第9話:当然の配置
帝都の街を、ミレイユとアロイスは並んで歩いていた。
昼下がりの大通りは人通りも多く、店先には色とりどりの商品が並んでいる。
以前なら、アロイスは少し離れて後ろを歩き、周囲の警戒に徹していただろう。
けれど今は違う。
二人の距離は自然に近く、ミレイユが歩調を緩めればアロイスも足を止め、彼女が何かに目を留めれば同じものへ視線を向ける。
すっかり、恋人同士の歩き方になっていた。
「……本当に来るとは思いませんでした」
ミレイユが少し照れたように言うと、アロイスは前を向いたまま答えた。
「必要だと言われた」
「誰に、とは聞かないほうがよさそうですね」
ミレイユが苦笑する。
その少し後ろ、路地の陰には三つの人影があった。
ライナー、エドガー、ヴァルターである。
「距離は適正です」
エドガーが真顔で観察する。
「雰囲気も良好ですねぇ」
ヴァルターが続ける。
その隣で、ライナーだけが拳を握っていた。
「よし……普通だ……!」
なぜか感動している。
そんな三人の存在に気づかないまま、ミレイユが店先の小さな装飾品に目を留めた。
するとアロイスは、彼女が何かを言うより先に店へ入っていく。
ほどなくして戻ってきた手には、小さな箱があった。
「……え?」
ミレイユが受け取って蓋を開けると、そこには先ほど彼女が見ていた装飾品が収まっていた。
「これ……」
「欲しそうだった」
あまりにも当然のように言われ、ミレイユは頬を赤くする。
「……そういうところ、ずるいです」
そう言いながらも、嬉しそうに笑った。
路地の陰では、ライナーが両手で顔を覆っている。
「買った……!」
「相変わらず、そういうところだけは自然ですね」
エドガーが真顔で言う。
「言葉にするより、行動のほうが早い方ですからねぇ」
ヴァルターも妙に納得したように頷いた。
「なんでそれができて、あんなに進展遅かったんだよ……」
ライナーの呟きには、誰も答えなかった。
そこで、ミレイユがふと視線を向けた。
「……」
目が合う。
「……やめてください……!!!」
「バレた!」
ライナーが叫ぶ。
エドガーは即座に踵を返し、ヴァルターは何事もなかったかのように歩き去っていく。
「逃げないでください!」
ミレイユの声が飛んだ。
アロイスは呆れたように三人を見送り、それからミレイユの肩をそっと引き寄せる。
「帰るか」
「……はい」
ミレイユは苦笑しながら頷いた。
二人の距離は、もう意識して縮めるものではない。
いつの間にか、それが当たり前になっていた。
*
その夜。
公爵邸の廊下には、またしても怪しい人間たちが集まっていた。
ライナーは腕を組み、エドガーは何かの確認を終えた顔で頷いている。
ヴァルターは手帳を開き、ルドルフはすでに嫌な予感を覚えているらしく、眉間を押さえていた。
そして、その中央にいるマルガレーテだけが、妙に晴れやかな笑顔を浮かべている。
「配置は?」
ライナーが声を潜める。
「完了しています」
エドガーが答えた。
「他の使用人には別の仕事を割り振りました。今夜、こちらへ来る者はいません」
「室内の準備も済んでいます」
ヴァルターが続ける。
ルドルフが眉をひそめた。
「……まさか、昨日に続いて何かするおつもりではありませんよね?」
「今日は閉じ込めませんわ」
マルガレーテが笑顔で答える。
ルドルフは少しだけ安堵した。
「それなら――」
「お部屋をご用意しただけです」
安堵が消えた。
「……どのような?」
「当然のお部屋ですわ」
嫌な予感しかしない。
その時、廊下の向こうからアロイスとミレイユが歩いてきた。
一同は揃って何食わぬ顔を作る。
アロイスはその前で足を止めた。
「……何をしている」
「通常業務です」
エドガーが即答する。
アロイスの目が細くなる。
そして、その視線がヴァルターへ向いた。
「お前はなぜいつも、うちにいる」
「特務捜査官ですから」
「絶対違うだろ」
