第11話:祝福
公爵邸の夜は、妙なほど静かだった。
ほんの少し前まで、館のあちこちから声が聞こえ、メイドたちが忙しそうに行き交い、ライナーが何かを叫んでいたというのに、今はまるで別の場所のようだ。
もちろん、人の気配がなくなったわけではない。遠くには使用人たちの足音も聞こえるし、廊下の向こうでは誰かが話している。
ただ、誰もこちらへ近づいてこない。
――近づかないようにしている。
それに気づいたミレイユは、思わず苦笑した。
(……空気、読んでくれてるんですね)
ありがたいような、少し恥ずかしいような、何とも言えない気持ちになる。
そんな夜、ミレイユは一人でバルコニーに出ていた。
夜風が頬を撫で、遠くに見える帝都の灯りが揺れている。
明日、結婚式を挙げる。
そう思うと、見慣れた景色まで少し違って見えた。
身にまとっているのは、いつもの服だ。
それなのに、明日を思うだけで落ち着かない。
胸の奥には、どうにも落ち着かないものがある。
背後から足音が近づいた。
振り返らなくても、誰なのか分かる。
アロイスはミレイユの隣まで歩いてくると、同じように帝都の街を見下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
その沈黙は気まずくない。
今はただ、こうして隣にいることが心地よかった。
「……静かですね」
「ああ」
「珍しいです」
「そうだな」
短いやり取りなのに、なぜか二人とも少し笑ってしまう。
ミレイユは夜風に髪を揺らしながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……少し、緊張してます」
正直に告げると、アロイスがこちらを見る。
そして、意外なことを口にした。
「俺もだ」
「……え?」
思わず顔を向ける。
アロイスはいつもと変わらない顔をしていたが、冗談を言っているわけではなさそうだ。
ミレイユは目を丸くしてから、ふっと笑った。
「そうなんですね」
「ああ」
その一言が、妙に嬉しかった。
ミレイユは空を見上げる。
「ここまで来るなんて、思ってませんでした」
王国から帝国へ来たばかりの頃は、こんな未来を想像したことなどなかった。
共同研究のために滞在し、アロイスの傍で仕事をして、少しずつ彼のことを知っていった。
最初は、後見人と、王国から派遣された魔術師だったはずなのに。
いつの間にか、その距離は変わっていた。
「でも……来ましたね」
アロイスは同じ方向を見たまま頷いた。
「ああ」
そこに迷いはなかった。
やがてアロイスが少しだけ距離を詰める。
触れた手が、そのまま自然に重なった。
ミレイユは指を絡めるように握り返す。
アロイスが繋いだ手を見下ろした。
「……明日、式が終われば」
そこでミレイユを見る。
「正式に、お前は俺の伴侶になる」
確認するような言葉だった。
けれど、それはもう二人で選んだ未来だ。
ミレイユは小さく頷く。
「はい」
視線が重なる。
もう、逸らさない。
アロイスはミレイユを見つめたまま言った。
「だから、命をかけて大切にする」
飾り気のない言葉だった。
けれど、その重みは十分すぎるほど伝わった。
ミレイユは繋いだ手に力を込める。
「……私も」
そして、まっすぐに返した。
「命ある限り、隣に立ちます」
アロイスは何も言わなかった。
ただ、握った手に同じだけの力を返す。
それだけで十分だった。
やがてアロイスが身を寄せ、ミレイユも逃げることなく受け入れる。
二人の額が触れ合った。
「……明日だな」
「はい」
それだけを確かめるように、二人はしばらくその場に立っていた。
*
そして、翌日。
帝国の大聖堂は、朝から華やかな喧騒に包まれていた。
使用人たちが忙しそうに行き交い、庭園では式の準備が進められている。
帝国の貴族たちが次々と到着し、騎士たちも警備に加わっていた。
その中で、ミレイユは何度も入口へ視線を向けていた。
式を前にして落ち着かないのはもちろんだが、それとは別に、待っている人がいる。
やがて扉が開き、見慣れた二人の姿が現れた。
「……レオニード様!」
ミレイユの表情がぱっと明るくなる。
その隣にはシルヴァンもいた。
「お越しいただいて、ありがとうございます」
自然とかしこまった口調になったミレイユに、レオニードはいつものようにまっすぐ頷く。
「当然だ。王国の魔術師が他国で人生の門出を迎える。立ち会わぬわけにはいかん」
厳格な言葉の中に、どこか誇らしげな響きがあった。
するとシルヴァンが横から口を挟む。
「ついでに、上司の胃も限界だからね」
「黙れ」
間髪入れずにレオニードが返す。
ミレイユは思わず笑ってしまった。
その顔を見て、レオニードもわずかに表情を和らげる。
「それと、預かっている」
そう言って差し出したのは、上品な装飾が施された小箱だった。
「女王陛下からだ」
「……陛下から?」
ミレイユは驚きながら両手で受け取った。
さらにレオニードは、封蝋の押された書簡を差し出す。
「書簡もある。それから、リディアからも」
そして最後に、もう一通。
「アルベルトからもだ」
封に触れたミレイユの指が止まった。
「……アルベルトも」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
シルヴァンが肩をすくめた。
「みんな来たかったんだけどね。女王陛下はそう簡単に動けないし、護衛は張り付きだし、出世した騎士様も職務を放り出せないし」
軽い調子だった。
