られた、刺繍入りのハンカチだった。
しばらく眺めてから、刺繍へ指を添える。
やがて懐へ戻した。
数秒後。
また取り出す。
「……何やってんだ、お前」
ライナーが横から見ていた。
アロイスは答えない。
またハンカチを見る。
エドガーが言った。
「禁断症状ですね」
「何のだ」
「夫人不足です」
アロイスが睨む。
だが、反論はしなかった。
再びハンカチへ視線を落とす。
ライナーが呆れたように息を吐いた。
「鉄血公爵の名が泣くぜ」
「夜になるたびこれでは、鉄血公爵の威厳も形無しですね」
「お前も容赦ねぇな」
火がぱちりと鳴る。
アロイスは遠い夜空を見上げた。
その向こうには帝都がある。
そして、帰る場所がある。
ミレイユが待っている家が。
そう思うだけで、不思議と心が落ち着いた。
*
一か月後。
公爵邸の門が開いた。
馬の蹄の音とともに、長い任務を終えた騎士たちが入ってくる。
アロイスの姿が見えた瞬間、使用人たちが一斉に頭を下げた。
「おかえりなさいませ!」
その中に、ミレイユがいた。
笑っている。
アロイスの足が止まる。
視線が合った。
長い任務の疲れが、それだけで少し軽くなった気がした。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
短い言葉を交わす。
それだけで十分だった。
*
その夜の食堂には、いつもの顔が揃っていた。
ライナーは早くも食事に手をつけている。
「やっぱ家の飯だな!」
エドガーが頷く。
「安定しています」
ヴァルターもいる。
なぜいるのかは、もう誰も聞かない。
そんな中、マルガレーテがゆっくりと立ち上がった。
いつもの笑顔とは少し違う。
嬉しそうで、それでいてどこか緊張している。
「……旦那様」
アロイスが顔を上げる。
「奥様から、お話があります」
全員の視線がミレイユへ向いた。
ミレイユが立ち上がる。
少し緊張していた。
けれど、その顔には笑みが浮かんでいる。
「……あの」
両手を重ね、一度息を吸う。
「……子どもが、できました」
誰も動かなかった。
言葉の意味が食堂中へ行き渡るまで、ほんの数秒かかった。
そして。
「うおおおおおおおおおおお!!!!!」
最初に爆発したのは、やはりライナーだった。
「マジかよ!!やったな!!!」
テーブルを叩く。
メイドたちも一斉に沸き立った。
「奥様、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「まあ……!」
歓声と涙が一気に広がる。
だが、その中心で、アロイスだけが動かなかった。
「……」
ミレイユを見る。
「……え?」
どうにか出てきた声は、ひどく間の抜けたものだった。
「……子ども?」
完全に理解が追いついていない。
「……はい」
ミレイユが少し照れながら頷く。
エドガーがアロイスを見る。
「珍しいですね。完全に思考が停止しています」
「そりゃ止まるだろ!」
ライナーが笑う。
「黙れ」
ようやくアロイスが返したが、その声にもいつもの鋭さはなかった。
もう一度、ミレイユを見る。
驚き。
戸惑い。
そして、少しずつ実感が追いついていく。
「……そうか」
呟いた声が、わずかに震えた。
アロイスはミレイユの前まで歩み寄る。
何か言おうとしているようだった。
けれど、言葉が出てこない。
代わりに腕を伸ばし、そっと抱き寄せた。
いつものように強く抱きしめるのではなく、腕の中にいる彼女を確かめるような、慎重な抱擁だった。
ミレイユも、その胸に身を預ける。
「……そうか」
もう一度。
今度は、確かめるように。
「俺たちの子か」
「……はい」
ミレイユが笑う。
アロイスは目を閉じ、その温もりを抱きしめた。
その周囲では、すでに宴会が始まりかけている。
「閣下、おめでとうございます!」
「奥様、お身体を大切に!」
「今夜は祝いましょう!」
ライナーは騒ぎ、メイドたちは涙を拭い、マルガレーテは何度も「おめでとうございます」と繰り返している。
ルドルフは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……本当に、よかった」
その声には、これまで見守ってきた年月が滲んでいた。
ミレイユはアロイスの腕の中で笑う。
騒がしい。
あまりにも騒がしい。
けれど、この騒がしさも今は悪くなかった。
アロイスの腕に、ほんの少しだけ力がこもる。
ミレイユはその胸に頬を寄せた。
二人で始めた新しい生活に、もう一人。
まだ姿も見えない、小さな家族が加わろうとしていた。