ライナーが即座に突っ込んだ。
「常駐頻度が高すぎます」
エドガーまで淡々と追い打ちをかける。
ルドルフは遠い目をしていた。
「……もう誰も追い出せないのでしょうか……」
ミレイユも嫌な予感を覚えたらしい。
「……今度は何をしたんですか?」
「何もしておりませんわ」
マルガレーテが満面の笑みで一歩前へ出る。
「ただ、今夜はこちらをお使いくださいませ」
そう言って扉を開けた。
その向こうには、落ち着いた灯りに照らされた広い寝室がある。
そして。
ベッドは一つ。
当然のように、一つだけ。
沈黙。
ミレイユはしばらくベッドを見つめた。
それから、ゆっくりと振り返る。
「……」
全員、笑顔だった。
ライナーは親指を立てている。
エドガーは真顔。
ヴァルターは満足そうに頷いている。
ルドルフだけが目を閉じていた。
「……やめてください……」
ミレイユの声が消え入りそうになる。
「当然の配置だな!」
ライナーが胸を張った。
「婚約者同士ですから」
エドガーも頷く。
「実に合理的ですねぇ」
ヴァルターまで同意する。
「どこがですか……!」
ミレイユが呻く。
マルガレーテは、そんな彼女へ柔らかく笑いかけた。
「もちろん、お嫌でしたら別のお部屋をご用意いたしますわ」
その言葉に、ミレイユが瞬く。
今度は誰も、扉を閉めない。
鍵もかけない。
選ぶのは二人だった。
アロイスは寝室を見てから、ミレイユへ視線を向けた。
「どうする」
短い問いだった。
ミレイユはベッドを見る。
それから、アロイスを見る。
頬が熱くなる。
けれど。
「……ここで、いいです」
自分で答えた。
ライナーの目が見開かれる。
エドガーの眉がわずかに上がり、ヴァルターが手帳へ手を伸ばした。
「書かないでください!」
「まだ何も書いていません」
「今、書こうとしましたよね!?」
アロイスはそんな外野を無視し、部屋へ入る。
ミレイユも、その後に続いた。
自分の足で。
扉の前で振り返る。
「それから」
外野全員がミレイユを見る。
「今日は、絶対に聞き耳を立てないでください」
沈黙。
「……返事は?」
「はい」
ライナーが答えた。
「承知しました」
エドガーも頷く。
「善処します」
ヴァルターが答えた。
「ヴァルター様?」
「承知しました」
言い直した。
ルドルフだけが深く頷く。
「私が責任を持って、全員ここから退去させます」
「お願いします」
ミレイユは心から頼んだ。
そして、自分で扉を閉めた。
カチリ。
今度は、内側から鍵がかかる。
外に残された一同は、しばらく閉じた扉を見つめていた。
やがてライナーが、ぽつりと言う。
「……行ったな」
「ええ」
エドガーが頷く。
ヴァルターが手帳を開こうとする。
ルドルフがその手を押さえた。
「帰りますよ」
「まだ何も――」
「帰ります」
有無を言わせなかった。
マルガレーテは閉じた扉を見つめ、そっと目を細める。
「……よかったわね、坊ちゃん」
その声だけは、からかいではなかった。
*
寝室の中は、驚くほど静かだった。
廊下にいた人間たちの気配も、今はもう遠い。
ミレイユはベッドの端に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。
「……本当に、こうなるとは思いませんでした」
「俺もだ」
アロイスは正直に答えた。
ミレイユが少し笑う。
「ですよね」
しばらく、二人の間に穏やかな沈黙が流れた。
以前なら、この沈黙をどう埋めればいいのか分からなかったかもしれない。
けれど今は、隣にいることそのものが心地よかった。
やがてアロイスが隣へ腰を下ろす。
ミレイユは少しだけ迷ってから、自分からその肩へ寄りかかった。
アロイスの腕が背中へ回る。
包むように抱き寄せられ、ミレイユは小さく息を吐いた。
「……落ち着きます」
「そうか」
それだけ。
けれど、それで十分だった。
静かな部屋で、互いの呼吸だけが近い。