けれど、それぞれが今日という日を祝ってくれていることは、十分に伝わってくる。
ミレイユはゆっくり頷いた。
「……はい」
それから、もう一度入口を見る。
誰かを探すように。
その視線を見逃さず、レオニードが尋ねた。
「……クロウレイか」
ミレイユは目を瞬かせ、それから小さく頷く。
「……はい」
「来ない」
はっきりとした言葉だった。
「本人の意思だ。行かない、と言っていた」
ミレイユが目を見開く。
するとシルヴァンが、少し困ったように笑った。
「『泣いちゃうから』って言ってたよ」
「……」
胸が、きゅっと締めつけられる。
いかにも先生らしい。
格好をつけているようで、こういうときだけ妙に正直なのだ。
「伝言を預かっている」
レオニードの言葉に、ミレイユは顔を上げた。
「幸せに」
その一言に、瞳が揺れる。
「いつでも帰ってこい。我々は待っている」
厳格な口調の中に、確かな温かさがあった。
ミレイユの目に涙が滲む。
レオニードはわずかに口元を緩め、それから思い出したように付け加えた。
「それと……泣かされた場合は、“地獄”を見せるそうだ」
「怖いって、それ」
シルヴァンが吹き出す。
ミレイユも、涙を浮かべたまま笑った。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
少し離れたところでは、アロイスがその様子を見ている。
何も言わない。
ただ、彼女の故郷から届いた祝福を、そのまま受け止めていた。
*
やがて式の時刻が近づき、大聖堂の庭園に設けられた式場へ人々が集まり始めた。
白い花が飾られ、柔らかな光が庭を包んでいる。
列席するのは、帝国の貴族、騎士、魔術師たち。
皇家からも、第一皇子と第二皇子が姿を見せていた。
華やかな祝いの場であると同時に、帝国公爵の婚姻という大きな意味を持つ場でもある。
やがて音楽が流れ始め、ざわめきが収まっていく。
人々の視線が入口へ向いた。
そこに、ミレイユが姿を現す。
純白のドレスに身を包んだ姿は、普段の彼女とはどこか違って見えた。
胸の鼓動は速い。
それでも、もう揺れてはいなかった。
ミレイユはまっすぐ前を見る。
その先には、アロイスが立っている。
いつものように背筋を伸ばし、彼女だけを見つめていた。
一歩、また一歩。
ミレイユは、その距離を縮めていく。
隣を歩くのはレオニードだ。
やがて最後の数歩を残したところで、彼が足を止めた。
「……よく来た」
短い言葉だった。
けれど、ミレイユには十分だった。
「胸を張れ」
「はい」
レオニードはアロイスを見る。
二人の視線が交わる。
「……託す」
それだけだった。
アロイスが頷く。
ミレイユの手が、レオニードからアロイスへ渡された。
その瞬間、レオニードが一歩下がる。
すかさず、その隣へシルヴァンが立った。
「いやぁ、絵になるねぇ」
「シルヴァン、黙れ」
「はいはい」
張り詰めていた場が、わずかに和む。
そして、式が始まった。
司式者が二人へ向き直る。
「誓いを」
アロイスがミレイユを見る。
昨夜、二人だけの場所で告げた言葉を、今度は多くの人々の前で口にする。
「命をかけて、大切にする」
短く、飾り気のない誓い。
ミレイユも、まっすぐに彼を見つめ返した。
「命ある限り、隣に立ちます」
昨夜は二人だけの約束だった。
今は、それを皆の前で誓う。
風が吹き、白い花が揺れた。
そのとき、ミレイユの脳裏にレオニードから聞いた、クロウレイの伝言が浮かぶ。
――幸せに。
もう、迷いはなかった。
指輪が交換される。
アロイスの手がミレイユの指に触れ、今度はもう外すことのない場所へ新たな指輪が収まった。
ミレイユも同じように、アロイスの指へ指輪を通す。
二人の手が重なった。
司式者が告げる。
「ここに、両名の結びを認める」
静寂のあと、拍手が広がった。
最初は控えめだった音が次第に大きくなり、庭園全体を包んでいく。
その中でも、一際大きな音を立てている男がいた。
「おめでとぉぉぉぉ!!!」
ライナーだった。
「声が大きいです」
エドガーは呆れたように言いながらも、きちんと拍手を送っている。
ヴァルターも満足そうに頷いた。
「つつがなく完了しましたねぇ」
「式を任務扱いするな」
ライナーが横から突っ込む。
その少し後ろでは、ルドルフが目を閉じていた。
「……よかったです」
マルガレーテは涙を拭っている。
「……本当に」
メイドたちも、誰一人として平静ではいられない。
今日は、赤飯もブロッコリーもない。
さすがに結婚式でそれを出すほど、公爵家は壊れていなかった。
……たぶん。
シルヴァンはそんな様子を眺めながら笑った。
「やっとだねぇ」
レオニードは腕を組んだまま頷く。
その表情にも、わずかな誇らしさが浮かんでいた。
皇家の席では、第一皇子も満足そうに頷いている。
「見事だ」
第二皇子は会場を見渡し、楽しそうに笑った。
「盛大だな」
多くの視線と祝福の中心で、アロイスとミレイユは並んで立っていた。
少し前までなら、二人の間にはわずかな距離があった。
手を繋ぐだけで騒がれ、少し近づくだけで屋敷中が大騒ぎになった。
けれど、今は違う。
二人が隣にいることは、もう当たり前なのだから。
ミレイユがそっと隣を見る。
アロイスもこちらを見る。
視線が重なり、ミレイユが小さく笑った。
アロイスも、わずかに目を細める。
言葉は必要なかった。
それぞれの故郷から届いた祝福と、多くの人々の温かな視線に包まれながら、二人は並んで立っている。
自分たちで選んだ場所に。
これから同じ道を歩いていく人の、隣に。