しばらくして、ミレイユが小さく笑った。
「……なんだか、変ですね」
「何がだ」
「昨日は、あんなに騒がしかったのに」
アロイスも思い出したのだろう。
眉間にわずかに皺が寄る。
「忘れろ」
「無理です」
ミレイユは笑った。
「扉、壊しましたし」
「鍵だ」
「同じようなものです」
「違う」
そんな他愛のない会話が、妙に心地よかった。
やがてミレイユは顔を上げる。
アロイスと目が合った。
昨日のように、誰かに閉じ込められたわけではない。
誰かに急かされているわけでもない。
ここにいることを選んだのは、自分だ。
ミレイユは少しだけ身体を起こし、アロイスへ近づいた。
その意図を理解したように、アロイスの手が頬へ触れる。
唇が重なった。
ゆっくりと。
昨日よりも穏やかに。
離れたあとも、二人の距離は近いままだった。
ミレイユは再びアロイスの胸元へ身体を預ける。
「……今日は、これでいいです」
「ああ」
アロイスの腕が、もう一度彼女を抱き寄せた。
急ぐ必要はなかった。
これから先、一緒にいる時間はいくらでもある。
今夜は、ただ同じ部屋で、同じ静けさの中にいられる。
それだけで十分だった。
*
翌朝。
食堂のテーブルには、過去最大級の赤飯が鎮座していた。
「……」
ミレイユは立ったまま、それを見つめる。
そして、ゆっくり両手で顔を覆った。
「……やめてください……」
マルガレーテは満面の笑みだった。
背後に控えるメイドたちも、必死に平静を装っている。
ただし、小声は漏れていた。
「一緒のお部屋だったのよね……」
「朝まで……」
「よかったわねぇ……」
「何も知りませんよね!?」
ミレイユが振り返る。
メイドたちは一斉に目を逸らした。
「何も聞いておりません!」
「聞くなって言いましたから!」
「ちゃんと守りました!」
守ったことだけは事実らしい。
席に着いたミレイユの隣で、アロイスはいつも通り食事を始めた。
ライナーも妙にそわそわしている。
やがて我慢できなくなったらしい。
「……で?」
ミレイユの肩が跳ねる。
「どこまでいった?」
「やめてください……!!!」
「ライナー様」
マルガレーテの声が飛んだ。
「そこまでです」
「いや、だって気になるだろ!」
「知る必要はありません」
ルドルフもぴしゃりと言い切る。
エドガーが眼鏡を押し上げた。
「昨夜については観測していません」
「詳細不明ですねぇ」
ヴァルターも頷く。
「それでいいんです!」
ミレイユが即座に返した。
「そこが一番大事だろうが!」
「大事じゃありません!」
ライナーは不満そうだったが、さすがにそれ以上は追及しなかった。
ミレイユはまだ赤い顔のまま、隣を見る。
アロイスは何事もなかったように食事を続けている。
その姿を見て、小さく息を吐いた。
「……普通にしてください」
「ああ」
アロイスが答える。
これでようやく落ち着ける。
そう思った直後。
アロイスの手が伸び、ミレイユの頭を軽く撫でた。
「……」
ミレイユが固まる。
ライナーの目が見開かれた。
「今の何だ!!!」
「日常的な接触でしょう」
エドガーが答える。
「安定していますねぇ」
ヴァルターも頷く。
「だから分析しないでください……!」
ミレイユは再び顔を覆った。
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいる。
マルガレーテはそんな二人を見て、満足そうに微笑んだ。
「ええ。もう、好きになさってくださいな」
背後のメイドたちから、小さな歓声が漏れる。
「……いいわねぇ」
「ようやく普通の恋人みたい……」
「閣下が……」
ルドルフは深々と息を吐いた。
「……公爵家はいったいどこへ……」
誰も答えなかった。
ミレイユはまだ少し照れながら、それでもアロイスの隣から動かなかった。
二人にとって、その場所はもう――当然の配置になっていた。




